「今日、愛については誰も語っている。だれが怒について真剣に語ろうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であることのしるしである。
切に義人を思う。義人とは何か──怒ることを知れる者である。

今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられているものはない。怒はただ避くべきものであるかのように考えられている。しかしながら、もし何物かがあらゆる場合に避くべきであるとすれば、それは憎みであって怒ではない。」(原文ママ)三木清、人生論ノート

清水真砂子のエッセイで知って、メモをしていた。ゲド戦記の翻訳者、というよりも児童文学、エッセイからの印象が強い。「慶州は母の呼び声」もこの人のエッセイから。ゲド戦記は初めて読んだ時、テナーのことがよくわからず戸惑った思い出。昔のことだからおぼろげだけど。同じ作者の「闇の左手」もやっぱりおぼろげで、でも圧倒されるような、なんといったらいいのか、すごく驚いた、その記憶だけがある。

アンナ・カレーニナの冒頭、幸福な家庭についての異議も印象的だった。
本の虫ではないのだけれど
日常を散歩する1kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki

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 “私はこの本の再読まで、四歳十ヶ月の自分が北朝鮮を脱出して、静岡県は掛川の在の父母の故郷の村に帰る道程ずっとはいていたゴム靴が「朝鮮」のオモニや子どもたちのはくゴムシンと呼ばれる靴だったことも知らなかった。読みおとしていたのである。”
 “私は森崎の「敗戦以来ずっと、いつの日かは訪問するにふさわしい日本人になっていたいと、そのために生きた」という言葉に惹かれ、続く「どうころんでも他民族を食い物にしてしまう弱肉強食の日本社会の体質がわたしにも流れていると感じられた。わたしはそのような日本ではない日本が欲しかった。そうではない日本人になりたかったし、その核を自分の中に見つけたかった。」(略)森崎のこうした思いに導いた暮らしの細部の多くを見落としていたのだ。”

不器用な日々
日常を散歩する1 
森崎和江『慶州は母の呼び声』解説
2006.12
kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki

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