ストローソン、オースティン、サール、グライスと続く系譜が、仏でも英米でも発話行為と政治を論じる鉱脈なのだ、ということがあんまり知られてないのが響いているのかもしれない。
フーコーのパレーシア論、デリダの秘密や約束をめぐる議論、ドゥルーズガタリの言表の議論はだいたいオースティンから改造して生まれている(DGの場合はオースティン改としてのデュクロも挟んでいる)。
いま、ミルプラトー「言語学の公準」的な仕事をするなら、グライス以降の仕事をマイナー政治性を高めて再編することなんだろうなあ、とか思ってミルプラトーは読んでた。