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文学が裁く戦争
東京裁判から現代へiwanami.co.jp/book/b635086.htm

「男たちのトラウマが、被害者の痛みを奪取した形であること」

第三章 裁かれなかった残虐行為(一九六〇年代)
 1 アメリカの残虐行為を問う――堀田善衞『審判』

“『審判』において、恭助と志村、そしてポールは、暴力(駆使)の経験を共有することで、男同士の連帯感を感じている。一方で、小説は、「娼婦」としての雪見子(出の長女)と「聖女」としての唐見子(出の三女)を対置させながら、ポールと恭助のトラウマを慰安する存在として描いている。”

 “さらに、男たちのトラウマが、被害者の痛みを奪取した形であることにも注意を払わなければならないだろう。恭助は、志村の暴力を糾弾しながらも、性的な暴力を受けた女性に死を強いた自分の暴力には気づかないまま、戦場での経験を自分の痛みとして語り、唐見子に「看護」を求めているのだ。
 こうしたジェンダー表象が小説の批評性を危うくしているのは、確かである。”
─第三章 裁かれなかった残虐行為(一九六〇年代)
 1 アメリカの残虐行為を問う――堀田善衞『審判』

『文学が裁く戦争 東京裁判から現代へ』
iwanami.co.jp/book/b635086.htm

原爆投下を実行したポールの形容について

 “(前略)「逆立ちしたキリスト」に代表されるような、宗教的表現が用いられるのも無理はない。しかし、過剰な抽象化がほとんど神話化を誘発し、具体的な被害者たちの苦しみを置き去りにする危険性には注意せねばならない。”

 “ポールの罪も、志村と恭助が殺した老婆と同様に、生身の人間の「顔や身体つき」に結びつけて記憶されねばならないのではないだろうか。そうでなければ、残虐行為は、被害者を通り越して、ポールの苦しみや傷として領有されかねないのだ。”
─第三章 裁かれなかった残虐行為(一九六〇年代)
 1 アメリカの残虐行為を問う――堀田善衞『審判』

『文学が裁く戦争 東京裁判から現代へ』
iwanami.co.jp/book/b635086.htm

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