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塗り薬やハンドクリームのチューブを取りやすく整頓するには。小さなチューブ類が結構ある。

物に対して置場所と収納場所が少ない。書類も整理したい。仕舞ったままのCDもひさしぶりに聞き返したり手紙もきれいに整理したい。ほこりを払わないと。

「いつまでこだわっているんだ」という言葉のこと。
QT: fedibird.com/@takako3599/11296
[参照]

 
https://japan.hani.co.kr/arti/international/23573.html  “しかし、歴史が語っているように、被害者を最終的に黙らせることは不可能です。「蒸し返さない」という約束は両政府間ではありえたとしても、被害者との間ではありえないことです。「慰安婦」問...

『目の眩んだ者たちの国家』を少しずつ読んでいる。遺族へのバッシングのパターンに酷さと既視感を覚える。「いつまでこだわっているんだ」という。

さんがブースト

 “「理解」とは、他人の中に入っていってその人の内面に触れ、魂を覗き見ることではなく、その人の外側に立つしかできないこと、完全に一体にはなれないことを謙虚に認め、その違いを肌で感じていく過程だったのかもしれない。その上で、少しずつ相手との距離を縮めていって、「近く」から「すぐ隣」になることなのではないか。そのような理解が、傾聴が、共感が、この危なっかしい傾きという問題の答えを見つけなければならない私たちの世代に必要なことであり、制度を作ったり直したりする人たちにとってもやはり、監視と処罰の前に、統制と回避の前に、一番初めにすべきことだったのかもしれない。“

「傾く春、私たちが見たもの」キム・エラン
『目の眩んだ者たちの国家』
shinsensha.com/books/1043/

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さんがブースト

[前略]“私がようやく見つけ出した答えは、もし私たちが他人の内部にまで入っていくことができないのならば、とりあえず近くに立ってみることが最初にすべきことなのかもしれない、ということだった。その「近く」に立つために、時には脚が震えたり顔が赤くなったとしても、まずは立つだけ立ってみるのが正しいのではないか。”

「傾く春、私たちが見たもの」 キム・エラン
『目の眩んだ者たちの国家』
shinsensha.com/books/1043/

一年が終わっても改まっても解決しないことはあるから、覚えている。

忘年会の話もちらほら見かける。ここ数年会社のそうした催しには参加していない。せずに済んでほっとしている。

さんがブースト

続き。
食べることと出すこと
igaku-shoin.co.jp/book/detail/

「人前で恥をかくと、他人に服従しやすくなる」

 “支配欲を満たそうとする人は、自然と、人に恥をかかせようとする。いじめをする子どももそうだし、女性を辱めようとする男性もそう。
 昔は、新人社員は宴会で恥ずかしい芸をさせられたが、それも、恥をかかせておけば、あつかいやすくなるからだ。だから上司は、芸をやらないことを許さない。
 「態度のデカいやつだ。恥をかかせてやる」などと陰口をたたいたりするのも、恥をかかせればデカい態度はとれなくなるということを、じつはみんなよくわかっているからだ。
 「恥」というのは、じつにおそろしい。
 そして、排泄と恥は強く結びついている。”

第5章 出すこと
 

この後クンデラの『出会い』(評論集)を例に取っていて、昔読んだ『冗談』(小説)も、そういうところがあったことを思い出した。

権力勾配、傾斜があるところ(どこにでもある)、放っておくと支配欲がどんどん増大していく。

とはいえそんなに長い休みというわけではないし、体力の回復に充てられそう。あと掃除。体力がないと掃除できない。

〖全文公開〗ハン・ガン ノーベル文学賞受賞記念講演 「光と糸」
book.asahi.com/jinbun/article/

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この話が良かった。

Radio Dialogue ゲスト:真鍋祐子さん「韓国文学と民主化」(2024/12/11)
d4p.world/29869/

「非常戒厳」許さなかった韓国市民 民主化の犠牲者に「恥じぬよう」
asahi.com/articles/ASSDM210HSD

 「韓国には今も国家保安法があります。韓国政府を樹立した48年に当時の李承晩(イスンマン)大統領が、反対勢力にアカのレッテルを貼り、社会的に抹殺するために制定した法ですが、これは大日本帝国期の治安維持法を下敷きに作ったといわれます。社会の両極化を制度として正当化している側面があり、そこにはかつての日本も深くかかわっているのです」

今年読んだ本のことまとめたい。『少年が来る』のこと。年末に調子を崩さず読めると良いけど。

 “「理解」とは、他人の中に入っていってその人の内面に触れ、魂を覗き見ることではなく、その人の外側に立つしかできないこと、完全に一体にはなれないことを謙虚に認め、その違いを肌で感じていく過程だったのかもしれない。その上で、少しずつ相手との距離を縮めていって、「近く」から「すぐ隣」になることなのではないか。そのような理解が、傾聴が、共感が、この危なっかしい傾きという問題の答えを見つけなければならない私たちの世代に必要なことであり、制度を作ったり直したりする人たちにとってもやはり、監視と処罰の前に、統制と回避の前に、一番初めにすべきことだったのかもしれない。“

「傾く春、私たちが見たもの」キム・エラン
『目の眩んだ者たちの国家』
shinsensha.com/books/1043/

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