怒りを発露するのが極端に苦手だから、自我が薄かった頃は「普通の人(?)ってすぐ怒る」みたいなイメージがあり、その次に「ちゃんと怒れる人はえらい」みたいな感情が芽生えてきたのだが、
私の中で「ちゃんと怒れる人」と認識した周囲の人のうち、「愚痴っぽい人」「怒りを愚痴として私に聞いてもらいたがった人」だけが長期的に見ると悪い方向に変化する結果になってて、その辺に結構強い因果関係があるんだろうな…と実体験として感じてしまっている…(そして私が愚痴聞いたのも悪かったかもしれんとなんともやりきれない気持ち)
私の親との親子関係があんまりよろしくなくて(しかし絶縁してるという訳でもなくて)たまに「とても嫌 」みたいな事態が発生するんだけど、親子関係の話って時間の蓄積もすごいし独自文脈多すぎて、あと私も結構いい歳だから「親だけが絶対に悪」って割り切れる感じじゃないんだよな~
人間だからお互いに完璧な対応はできないしその積み重ねがあり…
そしてインターネットで不特定多数に向けて言う愚痴って「相手が完全に悪く、私だけが絶対的に被害者」ってポジションを得て安全に慰撫を得たいという構造になってしまうので(そうでなければ不特定多数に逆に自分の非を指摘されてダメージを負ってしまう)そこに無理やり寄せてまで他人から慰撫を得ようとするもんじゃないな…という感じがする
「より知識がなく立場が弱い人間に自己決定させるとより悪い方に行くかもしれないから、専門的なアドバイスをしたり弱者を守るための制度を整備して、それを守ってもらおう」みたいな事って、世の中にはありふれていて
医者の言いつけと素人の患者の意見だったら、医者の処方や言いつけ守った方が大抵は上手く行く 私の飲みたい薬を出せとか言ってもそうはいかない
子供はお酒もタバコもダメだし色々制限がされている
多分その多数の中に不当な事例があることはあると思ってて、「それは不当だ!」て言っていくべきことはあると思ってる
でもこういうパターナリズム的制限が一律で差別的でアウトなのだ、という思考は結構危なっかしいと思う
子供でもお酒もタバコもギャンブルもなんでもやっていいですよ! 自己決定権!! とか言っちゃったら、付け込まれて困るのは弱者の子供の方なので…
人に優しくするためにまず自分に優しくする