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結局、毒の効果や成分をいくら列挙したって、毒の味が飲んだことのない人に伝わるわけもないので、表現物にするということの限界(仮)を感じてしまうわけなんだけど
漫画で表現をするとき、漫画は特に分かりやすさが大切だから、「見た目が派手で分かりやすい状況や行為」「定型の表現方法による感情表現」ばかりが採用されてしまうのはある程度そういうもの。そのたびになんとなく自分と漫画世界との差異を感じてしまうし、差を感じずに読める人々との溝も広がる一方になってしまうのではないかと不安になるよね
毒親とかは本当は、「何をされたか」よりも「1人の人間がどう思ったか」を大切にしてほしいと、個人の苦しみからは思うのだけどね。それを表現できるほど、漫画の技術も漫画を読む人間の読解力も足りないかもしれない(でもそれは小説でも映画でも、どのコンテンツでもきっとそう)

ふんわりはなすよ

親との関わり方が拗れきってしまっているので、創作における「仲良しの幸せ家族」も「虐待家庭」も大抵どちらも受け付けないのだけど、そうすると一昔前のラノベでよくあった「親は海外出張中」という親を物語から排除するご都合設定は案外と居心地がいいものだったのかもしれない。あるいは、血筋を重視しないファンタジー物語など。もちろん(少年)漫画とかもね

ジャン+のコメントで「読み切りがいつも"毒家庭で苦しい自分にLGBTの友達ができて前向きに生きていけました"ばかりだな」ってのがあって、その傾向は本当に感じるし、(作者がどうかは知らないけど)家庭環境やLGBTの苦境をライトにエンタメコンテンツとして消費する傾向は、例えそれが「毒親」「LGBT」という単語の表層を浸透させるのに一役買うとしてもあんまり好きじゃねぇなぁと思う

百合の蕾が咲きつつある
良い匂いするね〜

お裾分けのお花写真
せっかくお花があるのにお花を眺める時間を取る心の余裕がなくてモダモダしてたけど、覚悟を決めることが始まりだよね〜明日はお花を眺める時間を作ろうと思います。お前は絵を描くのが趣味なんだからのんびり眺めて絵でも描いてみたらええねん

最近アジアの文化とか興味出てきたけど、だからこそ触り方に線引きとか客観性を持っていたいな〜と思う
高貴な野蛮人的なね

でもこの前、民俗学の展示行ってきてさ〜展示の方はしっかりしてるけど、私含め観る人の方の姿勢はコントロールできないわけで〜キャプションがないまま「あなたの感じるままに」だとなおのこと〜
そこに「遅れてる〜」とか「いやぁこの素朴さが良いですなぁ」とかそういう読解が私の中に生まれたらどうしようって不安にはなる
第一、民俗学は民族文化と結びついてるのに、単にお祭りの衣装や彫像なんかを飾っただけで「民俗学」の要素に触れられるもんなんかいね
民俗学の要素は別のところに感じられたけどね

博物館、「教える展示」から「感じ取ってもらう展示」が主流になりつつあると思うんだけど
知識を食べるのが好きな人間だから、キャプションとかを少なめにされるとちょっと満足度が落ちる
難しい
知識が好きなのか衒学なのかわたし

非認知コミュニケーション能力とか、めちゃ注目されてるし大事だと思うけど
現代アートとかは「何を表現したか」よりも「何を感じ取られるか」を重視した姿勢な気がするから展示と相性よさそうだけど
割と私も好き勝手解釈する作品の見方が好きだし楽しいけど

分からん…自分が「しごでき」になれない劣等感かな…?

昨年は、障害者雇用と職場のバリアフリーみたいなことをよく考えていたから、「しごできカッコイイ」よりも「みんなが自分に合った環境とやり方で自分のできることをやり、社会に参画する」みたいなことの方がよっぽど眩しく思うけどナ

そんでそれがかなりライトで楽しい言葉として受け入れられていることもなんかすごく腹立ってしまう…

「しごでき」という言葉がめちゃ嫌いで、その理由は、仕事をこなすということには適性のある配置・体調体力など仕事と関係ない要素がたくさん絡み合ってるのに、良い環境と個人能力をラッキーに得られた人だけフォーカスされて、得られなかった人を無意識に蔑む姿勢が感じられるのが嫌なんだと思っていたけど(長い前置き)

単に「しごでき」を使う時の「しごと」の想定が「スーツ着て、企画書書いて、内外と折衝して、スケジュール管理して…」なイケイケ職サラリーマソ✨しか想定されてなさそうなところも嫌いなのだと気付いた。偏見だけど
効率が良い人に使うべき形容詞として生まれた言葉なのかな〜(だからそこ以外の使用例を想定してないことに文句言うべきじゃない?)
情緒的な能力も必要な職に「しごでき〜」とはあんまならんだろ〜って思う。色んな例の中では顕著にそう感じる。

受容論ってやっぱり面白いんだろうなぁ〜〜〜大学でもっとやっておけばよかったなぁ〜〜〜死

フェミニズム的新解釈トゥーランドットしか見てないので、「愛の物語トゥーランドット」って言葉を見て「愛の物語?????」ってなったけど、原作は愛の物語か…そっか…新国立劇場のトゥーランドットは愛の物語ってより「愛()に敗北し壊されるある女性の人生と信念」って感じだった
こんな感じで新解釈だけに触れたら、それが主流になったら、文学ってどうなるんだろう?って思っていたけど、最近またサロメの話に触れることがあったのでまあいっかになった

コロナ禍で見た、国立劇場のトゥーランドット、面白かったから…また見たいな…面白かった。面白かったんだよね?面白いのかな。面白いと私は思ったけど。面白い、でいいのかな?分かんないな。分かんない。演劇見たことなんてほとんどないし…
ただ、正解の感想を探しちゃあ駄目だぜってのは分かる

あと会場が東京?横浜?っぽいのも分からない。行けるのかな?予定空けられるかな?

劇団四季じゃなくても、オペラ座の怪人じゃなくても、なにか舞台を見たいなぁ〜って気持ち。あーあー、舞台を見に行くという習慣が遠いよ…

オペラ座の怪人を舞台で見てみたいんだけど、24年の劇団四季どうなのかなぁ?って考えてる。劇団四季、2回ぐらいしか見たことない。小学校の遠足で。

今日雨なの、めっちゃいいかもしれない。外から雨の降る音がするのがいい。もっと雨音を聞いておけばよかったかもしれない

その点お絵描きはまだあんまりストレス感じてない。「うまくあれ」みたいな気持ちが薄い。「うまく描けたらよりハッピー」ぐらい。オタクたちが「どんな作品でも推しが一件増えたらそれだけで最高。神。ありがとう」と声を大にして言ってくれるからだと思う。
「ネット上では上手い人が幾らでもいるから自信なくす」と対極のメリットだと思う

とにかく自分に自信がないので創作することはかなり不安があるんだけど、かといって"正しさ"を求めて勉強に逃げたってそれは「学術的には正しくない」で打ちのめされるし、そこから更に逃げて研究の分野に行ったって結局"正しい研究"なんてないんだから…と最近ひしひしと感じる。必要なのは正しさではなく自信でしょー!
創作の不安から逃げて、権威に縋るのもきっと間違いだろうし、そんなことしたって私は胃もたれするだけだろうなとも思ったり…

勉強するの好きだから、将来はまた大学に通いたいと思ってるし、可能な限り学術や芸術の分野に足突っ込んでいたい…のだけど、どうすればそれが実現するのかがさっぱりだ〜とにかく今は自分で好きなもの好きなだけ勉強して、お金貯めてればいいかなぁと甘めに見積もってる

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