語りのパターンを分析すること。
従軍した兵士たちのPTSDが認知され対処法も多様化しているが、根本的な解決方法──戦争反対にはなかなか結び付かない。
戦争での心理的負担を減らす遠隔攻撃、PTSDを克服し、精神的苦痛を乗り越える物語(語り)を目指す。

アメリカにおける「困難を乗り越える」語りのパターンの強さ。

これは日本においてもそうではないかとは思ったが(障害者と感動)、被ばくされた方々の証言を聞く、という機会には発生しにくいかもしれない。私の経験に限ることではあるが。 

なぜ原爆が悪ではないのか アメリカの核意識iwanami.co.jp/book/b515759.htm

同じ「困難を克服する」語りのパターンでも、依って立つ背景は違うのかもしれない。文化、価値観、信念、生活観など。

第3章まで。

1995年 スミソニアン論争
 “計画によると、主要学芸員のマーティン・ハーウィットは、原爆の展示に際して日本側の視点を加えようと、広島や長崎の資料館から展示物を借り受けることになっていました。しかし、この展示計画を知り、退役軍人の会が筆頭となって、反対の旗印をあげました。彼らの主張は、「自分たちの声がこの展示計画には反映されていない」「誰のための博物館なのか」というものでした。彼らは政治家を動かし、展示の中止を求めました。”

 “この過程でハーウィットの出自自体も取りざたされます。イスタンブール生まれでハンガリーの血を引く移民であることから、ハーウィットは「非国民」だと糾弾されます。また、展示計画委員会にカナダ出身者や日本出身の歴史家などが入っていたため、「委員会は「公平」とはいえない」という批判が相次ぎました。その結果、ハーウィットは辞職を余儀なくされ、企画は大幅に変えられて続行することになりました。”

“この論争で明らかになったことは、博物館・美術館の展示において「ニュートラル」という立場はない、ということです。歴史とは単なる事実の羅列ではなく、どういった事実を選択するか、それをどうつなげて語るか、によって構成されるているものです。そして、様々な事実や「語り」から、どのように選択し、それらを繋ぎ、可視化していくのか、という学芸員の見解が展示に反映されます。そうした選択と「語り」の一貫性が展示に物語性をもたらすことになるのです。”

軍に対する「恩義」と退役軍人への敬意、感謝。軍隊と教育の結びつき(GIビルやROTCなどの大学進学のための援助)。

“つまり、(正式な)軍隊を持つということは、それを維持するために、社会が軍や兵士に恩義を感じ、尊敬する仕組みが必要であるということなのです(軍隊を持たないはずの日本でも前述の「靖国」などに、こうした仕組みが見えます)。その一方で、軍隊も兵士たちのセーフティネットとして機能することで、恩義の念を強化します。そうした社会では、軍を批判することは必然的にタブーになってしまうことは、効果的な反核メッセージを伝えるためにも、意識しておく必要があります。”

第二次世界大戦後の義肢の発達と男性性の復活、という点も印象的だった。優位性と庇護感、軍隊と我々の関係。

“自立した体があるからこそ、女性に対して保護を申し出ることができ、相手に対する「保護を与える」という優位性がマチズモを支えている” 

第5章 ジェンダー化された原子力 守られる性・無垢性・仕える性

被ばく女性の渡米、ヒロシマ・メイデンズ(原爆乙女)、親・保護者としてのアメリカ(娘を守る強い(父)親像)、オリエンタリズム
和解の非対称性、被害者性と女性性の社会的親和性

“政治学者のアイリス・マリオン・ヤングは、肉体的に不利である場合が多い女性と子どもが、いかに国防政策に利用されるかを紐解きます。特に「国家的危機」などと銘打たれる事件の際には、国防のレトリックがすぐさま発動されます。例えば九・一一の後のアメリカで、イラクとアフガニスタンへの侵攻の支持を獲得するために使われた、「女性と子どもを守るため」という「語り」は、その主語に守る側の「男性」を想起させ(実際には女性兵士もいますし、守られるべき成人男性もいるのにもかかわらず)、国防を正当化させる、と。そしてそれは、「守る」ことを美徳とする一方で、こうした物語に加担しない男性を「弱い者を守る意思・体力がない」と道徳的・肉体的に劣っているかのように扱う、と分析しています。”
 

“こうした「語り」は結果として、強い肉体を持ち、弱い女性・子どもを守る者こそが「男性」という幻想を作り出します。それが反転することで、「普通」の男性なら「女性と子どもを守るはず」という「語り」になり(本来なら守り、守られることはジェンダーという属性にかかわらず、誰もが守り、守られるものであるべきですが)、それが「戦争」という現実を支援するレトリック、そして社会規範となる、というのです。”

“と同時に、ヤングの指摘によれば、こうした「語り」では「女性は自衛を男性に依存するもの」と、その主体性を奪われ、守られる性へと相対的に位置づけられます。その結果として、「守り手」である男性が、守られる側として依存する女性と子どもに「従順」を要求する、という不平等が再生産されていくことになります。”

“(略)戦争が日常に入り込むとき、あるいは、日常が「軍隊化」されるとき、支配する性─支配される性、という伝統的で父権的なジェンダーが正当化され、そして強化されていくということなのです。”

“(略)原爆を投下した側として男性性を担うアメリカにおいて、原爆の被害者性を代表するような被ばく被害は語られない/語りにくい状況にあります。言うなれば、被ばくの被害が「自主検閲」されてきたといえます。”
 

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「女性と子どもを守る」という言葉は関東大震災時朝鮮人虐殺でも使われていたこと、朝鮮人である「女性と子ども」が虐殺されたこと。虐殺と「男らしさ」のかかわり。 

民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代
chuko.co.jp/shinsho/2020/08/10

第6章 隠されてきた被ばく

マーシャル諸島での核実験(67回以上)は、住民の被害は勿論なんだけど、

「彼ら(マーシャル諸島の住民)は、我々西洋人、文明を持った人たちとは違います。とはいえ、彼らはネズミよりも我々に近い、というのは事実です」
アメリカ原子力委員会(AEC)の記載。

そこにマーシャル諸島の住民を人間として見ていなかったことが示されているようで、嘆息する。他の例であるように、周縁にいるようにされた人びとや地域(声をあげることが困難を極める)が選定されている。マーシャル諸島の2014年のハーグ国際司法裁判所への訴えも、アメリカ政府に対する訴訟も棄却。

国際司法裁判所、アメリカ連邦裁判所での訴訟の却下、棄却について。
“加害者が被害者に対して加害者側のルールを適用する、常軌を逸した例がここでも見られ、改めて、こうした被害を生んだ元凶である力の非対称性を痛感します。”  

第7章 被ばくを歪める語り

“こうした被ばく地の観光化はアメリカに限ったことではありません。広島・長崎をはじめ、チェルノブイリでは「ダーク・ツーリズム」として、福島では「復興ツーリズム」として観光地化は進んでいます。”

“(略)例えば被災地である福島の人々が原発に代わる、また損害を受けた様々な産業に代わる経済的基盤を構築したい気持ち、「普段の暮らし」を取り戻したい住民、あるいは元住民の気持ち、などは無視されるべきではないでしょう。しかし、そうした気持ちに耳を傾けることと、被ばく地に暮らすことの危険から目を逸らすこととを、一緒にしてウヤムヤにするべきではないと考えています。”

 

“アメリカ内外の核施設の観光地化とそこでの語りは、「脆弱な命」が顧みられない巧妙な文化的条件を作り上げる装置として機能しており、多くの人が「人質」として口を封じられている状態です。実際、これらの地で、被害の事態が明らかになった時、誰がどのように失われた健康に責任を取れるというのでしょう。”

“アメリカにおいて、日本において、被ばく者の方々、被ばくで苦しむ人たち、そうした人たちを支援している人々、そして彼らを見ている臨床医たちの闘いに敬意を表すると同時に、ジュディス・バトラーの言葉を借りれば、彼らの身体(あるいはDNA)に刻印された傷を「嘆くべきでない」と圧力をかけてくる「文化的条件」とは一体何なのか、と問わずにはいられません。”
 

“(略)田井中雅人は、超核大国であるアメリカを「アメリカは核大国であるゆえに、被ばく大国」と的確に指摘しています。ここまで幾度も見てきたように、ラジウムなどの物質の製品化、ウランの発掘、度重なる実験など、大量の核を利用するために、それだけ多くの国民が図らずも被験者になっているのです。”

“そして、アメリカの、そして、他国の被ばく者とつながるためには、私達自身の、日本の被ばくの被害についても、「なぜ話せないのか」を考えることが大事でしょう。前述のように、被ばくで傷ついた体に対し「嘆くべきでない」と圧力をかけてくる「文化的条件」とは一体何なのかという問題は、核と放射能の問題が一国にとどまらないことを鑑みても、常に自問するべき問いと考えます。”
 
なぜ原爆が悪ではないのか アメリカの核意識iwanami.co.jp/book/b515759.htm

この本を読んで、改めてジュディス・バトラーを読みたくなった。honto.jp/netstore/search/au_10

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