“長崎被爆における浦上地区の特殊性は、隠れキリシタンの地域であったことには尽くされません。その隠れキリシタンに対する一種の緩衝地域として、旧長崎市内と浦上地区の間に、いわゆる被差別部落が作られ、そこに移住させられたひとが、「崩れ」の際にカトリック信者たちを実力で一斉検挙する役割を強いられたというのです。”
“旧長崎市内にいた人々ももちろん被爆しているし、熱線は届いていますから、旧市内でも多数の死者が出ています。しかし爆心地はあくまで浦上地区であって、ここは全滅に近い状況だったわけです。そこから、旧長崎市内の長崎市民の間には、「原爆は(長崎ではなくて)浦上に落ちたのだ」という意識が形成されたといわれます。そのことはまた、浦上地区が隠れキリシタン地区であり、被差別部落があったこととも関係があると思われるわけです。”
“このようなことからすると、「原子爆弾は天罰」という右の見方は、キリスト教という日本社会では異質な信仰を持っていた一団に対する一種の差別意識が表面化したものとも考えられるし、そこにはさらに被差別部落に対する差別意識も絡んでいたと考えられるでしょう。”
“ところが、それをひっくり返したのが永井隆です。”
“敗戦後早い時期に、長崎の原爆被爆を「貴い犠牲」とするレトリックが永井隆のもとに生み出され、浦上地区のカトリック信者が被爆の苦しみを耐え忍ぶうえで著しい効果を発揮した。しかしそれは同時に、米国米軍の責任のみならず、日本の国家および天皇の責任への問いを封殺するような論理になっていた、ということは否定できません。ここにはあきらかに、「犠牲の論理」によって死と残虐が「聖化」され、その責任が抹消されていくプロセスが作動しているのです。”