“オメラスを拒絶してむかう先はわからない、あるのかどうかもわからない、かれらにはわかっているようにはみえるが、それだってわからない。だれひとり不幸な人間がいない世界なのか、だれもがこうした不幸を少しずつ分かち合う世界なのか、それとももっと別のものなのか。わかっているとしたら、おそらく、もはやじぶんはこの世界に居つづけることはできないし、それを望まないということだけだろう。”

19.すべてのオメラスから歩み去る人びとへ──反平等の時代と外部への想像力
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 “この「歩み去る人」が、ひとつのアレゴリー、つまりこの世界を変えるということのアレゴリーとしても読めることはあきらかだ。もちろん、独特の仕方でアナキストであり、SFの多数の傾向とは逆に、ディストピアよりも、ユートピアをえがきつづけ、その意味を問いつづけたル・グインのその志向性が、ここにあらわれていないはずはない。この作品全体が、なぜ、人はどのような苦難があろうとも、この世界を変えようとしてやまないのか、という問い、というより、そういう人間の性向への驚嘆の表現のようにみえるからだ。それがほとんどベストにみえる世界ですら、それがだれかの不幸をもたらすのならば、人はそこに居心地の悪さをおぼえずにはいられない。そこに、ル・グインは、いまだこの世界に希望をもちうる根拠をみいだしているようなのだ。”

19.すべてのオメラスから歩み去る人びとへ──反平等の時代と外部への想像力
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 [前略]“知的ソースをあげながら、「スマート」に、なにかを切って捨てる態度、利得と犠牲の計算のような知的操作で「割り切」ってみせるような態度は、それこそYouTuberから研究者、そして政治家まで、現代においては見慣れたものである。そして、こうしたテクノクラート的態度がとるかまえは大きくいえばリベラリズムに属するものであるが──ゴリゴリの右翼のような「粗暴さ」はおもてむき不在である──、内容はさておき、形式としてそれがしばしばとる攻撃性は、もちろん、その標的として、社会主義とか、福祉国家とか、大衆運動とか、あるいはフェミニズムとか、いずれにしてもなにがしか「平等」のしるしをもったもののかたちをとるのだろうが、根本的には、オメラスの物語のもつこの次元、この世界とは別の世界にむかう衝動であり想像力に対してむけられているようにおもわれるのである。”

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