子供を産むということ
それは自分の人生を大きく変えるということ
これもまた不可逆性のこと。
責任を全て負うということ。
障がいを持つ子を産むリスク
死ぬまで寄り添って育てなければならない現実
一見なんら普通の子供に見えても
大きくなるうちに「あれ?」という事が増えて
初めてアレルギーに気づいた日
初めてアトピーに気づき日
他の親にも聞く。
初めて発達障害に気づいた日
初めて弱視に気づいた日
初めて難聴に気づいた日
毎日学校へ通い
いい成績をとり
いい偏差の学校へ行き
友人を、人脈を作り
いい会社に入り
安定した収入を得る。
そうすれば、幸せになれると思ってた。
そのためにも、出来る範囲で選択肢を与えつつ、心も身体も健康に育てなければならない。
働きながら。
インターネットが発展し、人は色々な情報を手に入れられるようになった。
何が正しいか、何が間違いかわからず。
携帯ばかり見て自分の子を見ていない時期もあった。
今もたまにある。
みんなみんな、他人を幸せに育て上げられる自信が無いんです。
だから、リスクを背負わないために産まないという選択をする。
自分も1人以上は無理だと判断した。
この世に不幸な人間が1人でも減るように。
その分1人を幸せにしたい。
そんな思いだった。
産休育休、ある程度期間が決まっている。
産育調査があるから講師の必要人数も把握しやすい。
イコール予算確保しやすい。
わかる。
そして、教育職員から少子化解消を…。
という狙いも少なからずあるとは思ってる。
制度を見直し、現状を分析し、出来るところを探して、実行する。
すごいな。私には勇気が無い。
それとは別の話として
突発的な療養休暇、突然の退職者が多すぎる。
正規職員でも「管内休補」という新たな職種?の人員が増え、正規職員が突発的な療休者所属へ入る。
欠補臨任として他校で年間勤務人員を確保しておきながら、
正規が欠員を埋めるために転々とする。
何故この話をしているかと言うと、
私にも話が来ているからである。
同一市内10年以上は、市教委へ報告されて、人事で強力な市外異動を勧められる。
市外へ行けない代わりに異校種へ行き研鑽を積むという、うまい言い訳をしたが。
次はどうなる事やら。
今日は久々にリアルタイムでテレビを見た。
障がい者の活躍できる機会を!
と銘打って、コンサルしてる人たち。
みな人間ですから。
わざわざ、そう言わなくても良いんじゃない?本当にそう願ってる?金儲けの材料としか思ってないのでは?と邪推する。
現に、乗れる波には乗ると。それはそれで潔い発言だった。
当事者がそれを願い、ハンデを逆手にとっての雇用で活躍したり、手帳で割引したりするのは本人の自由だけど。
話は変わって
他人が他人を障害者呼ばわりしたり
他人が他人の出身やルーツを蔑視したりするの未だに許「せ」なくて。
かつ、そういう人を野放しにして関わり合おうとする人達も。
それもまた、一人一人を見てると。
「関わりたくないけれど、向こうがしつこい」
「切ったら何されるか分からなくて怖い」
と。その気持ちも、とてもわかる。
自分もまた、同じような事を人にしているのでは、と、不安になる時もある。
それならそれで、優しくフェードアウトしてくれればいい。真綿で首を絞めてくれ。
ずっとずっとずっと良い顔して内情を探り続け、怒りの矛先をこちらへ向けさせ、圧倒的不利な環境を作り、期が熟すのを待つ状態まで来た。
向こうのそれが正義を貫くと言うなら
私は私の正義を貫く
それだけ。
学力が必要なのは重々承知の上で。
テストでは測れないような力も、必要だよなと思う。
それが「生きる力」とか「EQ」「非認知能力」と言われているものかどうかは置いといて。
社会で生きていくために必要なスキルを「能力」という言葉と定義し。
平等に客観的に判断するために、能力の高低を数値化、指標とする。
統一学テ、通知表、指導要録の時点で既に始まっている。
そして受験戦争から、学歴採用…。
分かりやすいんだよね。
頭の良さ=高能力、努力の証みたいな。
子。
テストで間違えても「間違えたなら、もう一回やり直せばいいじゃん?また間違えちゃったら、またやり直せばいいよ。」みたいな事を、さらっと言う。
感心しますね。
間違いを間違いと素直に認め、やり直す。
わからない事を、素直に分からないと言える。
私みたいに「完璧にやらなきゃ」といった変なプライドが一切無いの、本当に尊敬する。
そのマインドを、メンタルを大人まで持って行って欲しい。
この両親から、どうしてこんなに素直な子が産まれ育つのだろう。
保育園や学校の環境が良かったんだろうな。
一歩間違えたら終わる、不可逆性を持ったもの。例えば命に関わる事とか。
そう言ったものも、もちろんあるのはわかってる。
その寛容さと素直さは、テストじゃ測れない。
やはり様々な経験は、人生の糧になる。
良いか悪いか、豊かになるか、そうでないかは別として。
人の思考が共有出来たらそれはそれでえらい事になると思うけど。
そういう世の中もいつか来るのかな。
現実、イーロンは脳にチップ埋め込んでるし。
共有出来ないからこそ、一人一人オリジナルの人生があって、みんなが既に知っているような事も一から学んで、成長していく。
なんて無駄な事してるんだろう。
と、思いつつ。
無駄なことをする事自体に価値を見出す。
そんな人もいる。
というか、そこから新たな価値が産まれる。
研究。
この職種が効率化だ平準化だと、そっちの方向しか向いていないからこそ、価値を見出せない。
研究職にとってはそれが本業でそれでお給料貰ってるから。
人、金、モノ、そして「時間」
全てにコストかけてナンボの世界。
世界は広い。
ひとつの事を継続する事
たくさんの事柄を集める事
どっちつかずで中途半端だな。
ま、いっか。
わたし1人消えたくらいで
世界は変わらない。
見るも見ないも自由。 お気持ちと言う名の産業廃棄物 最終処分場