公の場で書くようなことではないけれど、いつか読み返す記録として残しておこうと思う。
今日、父が余命宣告を受けた。悪性のリンパ腫ってやつ。去年から抗がん剤治療を受け、11月、最後の入院でめでたく腫瘍が消えて家族で喜んでいたのに、2月末に再発の気配が。3月に受けた診療で正式に再発が認められてしまった。
そして今日、治療方針を決めるための話し合いに付き添いとして父が指名したのは、同居の弟ではなく(母は腰が痛いため難しい)、離れて暮らす私だった。それだけ信頼があるのだと思い、覚悟してその場に臨んだ。
手っ取り早く言うと、強い抗がん剤治療を受けるにも臨床試験中の新薬を試すのにも、年を取り過ぎているらしい。何かしても何もしなくても、2年以内生存率が10%というシビアな内容だった。
帰りに父と珈琲を飲みながら今後の相談をした。地域にホスピスはなく(東京との医療資源の差は1/8だという)、緩和ケアに移った時に苦労しそうだ。
月末から始まる一応の治療入院前に、最後になるかもしれない家族旅行にいく予定。良い場所が見つかるといいけれど。
治療方針の説明時、先生のLIVING WILLという言葉に父がきょとんとしたので「延命治療のことだよ」と言い換えた。でも、LIVING WILLのほうが前向きに聞こえていいな。
朝早くに電話が鳴り、ドキッとした。定期で受けている乳がん検診の受診日を知らせる自動音声のメッセージだった。最後に流れる「予約をキャンセルする場合は1を…」の案内に一瞬、ボタンを押しそうになった。今日は雨で肌寒い。夕方〆切の翻訳講座の課題が手つかず。それもあるけれど、明日から、おそらく最後の入院になる父に付き添う。気が重たい。
本当は先週、入院前のまだ元気なうちに家族旅行をする予定だった。豪華ではないけれど、湯河原のホテルを予約した。父母にはまだ告げていない、左腕に入れたタトゥーを隠すシールも買った。でも直前になって父から済まなそうに「やめておこうと思う」と連絡があった。入院のことが気がかりだという。実は余命宣告を受けたとき、色を失った父の顔を見て咄嗟に父の長兄である伯父のことを引き合いに出してしまった。リンパ腫のがんが全身に広がり、余命半年と言われたにもかかわらず、3年ほぼ元気に生きた。それが余計な希望を抱かせてしまったのではないかと後悔している。どこかで諦めなければならない瞬間が必ず来る。父が精神的・肉体的にこれからどうなるか想像もつかないけれど、最期まで支える勇気を私に与えてくださいと、誰にともなく祈る。まずは自分が元気でいなくてはねと、出かける支度をしている。少し贅沢なスイーツを買って帰ろう。
考えても仕方のないことで頭を悩ませるうちに終わってしまった感のある5月。水曜日は父を病院に入れてきた。コロナ禍のしわ寄せは今もあるらしく、それなりに広い入院専用の待合室も席はとっくに埋まり、寄りかかる壁もないほどの混みようだった。父の分の席を確保して、少し離れたところで手の中の紙の番号が電光掲示板に表示されるのを待った。父はせっかちで(残念ながら私はこの形質を受け継いでしまった)、遅々として進まない番号にイライラしていた。待合のほとんどは老人、その中に埋もれる一人の老人としての父の姿を遠くから眺めるのは奇妙な気分だった。
抗原検査を終え、諸手続きをし、やっと病棟へ。家族は今も部屋までは行けない。治療について先生から説明があるというので、待つことにした。ただし、外来が終わってから来るため、いつになるか分からない。父は時間を気にしてしきりに帰っていいと気を揉んでいたけれど、先生の都合で後からかかってくる電話のほうが厄介だ。こういうときに電子書籍のありがたみを実感する。1時間ほどして担当医が来た。今どきなのか若いからか性格のなのか分からないけれど、副作用について割とズバズバと「死もあり得ます」を連発するので、不謹慎ながら可笑しくなってしまった。父もそんな顔をしており、親子だなと思い、また、少し安堵もした。
ひと月かかるかもといわれた父の治療入院は3週間ほどで終わり、昨日迎えに行ってきた。私の状況は最悪でトイレに立つ間も惜しいほど仕事が山積していたけれど、月曜まで待てとは言えない。今日は父の日だし。今回で4回目となる抗がん剤治療は、身構えていた家族一同、拍子抜けする副作用のなさだった。そもそも投薬を受けていたのが入院期間の5日ほど。あとは白血球を増やす点滴やリハビリなどして過ごしていたらしい。
初回は低ナトリウム血症になり譫妄状態に陥って「帰る」と言い張り、看護師さんを困らせたらしい。夜中、看護師さんが済まなそうに電話をかけてきた。私から看護師さんを説得してくれ、という本人たっての願いだったようだ。話が通じるようで通じない父との会話を、背筋が凍る思いをしながら続けた。幸い、ナトリウム値が正常に戻ると元の父に戻った。
だから、あまりにも楽だと逆に心配になってしまう。苦しめばいいとは思わないけれど、抗がん剤=地獄の苦しみ、とトレードオフで効果が得られるものという先入観があるのだろう。
お酒を飲んでも大丈夫とのことで、今日届くように少し贅沢なクラフトビールを贈った。夕飯に楽しむとメールがあった。今日は顔を見に行かれなかったけれど、自宅で酒を愉しめるよう取り計らえたのだから、これも立派な孝行だと自画自賛している。
余命宣告を受けた時のことを振り返っている。帰宅後、父から「落ち込んだけれど、毅然とした態度でてきぱき先生に応対してくれて気持ちが楽になった」とメールがあった。家族に来てほしいと言われたことや、再発が早すぎる時点である程度覚悟はしていたので、先生から厳しいことを言われたときの気持ちは「ああやっぱり」だった。
あのときに、泣いて先生に「何か方法はないですか」とすがればよかったのか。悲しさを表面化させることイコール愛情の表現になるのだろうかと今も考えているけれど、答えは出ない。父は私のことをとても頼りにしている様子、ならば最後まで、父がいなくなっても大丈夫だから、やっていけるから、という姿を見せ続けたほうが安心して穏やかな気持ちでいってくれるのかな。それとも、自分がいなくてもいいんだなという寂しい気持ちにさせてしまうのか。とても悩ましい。
連れ合いに聞いてみたいけれど、家族で苦労した人だから、これ以上悩ませたくない。自分のことだけ考えて生きてほしい。だから、たぶん相談はしないと思う。
そんなことを考えながらうたた寝をしていたら枕にした袖が濡れていた。連れ合いには「マスカラ塗り過ぎちゃったみたい、しみたわ」と言って顔を洗いにいった。
悲しみに封印をしようと思う。その分ここで吐き出してしまいそうだけれど。