建国と植民地化、入植

“「満拓公社のやったことってのは、そりゃ実に非道なやり方だったですよ。田畑の買い占め、そして強制立ち退きですな」。
 この類いの証言は枚挙にいとまがない。満州に渡った滋賀県満州報国農場の事例では、農場長だった辻清が戦後、強制買収についてこう語っている。「原住民の[中略]泣き喚いて、土間に土下座して頼む姿は、まことに哀れであった」。「満人も鮮人も、私を私を恨んでいるだろう。私の顔をよく覚えているだろう......逃げる途中で、もし、その人たちに捕まったら、それこそ、寄ってたかって私に恨みを晴らすだろう」。凄絶な引き上げの背景にあったのは、日本人による満州国建国と入植、そのための現地住民の土地の強制買収と立ち退き、そしてそれを可能にした、日本の圧倒的な軍事力の優位であった。”
 
6章 事件の背景

歴史の屑拾い 藤原辰史bookclub.kodansha.co.jp/produc

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“ナチスの支配地域でドイツ人やその協力者たちがパルチザンによって攻撃されたように、満州国の移民団は「匪賊」(特性によって「土匪」や「共匪」と呼ばれることもあった)の襲来によってたびたび死傷者を出していた。だが、その背景もまた、戦後の回想録では言及されない。では、襲撃の背景とは何か。”

 “周知のとおり、一九一〇年八月二二日調印、二九日公布の日本による朝鮮半島の植民地化である。韓国併合で故郷を追われた人びとは満州に移住し、そこで水田を開いた。日本は、多くの朝鮮人を日本人移民よりも劣悪な土地へと移民させた。彼らはときには中国人から日本帝国主義の尖兵だとされ、迫害を受けることもあった。また、大日本帝国に反抗する人びとは、中国共産党のゲリラと共に東北抗日聯軍を結成し、土地を追われたり、日本によって無理矢理故郷から満州に移住させられたりした朝鮮人たちの援助を借りて、開拓村を襲撃した。それを、日本は「匪賊」と呼んできたのである。”  

“パレスチナで起きていることを考えるとき、一九四八年五月一四日のイスラエル建国とパレスチナ人の追放と難民化、パレスチナ人がアラビア語で破局や災厄を意味する「ナクバ」と呼ぶ迫害があったこと、そして一九六七年のガザやヨルダン川西岸や東エルサレムの占領の歴史は、どちらの立場に立つにせよ、問題を理解する上での前提知識であるはずだが、いま報道で取り上げられることはあまりにも少ないように思う。”
 

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