“そしてさらに広い、別の恥辱感がある。それは世界に対する恥辱感だ。ジョン・ダンが忘れられないような形で言った言葉がある。それは強制収容所についてや、そうでない場合に、数え切れないほど引用されたのだが、それは「いかなる人間も孤島ではない」、いかなる死の鐘も生きているすべての人のために鳴っている、という言葉である。しかし他人や自分自身の罪を目の前にして、背を向け、それを見ないように、それに心を動かされないようにするものがいる。ヒトラー統治下の十二年間、大部分のドイツ人はこうしてきた。彼らは、見ないことは知らないこと、そして知らないことは彼らの共犯や黙認の度合を減らす、という幻想を抱いてきた。→
3 恥辱
『溺れるものと救われるもの』
https://publications.asahi.com/product/21490.html
“私たちの中の正義のものたちは、その数はいかなる他の人間集団とも変わりがなかったが、自分ではなく、他人の犯した罪のために、良心の呵責や恥辱感を、つまり苦痛を感じていた。彼らはそれに巻き込まれていると感じていた。なぜなら彼らの周りで、彼らがいた時に、彼らの中で起こったことは取り返しがつかないものだと感じていたからである。それを洗い流すことなど絶対にできないだろう。人間は、人類は、つまり私たちは、計り知れない苦痛の大建造物を作り上げる能力があることを示したのだ。苦痛とは支出や労苦もなしに、無から作り出せる唯一の力である。何も見ず、何も聞かず、何もしなければいいのだから。”
3 恥辱
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→しかし私たちには、意図的な無知の防御壁、T・S・エリオットの言う「部分的な防御壁」は否定されていた。私たちは見ないことができなかった。かつても現在も、苦痛の海が私たちを取り巻いていて、その海面は年々上昇し、私たちを溺れさせるまでになっている。目を閉じたり、背を向けることは無益であった。なぜならそれは私たちの周り全体に、地平線のかなたまで、あらゆる方向に存在したからである。私たちには孤島であることは不可能だったし、それを望みもしなかった。”
3 恥辱
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