#ノート小説部3日執筆 お題【ホラー】 ほら、ホラー、テラー(人外/倫理観欠如)
「お寺さんの息子がホラー好きとか、ど典型じゃん?」
げらげらと笑う友人を尻目に、俺はホラー映画を観る。俺はホラー映画が好きだ。
俗に言うスプラッタ系だろうがサスペンス系だろうが心霊系だろうがなんでも良い。とにかく、俺は恐怖表現が好きなのだ。
吸血鬼、ゾンビ、幽霊、悪魔、怪物、謎の生命体……ロマンを感じる。巻き込まれる人間は、理不尽だったり自業自得だったり様々で、彼らがそれぞれ生き抜く為に選択を繰り返す様子がたまらなく好きだ。
彼らの選択の命運を分ける瞬間。彼らの命が途切れる瞬間。あの眩しさったらない。
「お前さ、いつも熱心に観てるけど、そんなに面白いわけ?」
面白い。でも今は黙っててくれ。ちょうど今、良いシーンなんだ。序盤で意味深な発言をしていた女性が殺されるところだった。
ここまで頑張ったのに、残念だったな。
「だってこれフィクションじゃん」
「うるさいな。フィクションからしか取れない栄養があるんだよ」
さすがに我慢できなくなって、俺はむすっとした声で口を挟んだ。ちらっと彼を見ると、俺のことを見て笑っている。俺を見ていないで映画を観ろよ。
やってられないな、と俺は視線を画面に戻す。
「栄養ってなんだよ」
「俺の生きがいなんだって」
ホラー映画を観るのが俺の癒しなんだ。好きにさせてくれ。一緒に映画を観ているはずの友人は、いつの間にか真剣に画面を眺める俺を見て笑い転げている。
意味が分からない。
「いやいや、本当に意味分かんねぇよ!」
どうしてそんなに笑うのか。あ、また一人犠牲になった。順番に殺されていく登場人物たち、残っているのはあと何人だ? 迫真の演技をする俳優たちの内の何人かは、この映画に出た後で超有名俳優になったりしている。
友人の笑い声を浴びながら、彼らの演技を堪能し続ける。
異質な空間になっているが、仕方ない。
「生きてないんだから、生きがいも栄養もクソもねぇだろ」
「うっせぇな……」
確かに俺はグールで、友人は吸血鬼だ。友人がうっかり俺を殺した。彼が頑張ってくれたけど眷属になれなくて、俺は食屍鬼になったのだった。
ってことで、俺はハッピーセカンドライフ中だ。
「ほんと、自分たちがホラーでテラーなんだから、こんなニセモノの物語なんか楽しんでないでさ、狩りに行こうぜ」
「もう少しで観終わるから待ってくれ」
どうやら俺のことを見て笑っているのも飽きたらしい。長生きできる生物のくせに、短気すぎる。たった数時間すら我慢できないのか。
――だから、俺がうっかり殺されたわけか。納得だ。
「なぁなぁ、まだ?」
「今、助かったはずの主人公が死ぬシーンだから黙れ」
「お前みたいだなっ!」
「うっせぇ」
ほっとした表情を見せる主人公に向け、意表を突いた災厄がやってくる。うん。これぞホラー。フィクションの醍醐味ってやつだ。俺はゆっくりと目を閉じて頷いた。
それから、最速する男の声を聞きながら映画の余韻を楽しむように、エンドロールが終わるまで鑑賞する。
「じゃ、行く?」
「……行く」
そうして俺たちは町へ出た。
きゃー、やめろ、そんな悲鳴を浴びて気分よくなったところで、友人が生き血を啜り、残ったカスを俺が食べる。ばり、ぼり、むしゃ。治安のよくない国は良いな。
ちょっと脂っこいのが玉に瑕だけど、食いっぱぐれることがないから良い。銃は怖いけど、別にもう死んでるから痛くないし。いや、治らないから欠損するのは困る。
何だかんだ言って、やっぱり俺自身が畏怖される存在になるのは悪くない。
「今度は少し追いかけっこしてから食べようぜ」
「恐怖感を覚えた奴の方が、何かいい味するんだよな……」
友人の提案に、俺は大きく頷いた。俺たちの存在が現実だと理解して、恐怖に染まる瞬間、すごくうまそうな香りがする。
俺は、その瞬間が大好きだ。あいつが首筋に噛みつく前に、先に嚙みついてしまいたくなる。
――くそ。食べたばっかりなのに、お腹が空いてきた。
「食べたりないって顔してるぞ」
「うまいもんを思い浮かべたら、誰だってそうなるだろ」
「ま、それもそっか」
「帰ろう。で、ホラー映画観る」
「またかよ!?」
不満そうな悲鳴を上げる友人の頭を、軽くつついてやる。
「いいじゃないか、疑似体験できるんだ。無限に食べれるおやつみたいなもんだろ。実際に食べ過ぎたら、成敗されちまう」
考え込むように「そりゃぁなぁ……」と呟く友人。昔は良かったらしいが、今は目立つとすぐに殺される。人間って野蛮な道具を作ることに余念がないし、個体管理するようになったから一人くらい減っても大丈夫だろうとか思っているとすぐにばれる。
それなりに、こっちも気を遣わないと生きにくい世界になったもんだ。
「ほら、帰るぞ」
「おう」
現実を見る雑談をしている内に満腹感を思い出した俺は、友人と肩を組んで深夜の町を歩く。人通りの少ない道を、異形が歩く。
ほら、ホラー、テラー。恐怖が夜道を歩いているぞ。空想だろうが現実だろうが、俺たち異形は人間がだーいすき。もちろん色んな意味で、な。
#ノート小説部3日執筆 お題【ホラー】 おっさん聖女と騎士の霊(コメディ/ふんわりBL風味)
「聖女様、ご存じですか? 夜な夜な現れる騎士の亡霊の話」
そうして始まったのは、何とも不思議な話だった。
大聖堂に飾られた聖女と騎士の絵画を見る騎士の亡霊が現れるのだという。夜、勤務を終えた騎士や聖職者に目撃されているらしい。ただ静かに、じっと聖女と騎士の姿を見上げている姿が不気味だと噂になっているようだ。
「普通に人間じゃないの? でも、騎士か……俺みたいなおっさん聖女を見て喜ぶわけがないし。ヴァルトのことを憧れている新人騎士、とかだったりしない?」
「ジークヴァルト様に憧れる騎士は多いと思いますが、あなた様目当ての騎士だっていらっしゃいますよ」
大きく頷いてくる補佐官のティルマンに、俺は顔をしかめてみせた。だって、昔ならともかく、今じゃなぁ。と思うのだ。
「まあ、確かに俺は稀代な聖女様だし? おっさんだけど」
「そんなことを仰らないで! 年を重ねたからこその良さがあるのですから」
「……お、おう?」
どいつもこいつも、おっさん聖女への信仰心が強くてかなわない。結局、俺が途中で折れるしかないのだ。
確かに、俺がいれば腕がもげようが何しようが、死にさえしていなければ元通りだ。俺と一緒に魔界の扉の封印に尽力し生き残った騎士のほとんどが、俺の神力を使った神聖魔法のお世話になって五体満足で帰還した人間だ。
命を、これからの人生を欠けることなく過ごせるようになった彼らからすれば、確かに俺に対して強い気持ちが生まれるのも当然だろう。という考えに行きついてしまう。
全部の命の責任を取ると覚悟した上で臨んだんだ。まあ、これも背負うべき荷物ということか。
「あー……まあ、とりあえず俺が見てきてやるよ。どうせ人間だろうし」
ちょうど夜だ。俺が立ち上がれば、ティルマンが焦ったように両手をわたわたとさせた。
「ちょっと! 僕が言いたかったのは、夜の大聖堂にはお近づきにならないようにって――」
「いや、みんなが困ってるならどうにかするのが聖女(俺)でしょ。おっさんだから夜に歩き回っても平気平気」
どうしてそんな警戒するんだ。それほどまでに、その幽霊が怖いのか。馬鹿にするつもりもないが、怖がる彼らが可愛らしく見える。
「大丈夫だって。ここで待ってな。話してきてやる」
「え、僕もついて――」
「みんなにバレたくないのかもしれないだろ? 個人情報を守りたいんだ」
聖女と騎士の絵画を見続けている騎士。夜に見ているのなら、きっと誰にも見られたくなくてこっそりと行動しているに違いない。俺がそう言い含めて微笑めば、彼はこれ以上無理に後を追おうとはしなかった。
大聖堂への道中は大荒れで、どうにも恐怖を駆り立てようと誰かが仕組んでいるかのようだ。神聖魔法にすら天候を操作する魔法なんてないから大自然の悪戯なのは明らかなのだが。
「さすがにちょっと不気味だな」
大雨に雷、真夜中の絵画、幽霊騎士。ホラーな状況が揃っている。こんな状況で、その騎士とやらにふいに遭遇したら確かに怖いんだろうな、と他人事のように思う。
雨ざらしになってぐっしょりと濡れてしまった俺は、神聖な場にずぶ濡れで侵入することを心の中で謝罪しながら大聖堂の扉をゆっくりと開けた。
そっと覗きこめば、俺と同じようにずぶ濡れになったらしい騎士の痕跡が床を濡らしているのが見えた。濡れているし、やっぱり幽霊ではない。
現実に存在する人間だ。……確かにこうして見ると不気味ではあるが。
俺はその足跡を辿るように、ゆっくりと歩く。そして、その先には濡れぼそった騎士がいた。金属鎧から雫が落ちていることから、この状態になってそんなに時間は経っていないらしいと分かる。
少し前まで勤務していたのかもしれない。
「おつかれさん」
労いの言葉をかけたつもりだった。が、どうやらひどく驚かせてしまったらしい。
「うぉあぁぁっ!?」
「ちょっ、何だぁっ!?」
大聖堂にむさくるしい男二人の悲鳴が響き渡る。片方は幽霊騎士――ひどく情けない悲鳴を上げて振り返ったのは、よく知る美丈夫ジークヴァルトだった――の驚きように驚かされた俺の悲鳴だ。
驚きすぎた俺は、幽霊騎士が作っていた水溜まりで滑ってすっころぶ。教会の床は石造りで、腰を打つとかなり痛い。つまり、俺は今、すごく腰が痛い。
「ってぇ……」
「ラウルッ!?」
声をかけてきたのが俺だとようやく気づいた男が、慌てた様子で俺を抱き上げる。床も痛いが、金属鎧も割と痛い。
濡れて冷え冷えの金属鎧に抱き上げられた俺は、がっくりと肩を落とした。またお姫様抱っこか。まぁ、慣れればこの抱き上げ方が楽なのは否定しない。
「きみね、おっさんを驚かせるんじゃないよ。寿命が縮んだらどうするんだい?」
俺がじっとりとした視線で見上げれば、彼は心外だとでも言うかのような表情をした。唇がちょっと尖っているのが、若いなと思う。
「ラウル……俺も寿命が縮んだ。幽霊みたいにそっと近寄らないでくれ。なまじ気配がないんだ。本当に驚いた」
はあーっと長い息を吐いた彼の髪から雫が落ちてくる。疲労感を感じる姿に、驚かされたことへの恨み節を言う気が失せた。
「ヴァルト、俺たちの絵なんか見てどうしたんだ? 夜な夜な幽霊騎士が現れるって噂になってるぞ」
「…………」
「だんまり? 理由はさておき、皆を怖がらせるのはもうやめなさいね」
至近距離にいるが、濡れた前髪のせいで表情が読みにくい。口元の動きだけを見て、俺は相棒の心理を探る。まあ、絵画を眺めているのを見られて恥ずかしくてたまらないのだろう。とはいえ、さすがに自分の姿を見ていたわけではあるまい。
つまり、二人描かれている内のもう片方――俺のことだ――を見ていたに違いない。
そりゃ、恥ずかしいよな。本人に見つかっちゃうんだから。
「好きな時に好きなだけ見れるような環境にいるんだから、本物見てればいいでしょうが」
「は……?」
水臭い。別に見られて減るものでもないしな。俺は両手でジークヴァルトの前髪を両脇に避けて彼の顔が見えるようにして、にっこりと笑いかけてやった。
「本物の方が、良い男だろ。きみには負けるけど、おっさんにしては悪くはないだろ?」
ジークヴァルトと同じく濡れた髪をかき上げて「ん?」と同意を促すと、彼はぎこちない動きでがくがくと小さく頷いた。
「悪かったな、驚かせちまって。でも、発端はきみなんだからな。明日。みんなにちゃんと幽霊騎士はいないって言ってやらないとな」
「……その前に、風邪ひかないように休め」
「それはきみもだよ。幽霊騎士様」
風呂に入って温まり直すか、と誘えばジークヴァルトはいつもの顔で頷いた。あーあ、良かった。本当のホラー展開じゃなくって。一応聖職者だけど、そういうのは専門外だからな。
俺の体が冷え切る前に湯舟へと運びたい気分になったらしいジークヴァルトの腕の中で、のほほんとそんなことを考えるのだった。
#おっさん聖女
#ノート小説部3日執筆 「未完の絵画」 お題:絵画 ※大遅刻申し訳ありません!
その女は、濃厚な死の気配を纏わせていた。
俺はそういう『視えないもの』が視える性質で、それを活かして今は霊能探偵的な仕事をしているわけだが、単に視えるだけで祓えるわけではないので、原因究明以降に何らかの対応が必要な案件については懇意にしている業者に任せることにしている。
今日、何やらデカい荷物を持って俺の事務所にやってきた相談者の女は、確実にその「事後対応」が必要なタイプだった。
とはいえ話も聞かずにたらい回しするわけにもいかないので、俺はとりあえず彼女を応接エリアのソファに座らせて詳しい話を聞いてみることにする。
「ようこそおいでくださいました。早速ですがご相談内容をお伺いしても?」
すると女は隈の濃い目でこちらをぎょろりと睨めつけるようにして、強く断定する口調でこう告げてきたのだった。
「私、画家をしているんですけど、私が絵を仕上げると何故かモデルが死んでしまうんです、みんな」
彼女が語ったところによると、最初に彼女の絵の犠牲になったのは鉢植えのサボテンで、絵を仕上げた数日後に枯れたそうである。
それだけならまだ偶然として片付けようもあるが、その次は庭の常連と化していた野良猫、軒下で営巣していた燕、飼っていた文鳥、しまいには老齢だったとはいえ祖父も描いて間もなく不審死したとあって、さすがに何か霊障の類ではないかと思うようになり、俺のところに相談に来たという次第だった。
「つまり、あなたが描いた相手はみな絵を仕上げてから数日以内に不審な死を遂げたというわけですね? 例外なく?」
「はい。祖父が他界してしまって以降は仕上げるのが怖くなってしまって……みんな描き途中のままにしてあるんです。でも、絵を仕上げられない画家に価値なんてないでしょう……? だからそろそろ仕上げなくちゃいけなくて、けど仕上げると死なせてしまうし……」
そう言って彼女は思い詰めたかのように俯く。
彼女に纏わりつく闇が一層濃くなったのが視えた。
「静物画っていうんですっけ、当面そういう無機物を描いて過ごしてみてはいかがでしょう? 俺はあなたの絵を拝見してないので確かなことは言えませんが、今のあなたは随分とおつかれのようだ、そういう状態の方は良くないものを呼び寄せてしまいがちなので……」
俺は改善案を提示してみたが、彼女は力強く首を横に振った。
「いいえ、いいえ! 私が描きたいのは生命の躍動なんです! だから静物画じゃダメなんです! そうだ、まだ私の絵を見せてなかったわね! 是非見ていただきたいわ! ご覧になって! さぁさぁ!」
この異常なテンションの声音は、どこかで聞いたことがあったような気がする。というかすげえ嫌な予感しかしない。
彼女は持参した大きな荷物を紐解く。
そして取り出されたキャンバスに描かれていたのは──
俺と彼女が仲睦まじそうにしている絵だったのだ。ただ、画竜点睛を欠くとばかりに目の部分だけがぽっかりと空白になっている、要は未完成絵画だった。
「私、人を殺す絵しか描けないならもういっそ死んだ方がマシで! でもどうせ死ぬならって思ったらあなたのことを思い出して! 玲くんと心中できたら幸せだなって思ったの!」
──思い出した。
あまりにも人相が変わっていたので気付けなかったがこの女、高校の時に俺にやたら執着した挙げ句自殺未遂で病院送りになった美術部の先輩だ。
キャンバスを取り出すや否や彼女の眼はたちまち狂気に染まり、パレットナイフを手にすると躊躇なく俺の顔面に向けて振り下ろしてきた。
「あたし、玲くんの血でこの絵を完成させるから! 一緒に地獄で結ばれましょう!」
「俺を巻き込むの止めてくれます?!」
俺はそれをすんでのところで躱して抗議の声を上げる。……彼女は既に古くは『悪魔憑き』と呼ばれた錯乱状態に陥っているため、それは全くの無駄な行為ではあったが。
多分彼女の絵にまつわる不審死の真相はこうだ──
はじめは絵の完成とモデルの死には何の相関もなかった。
サボテンは水の遣り過ぎか何かで、野良猫はその侵入に業を煮やした家族の誰かが毒餌でも撒いていて、それで死に至ったのだろう。
しかし画家とは有名どころでも狂死した例に暇がないように得てして繊細なもので、元より病み気味だった彼女もその例に漏れず、『自分の絵がそれらを死に至らしめてしまった』と思い込んだ。
そして彼女の狂気は間もなく因果の逆転を引き起こし、『自分が完成させた絵に描かれていた者は死に至るべきである』と無意識下に行動して自ら燕や文鳥を死に至らしめたのだろう。
……爺さんについてはさすがに寿命が来ただけで彼女が手にかけたのではないと思いたいが、何にせよその辺は俺の推測に過ぎないし俺の領分でもないので、真相解明は警察と医者に任せようと思う。
さしあたって俺がやるべきなのは錯乱した彼女の蛮行を止めて警察に引き渡すことだ。こんなこともあろうかと監視カメラを稼働させておいて良かった。
「玲くん玲くん玲くん一緒に死んで死んで死んで死んで」
ぶつぶつと呟かれる物騒な言葉とともに振り回されるパレットナイフを避けつつ、俺は反撃の機会を伺う。
相手は女性とはいえ狂気で箍が外れているせいで掌に爪が食い込んで血を滲ませるくらい強くパレットナイフを握り込んでいるから、ちょっとやそっとの力では取り上げることなどできそうもないし、俺が彼女に怪我を負わせては元も子もないから力押しの勝負ではこちらの分が悪い。
だから狙うとすればキャンバスの方だ。しかし俺が普通に自分のカッターで絵画を損壊させても『彼女に憑いた悪魔』は納得しないだろうから、俺は無手のまま彼女をキャンバスの方へ誘導する。
そして俺に向かって振り下ろされるパレットナイフを正当防衛で振り払い、その切っ先がキャンバスの中央──俺と彼女が並んでいるその間──を切り裂くように仕向ける。
俺の反撃によって攻撃が逸れたパレットナイフはまんまとキャンバスに突き刺さり、鈍い音とともに絵に大きな亀裂を走らせた。
「あっ、あああああ?!!」
彼女が断末魔のごとく叫び声を上げる。
凶行に走る免罪符でもあった絵画が自らの手によって切り裂かれ、完成の機会を永久に失ったのを目の当たりにし、彼女の心身は遂に限界を迎えたのだろう。さながら悪魔との繋がりを断たれた悪魔憑きのごとく絶叫の末に昏倒したのだった。
あとは警察と救急を呼び、彼女を引き渡して監視カメラの映像を提出しつつ俺が事情聴取に応じれば一件落着である。
……手慣れてやしないかって?
それは致し方ないことで、霊障を疑って俺のようなところに訪れる相談者の大半は霊になど憑かれておらず、精神の失調により自らの奇行を認識できていないだけなのだ。
だいたい霊なんてのはほとんど残留思念に過ぎないのだから、人に何かを強制させるほど強くはない。多少ポルターガイストを引き起こすことはあるものの、基本的にはただその場に佇むだけだ。
だから俺から言わせれば、霊なんかより生きている人間の方が、何でもしでかせる分よっぽど怖い。……視えない方々にはなかなか理解してもらえないのが悩みどころではあるが。
そして俺はせめてもの情けで昏倒した彼女をソファに横たえ、未完の絵画と共に警察が到着するのを待ったのだった。
おわり
#ノート小説部3日執筆 第16回のお題は「ホラー」に決まりました! 今回は7月18日(木)の24時間の間での公開を目標としましょう。作品はノートの3000文字に収まるように、ハッシュタグの#ノート小説部3日執筆 のタグを忘れずに! [参照]
遅刻申し訳ありません!【#ノート小説部3日執筆】「誰も知らぬ、わたしの心の色。誰にも理解されない、はずのもの」
いつか、どこかの国で。
***
腹が鳴る。
もうすぐあいつらが来るだろうか。それは今夜か、明日か、明後日か。残された時間を思い、ぐっと目を閉じ、ペインティングナイフを握る。
今夜こそは、なんとかしなければならない。目の前には、三つの絵画。それぞれイーゼルに立てかけてある。
若い頃、パトロンからの依頼で描いた裸婦。「お前の描いたものには、理想がない」と言われたもの。陰影をたっぷりつけて描いた女の体にはふくよかさはないが、わたしの理想だった。これをきっかけに、パトロンは去った。
二枚目は、静物画。キュビズム風に見えるが、奇をてらったつもりはない。物に当たる「光」のみに注目し、金属、ガラス片、木片、そしてりんごに当たる光を、自分なりにキャンバスに表現したものだった。展覧会では、「キュビズムの真似事をした駄作」と酷評された。
三枚目は、風景画だった。戦争で破壊された、もう帰れぬ故郷を描いたもの。これを描き上げたのはごく最近だ。油絵具が少なくなるなか、子どものころ、兄弟で魚を釣った小川とその岸辺、木々から差し込む柔らかい光を取りつかれたように描いた。我ながら、よく描けているのではないかと思う。しかし、この作品が日の目を見ることはない。
今までの人生では、日々、作品を売り込み、ときには美術教師の真似事をし、細々と生計を立ててきた。世間から見えれば鳴かず飛ばずの画家の、売れずに手元に残った三枚。しかし、どれもわたしにとっては特別なものだった。
特別だからこそ、そして、この絵に価値を見出せるのはわたしだけだからこそ――。この絵が、いま、街を包囲している敵軍の手に渡るのは耐えがたいことだった。それならいっそと、何度も燃やそうとした。燃やせば暖だって取れる。でも、できなかった。
作業台には、街を去った画家たちからかき集めた油絵具がある。また腹が鳴る。最後に口にしたのは土壁のかけらだった。どちらにせよ、わたしにはもう時間はない。
遠くで銃撃の音が聞こえる。わたしはパレットに油絵具を絞り出し、まずは裸婦画の上に黒を一閃、塗った。
描いた絵の上から、まったく違う絵を描く。それは、油彩をやっていればままあることだ。キャンバス代の節約のため、若い頃からさんざんやってきた。本来は、絵の上から下地材を塗って凸凹をなくし、乾くのを待って新しい絵を描いていくものだが、今はそんなことをしていられない。凹凸があって塗りにくいが、それでも黒を、黒だけに飽きたらその隣に藍をめちゃくちゃに塗りたくる。ついに、裸婦は見えなくなった。
キュビズム風の絵も、同じように黒く塗ろうとしたとき……わたしは手を止めた。この絵で描きたかったのは、光だった。光源からの直接の光や、輪郭を浮かび上がらせる反射光。どうせなら、光を。わたしは最初に白を、また絵筆に持ちかえて淡い黄色を乗せた。大きな大きな超新星を描くように。わたしが魅せられた光。それを、キャンバスいっぱいに描いた。
絵筆を動かしながらよみがえったのは、自分なりの美を追い求めた日々。それが報われなかった日々。画材に事欠く戦火の日々。街に降る爆弾が画家の習作を焼き、美術商や富豪の家から、有名画家の絵が敵国に接収されていく。
外では太陽が昇り、また沈みを繰り返している。いま、ここにはわたしと、絵だけがある。
三枚目となる故郷の絵の上には、わたしはただただ明るい色を重ねた。小川の水を跳ね上げたときの冷たい感触。水しぶき。たまたま街で一泊した画商が、いたずらに見せてくれたさまざまな技法の油絵。繊細に色を塗り重ねて表現された女のやわらかな体、草の上で談笑する人々、荒々しく塗り込められた夜。「こんなふうに世界を描けたら」と、心に灯った大きな希望。それらを思い出しながら、音楽を奏でるように、一心に筆を動かしつづけた。
誰も知らぬ、わたしの心の色。わたしの作品であって、誰にも理解されないもの。これなら遺してもよいだろう。わたしは安堵を覚えた。
最初に黒と藍で塗り込めた裸婦の絵を見る。ふと乾き具合を確かめようとキャンバスに指を近づけたとき――ドォンと大きな音とともに、衝撃が走った。窓を見ると、中心街から炎が上がっている。奴らが攻め入って来たのか。
わたしは指先を見る。わずかに油絵の具がついているだけだ。絵は乾き始めている。わたしは口を引き結び、ふらつく足を踏ん張って、黒と藍の上から、あらゆる赤を乗せていく。街を燃やすどす黒い炎を、人々が流す血を、悲しみの血涙を描いた。
足音、たどたどしい発音の「テヲアゲロ」、弾丸が放たれる音、衝撃、熱、わたしからほとばしる血。それがキャンバスへと飛んでいく。そうだ、そう。この赤があれば、この絵はもっと――。
***
「~~~は、戦前はほぼ知られることがなく、不遇な時代が長かった……いえ、不遇なままこの世を去った画家です」
美術館に、学芸員の声が響く。スタディツアーに参加中の老若男女がメモを取りながら、それを聞いている。
「はっきりとこの画家のものだとわかっている作品はこの三点のほか、わずか数点のみ。それも国内外に散逸しています」
そこで学芸員は大きく息を吸った。
「この絵は、画家がその人生の最期、銃撃に斃れるまで描き続けたもの。この一枚『黒と血の時代』には、画家の血痕も付着していると言われます。包囲され、飢餓と疫病がはびこる街で、彼はこれを描き上げたのです」
目尻をそっとぬぐい、学芸員は晴れやかに続けた。
「しかし、そのようなドラマを抜きにしても、我が国の光と悲しみを描いたこの絵は素晴らしいものです。外国に接収されていましたが、長い長い年月を経て我が国に返還され、この展示会で、晴れてお披露目を迎えることとなりました」
学芸員は、手にした指示棒をキャンバスに向け、絵に触れない絶妙な距離で止めた。
「見てください、これらの絵の表面。どれも凹凸が激しいですよね。この下には、別の絵が隠されているのでは、と言われているんです」
一同が絵を食い入るように見る。
「もう少し技術が発達したら、X線を利用して、この下に描かれた絵を見られる日も来るかもしれません」
学芸員は、愛おし気に三枚の絵を見た。
「彼には、この三枚を描くまでの道のりがあった。彼が何を描いてきたのか、それを知ることができるんです! それはとても……心躍ることだと思いませんか」
学芸員はそう結んで、スタディツアーを終えた。湿度、温度ともに絵画のために調節された空間の中、三枚の絵はただ黙して佇んでいた。
ー*ー*ー*ー
作品執筆にあたり、Misskey.designの方々に油絵についての知識を教えていただきました。
この場を借りて、お礼申し上げます。ありがとうございました。
#ノート小説部3日執筆 お題「絵画」 タイトル「鏡の肖像画」 ※残酷描写あり
「アリア、出動命令だ。アルカナの回収へ向かえ」
「了解です」
――アルカナとは神秘の力。異常な物品、存在、現象、認知されている魔法の力から逸脱された未知なるもの。それを集めるのがアリア、ぼくの仕事だ。
鏡を見て身だしなみをチェックする。髪飾りの向きが気に入らないので結び直す。他にも問題がないかくまなくチェックする。問題なし。
「アリア、準備できたか」
今日もばっちりかわいく決まっている。
「はい、すぐに行けます」
とある美術館へ到着した。警備軍が事態収拾にあたっているようだ。人払いも済んでいる。問題なのはアルカナの方だね。
「アルカナ収集課のブルーカスだ。状況の説明をしてもらえるか」
「はい、国立美術館に突如絵画が出現しまして……」
警備軍の人は、状況が掴み切れていないのか歯切れが悪い。無理もないか。アルカナの中には人々の前にふらりと出現し、狂気と混乱を与えるものもある。
「その、絵画を見たものが錯乱状態に陥り、激しい自傷行為をするのです」
錯乱、自傷行為。見ただけで精神への影響が大きく出るアルカナか。
「その絵画の場所を教えてもらえるか」
警備軍の人がブルーカスさんに場所を伝える。誰かがこちらへ近づいてきた。
「アルカナ収集課の方ですか? わたくしは美術館の館長を務めておるものです。現場にいましたので案内します」
現場にいた? 案内? ぼくは館長の人に質問した。
「絵画を見るだけで錯乱状態に陥ると聞きましたけど、館長さんは大丈夫だったのですか?」
「え、ええ」
ぼくを見て不安そうにしている。十三、十四歳くらいの女の子がこんなところにいるんだもんね。変に思うか。
「ぼくは、アルカナ収集課に所属しているアリアといいます。こういった対応にも慣れていますので安心してください」
「……そうでしたか。学芸員に話を聞く限り、絵画は近くで見てはだめなのです。離れて見るぶんには大丈夫なようです」
「なるほど」
影響を及ぼす条件があるんだ。アルカナを回収するには近づかないといけない。どうしたらいいか。
ぼく達は、館長とともに絵画のある場所へ向かった。立派な絵画がいくつも展示されている。
「これが、例の絵画です」
そこには異様な光景が広がっていた。
「……ひどい有様だな」
ブルーカスさんは顔をしかめながら言った。館長さんは目を伏せている。ぼくはこの光景を冷静に見つめた。
絵画の周りには人が何人か倒れていた。
バッグの紐を首に括り付けている女性。展示品のガラスケースに頭を打ち付け血を流している男性。何かを大量に飲み込んだのか、異常に腹が膨れている男性。槍を自ら突き刺している警備軍の人。他にもさまざまな方法で自傷行為……自殺に及んで倒れている人がいる。
館長さんには安全のため、他のアルカナ収集課の人を護衛につけて外へ戻ってもらった。
「まずは被害者の保護だな。絵画についてはすぐに対処しなくても問題ないだろう」
「そうですね」
絵画には近づけない。ブルーカスさんは倒れている人達に移動魔法をかけ、こちらへ引き寄せた。
「アリア、回復魔法と束縛魔法を頼めるか。錯乱状態になったと聞いた。回復したあと暴れられると困る」
「わかりました」
ほとんどの人は回復しなかった。すでに死亡している。一人だけ回復した人がいた。若い男性だ。
「あ……、ああ……、ああああ」
「大丈夫か? 自分の名前はわかるか?」
「う、ああ、あ」
ブルーカスさんが男性に声をかけるが、うめき声しかあげない。
「……だめだな。アリア、あの絵画に対処できるか?」
絵画に目をやる。女性の肖像画が描かれていた。大きさは縦横1mないくらい。見た目から異質な感じはしない。突然現れたと聞いていたけど、最初からあったかのように壁にかけられている。
「正直近づいてみないとなんとも」
ここで考えても仕方がない。アルカナは未知なるもの。当たって砕けるしかないのだ。
「あの絵画へ接近します。ぼくに何かあれば束縛魔法をお願いします」
「わかった」
ゆっくり、ゆっくり歩いていく。絵画から目を離さない。大体5m超えて近づいたあたりだろうか。絵画が変化した。
「女性の肖像画が……、ぼくの肖像画へ変わっています」
「絵がアリアの肖像画に? こちらからは確認できない。女性の肖像画のままだ」
ブルーカスさんには、いや、他の人には認知できないのかな。対象者のみ認知できるみたいだね。警戒を強める。
突然頭痛がした。過去の記憶が思い出される。これは、お姉さん三人とショッピングに出かけたときの楽しい記憶……だったはず。
「はは、このダサい服お前にピッタリだ!」
服を投げつけられる。どうしてこんなことするの?
「……本当だ、面白い」
なんで? 笑わないでよ。
「これなんてどうでしょうか。死に損ないに似合っていますよ」
死に損ないだなんて、お願い、そんなこと言わないで!
「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね」
嫌だ、嫌だ、やめて! やめてよ! 大好きな三人に囲まれて嫌な感情を引き出される。
心の底からそう思った。
『死 ん で し ま い た い』
ハッとする。今のは記憶の改ざんが行われたのか? 無意識に魔力を放出して防御していたようで戻ってこれた。これはアルカナによる事象。惑わされてはだめ。
あんなことを考えるだなんて。
――この気持ち、お返しするよ。
絵画から女性の金切り声が響いた。
「大丈夫か! アリア!」
ブルーカスさんが声を上げている。ああ錯乱状態になっていたのかな。
「大丈夫です、絵画にお返ししましたから」
「お、お返し?」
絵画に触れる。肖像画は元に戻っていた。絵画の下に作者名のプレートがあるのに気がついた。
『鏡の肖像画 聖魔歴5623年 アウロン・シュレ』
絵画からわずかに魔力を感じた。薄っすらと記憶が流れ込んでくる。身構えるがこれは、これはアウロン・シュレの記憶――。
「もう嫌、もう耐えられないのよ。死んでしまいたい」
「そんなこと言わないで、僕がついているから」
「アウロンにはわからないわ!」
女性と男性が会話している。女性に何があったのだろうか。男性は女性の手を握ろうとするが拒まれてしまう。
別の記憶が流れる。
「ミラ、僕はミラの気持ちがわからない。わかりたい。一緒に同じ苦しみを味わって慰めてあげたい」
アウロンはミラの肖像画を描いている。
「ミラ、ミラ、ミラ」
肖像画を描き終えた男性は、大量の油絵具を飲み込み死亡した。魔力から流れる記憶は途切れた。――ミラがその後どうなったのかわからない。
アウロンの考えは間違っていたのかな。もっと他に方法はなかったのかな。ミラはアウロンの死をどう受け止めたのかな。ああ、どうして、どうしてこんな結末に……。
ブルーカスさんに声をかけられた。
「アリア、本部からの指示だ。その絵画を封印式の間へ運んでくれ」
「了解です」
この仕事をしていると、人の気持ちに触れることがある。ぼくはこの感情を収集している。
アウロン、ミラ――。この思い、忘れない。
#ノート小説部3日執筆 『ある画家の自叙伝より抜粋』
夏休み直前の講評会が終わった。僕の評価はボロクソだ。持ち時間ギリギリでトドメに貰った、先生の一言が脳を支配している。
「質が落ちたねぇ」
分かっている。だから堪える。質が落ちたことなんて、自分が一番分かっている。
そんなボロクソの作品は、校舎裏のゴミ置き場に投げてきた。直視したくない。
家に帰ってもまだ尾を引いている。自室のベッドで虚空を見上げたり、張るだけ張って何もしていないキャンバスを眺めたりを繰り返す。
そんな静寂を、けたたましいノックの音がブチ破る。
「にぃに〜、楽器やるからウルサくするよ」
妹だ。吹奏楽部所属で、家の中でも練習する勤勉な子だ。
いいよ、と二つ返事をする。
どうせ防音室に籠もるだろう。漏れ出る楽器の音より、さっきのノック連打の方が煩い。
そのはずなのだが。
「じゃ、お邪魔するね〜」
なんと楽器を持ち込んで部屋に乗り込んできた。話が違う。一体何の用かと訊ねる。
「楽器やるの。言ったでしょ?」
防音室は、練習ならそこでやれと促す。
「パパが会議で使うって、追い出されて」
クソ親父。毒を吐く。
「今に始まったことじゃないでしょ」
それもそうか。沈黙しておく。
話している間に妹は譜面台を組み、それに楽譜を乗せ、勉強机から椅子を引っ張ってそこに我が物顔で座った。
「私も楽器やるからさぁ、にぃにも絵描いてていいよ」
この上から目線である。癪に障る。
だがよく考えたら、防音室を作る前はこうして僕の部屋で練習していた。ほんの少し昔に戻ったと考えればマシだろうか。
ともかく、せめて何か作らねば。いかにも“ちゃんとやってます”感を見せて、妹に勘付かれないように。
木炭の芯を抜いて、下描きから。この際なんでもいい。ただ形を探り当てて、描くべきものを見つけ出しさえすれば、細部は後からついて来る。
とにかく手をキャンバスに乗せる。早く乗せる。とっとと乗せる。乗せろ。乗せた。
「にぃに?」
動け。動かせ。とにかく。手を。
「どしたの〜?おーい」
動かない。
「もしも〜し?」
見えない。分からない。感覚がない。
「しゃあない、鼓膜殺るかぁ」
――!
耳元で楽器の爆音を鳴らされて、ようやく眼の前が見えてきた。相変わらず白いキャンバスに、砕けた木炭がまだら模様を作っている。
木炭の破片が刺さったらしい手と、強制停止させられた頭が痛む。
「大丈夫?何か、すごい唸ってたけど」
大丈夫――と言いたいが、こんな姿を晒してはどうしようもない。大人しく現状を自白する。
「あ〜……スランプってやつ?」
聡い子だ。こればかりは頷くしかない。
以前は、白いキャンバスに向かえば自然と、描くべきものが浮かんできた。僕はそれをなぞり、浮き上がらせ、色を着けるだけでよかった。だが今は、それが存在しない。いくら見つめようとも、キャンバスは白いまま、何かが浮き出ることもない。
「どーするの?ひたすらなにか描くったって、モチーフがないんじゃ、どうしようもないよ」
どうもできない。だからこうなっている。
やや長い沈黙の末、彼女は口を開いた。
「じゃあさ、モチーフは私でどう?演奏してるところ描いてよ」
混乱が先に喉を突く。僕の画風は人間を描くのに向いていない。デフォルメして美しく描けるわけでもないし、写実的でもない。
まして今はこんなザマだ。これで妹を描くわけにはいかない。こんな優秀な子を、僕の悪筆で表現などできない。
「モチーフの選り好みのしすぎなんだよ、きっと。にぃには完璧主義だし……」
全て事実だ。ぐうの音も出ない。
キャンバスに着いた木炭を落とし、新しい木炭を取って、もう一度最初から描いてみる。
僕が木炭を持ったのを確認してから、彼女は演奏を始める。曲の名前は分からないが、どこか幻想的なしっとりとした曲だ。彼女の奏でる楽器(ホルンというらしい)の音色に、よく似合っている。
ともかく、眼の前の景色を、白いキャンバスの中に構築する。置き場所を決め、構成する簡単な形から描き出し、一通り終わったら少し細かく描き、それが終わればもっと細部を描き込む。
何度もやってきた。昔から、そう、ずっと。
――昔の、もう10年以上も前の記憶。
その時も無心で絵を描いていた。教室。昼の陽光が入る景色を、鉛筆で描き出していた。
誰かと会話をするつもりはない。どうせ茶化され、変なことを吹聴されるから。
だから応対したくないのに。絵を描くのはそんなに物珍しいのか、寄り付く人は居る。
「何描いてるの?」
無視。集中しているテイを装う。
「すごいね。これ教室?写真みたい」
即座に否定する。形を取れていない。線も歪で、何よりまだ途中なのに。
「そうなの?こんなに素敵なのに」
否定。あまりにも粗末で拙い、素敵でもない。
「じゃあなんで描いてるの?」
返答に困る。
ただただ、それが好きなだけで、それに意味などない。それを言っても『へんなの』呼ばわりで終わるだろう。だから言いたくはない。
――あの頃からずっとそうだ。思考を纏めるのは苦手だ。
未だに適した言葉は見当たらないし、それが伝わる確証も無い。
なら絵で描くかというとそうでもない。僕にとって、絵とは“そこにある”ものだ。額縁の内側に広がる異世界。先人の歩んだ歴史や、神聖な存在、何か分からないものまで。それはただそこにある、存在している、それだけだ。
だから僕は絵に魅せられているし、現にこうなっている。
恐らく、ずっと描き続けるだろう。キャンバスの中に、自分だけの世界を作り続けるだろう。
なんだ。思い詰める必要性はなかった。ようやく理解してきた。
軽い下描きだけのつもりだったが、いつの間にかパレットに絵の具を出していた。
長くて覚えられない名前の色を出し、同じくらい長い名前の別の色と練り合わせる。そうしてできた色を、白いキャンバスに乗せていく。
キャンバスの中にもう一つ自室が出来上がり、その中に、金メッキの楽器を携えた妹が佇んでいる。
現実の彼女は時折こちらを見るが、絵画の彼女は目もくれず楽譜を見ている。
「にぃに、そろそろご飯だよ。マッマの機嫌良いうちに下りとこ」
気付けば、時刻は19時を過ぎている。食事が出来上がる前にリビングに向かわないと、母親の小言が飛んでくる。
妹は楽器の整備を終えたらしく、描きかけのキャンバスを覗き込んできた。不思議と、嫌な気はしない。
「お〜、結構描いたねぇ。スランプ治りそう?」
それはまだ、分からない。少なくともすぐに治るものではない。
ただ、次の講評会は少し自信を持てる気がしてきた。
#ノート小説部3日執筆 お題:絵画/**「緑の美術館」** ⚠️少し治安が悪い
濃密な草いきれで胸が詰まるようだ。被っていたヘルメットを脱ぎ去って、滴る汗をタオルでぬぐう。長袖の作業着に軍手をはめて、足には防水仕様のトレッキングシューズ。真夏にはおおよそ似つかわしくない重装備である。耳をつんざく蝉しぐれが、さらに暑さを増幅させた。
朽ちたドアから屋根のある場所に潜り込むと、塩化ビニール製の床へ腰を落ち着ける。割れたガラスが少々散乱しているが構うものか。誰に宛てるでもなく「あっつー」と呟いて、軽くなった頭をしばらく外気に晒していた。髪を梳く爽やかな風が心地良い。法に触れない程度に衣服を脱ぎ散らかして寝転がる。日向と影の明暗にやられた目を閉じ、背の冷たさに意識を傾けた。
ややあって瞼を開く。向こうの部屋の天井には、小ぶりなシャンデリアの残骸がいくつかぶら下がっていた。落ちた破片には電球も混ざっているかもしれない。先程見た図面によれば、今いるのはホール横の廊下だったような。
そこには子供がマジックに目を輝かせる光景が、愉快な演芸に湧く観衆が、シャンパンの栓が抜ける軽快な音が、愛を語らう恋人がいたのだろうか。オレンジがかった灯りのもとで、昼夜を問わずみな思い思いに過ごしていたはずだ。明かりだけじゃない。きっと昔はもっと楽しげできらびやかで――。
三十年と少し前、ここは豪華なホテルだったと聞く。見晴らしのいい山の上、都市の夜景を一望できると評判で、ロマンス映画の撮影地にもなっていた。でも今はこのありさまだ。
美しい赤だったであろう絨毯は、紫外線に焼かれてくすんでいる。年中日陰の場所ならグロテスクなカビまみれ。窓はガラスがはまっている方が珍しく、壁にはスプレーで卑猥な落書き。意味深な注射器も落ちていた。端の方にはホームレスが持ち込んだとみられる布団一式がつくねてある。寝泊まりをしていた人物はその後幸せになれたのか、考えるのはよしておこう。つまり繁栄などつゆほども残っていない、見るも無惨な廃墟である。
当時は他にもそういうものがたくさんあって、時代の流れに呑まれ泡とはじけたようだ。昨晩父に現場の話をしたら、第三のビールをシュワシュワさせて遠い目でこう言った。
「僕らが大学生くらいの頃にはまだ残り香が漂ってたよ。恩恵にはあんまり与れなかったけどねぇ」
景気――人間が生み出した形なきものがこうも我々を翻弄し続ける。長らく放置されていた廃ホテルに私が訪れたのも、そいつの上向きを期待して再開発の手が伸びるからだ。夢の跡を取り壊し、ここに新たな商業施設を建てる計画が湧いて出た。様々な企業や娯楽を寄せ集め、外国人をも呼び込むんだとか。そのための実地調査が私の仕事だ。
正直、このご時世にうまく行くとは思えない。どうせアクセスの悪い場所は真っ先に見捨てられる。午前中、先輩たちと息を切らしながら登った山道を、数年後には観光客が歩く? ケーブルカーなんて割に合わない物は、採算が取れずにそのままフイになる未来がありありと見える。
耳元を掠める不快な羽音に、あわてて立ち上がった。開放感を惜しみつつ上着を羽織る。そういえば、ここに来る途中タヌキの足跡があった。不幸が極まればクマにエンカウントなんて話も。人間様が捨てた地では、もはや私たちがよそ者で、畜生たちのテリトリーに他ならない。このままでは蚊たちの飲み放題会場にされそうなので、廃れた廊下をそぞろ歩くことにした。
靴の底で砂やガラスがじゃりっと音を鳴らす。さっきの調査は畳張りの和室だったから、特に土足は堪えた。いかにも日本人らしい感慨にぼんやり浸りつつ、湿気で捲れ上がった壁紙を手で撫でつけて進む。休憩時間とはいえ、用を足すと言って抜けた手前そろそろ戻らなければ。でも一向にそんな気になれない。やがて長い廊下を端まで歩ききってしまった。先の危ぶまれる夢物語と暑さに、思いの外あてられたらしい。成り行き任せでふらりと角を曲がると、不意に強い光が目を鋭く射た。
「わあ……」
無意識に感嘆の声をもらす。今まで暗く陰鬱だったのに、たった九十度方向転換しただけで、別世界かと錯覚するほどの輝きにあふれていた。真夏のどぎつい日差しが、錆の浮く窓枠から燦々と差し込んでいる。それだけならここまで感じ入らなかったろう。カーテンに代わって窓を覆い尽くすのは、わさわさと茂るクズの葉だった。それを透かした陽光が、あたりを鮮やかな緑に染め上げている。ときおり風に吹かれて影は形と深みを変え、細い隙間からこぼれた光が埃を帯状にきらめかせていた。
吸い寄せられるように不思議な景色の中を行く。四角く切り取られた景色の数々は、まるで壁を彩る絵画のようだ。絵の具ではとても出せない、圧倒的な活力と包容力。ひとつひとつ異なる表情は、荒んだ心持ちを和らげた。一方で、退廃的な建物を下地に命の息吹を見せつけるとは、まったくもって皮肉が効いている。一人なのをいいことに小さく吹き出した。
たった三十年あまり放置しただけ。しかし、人工物は猛烈な勢いで自然に飲み込まれ、帰ってゆく。私たちなぞ取るに足らない小さな存在だと思えば、なんだか急に清々した。遅かれ早かれ何事も廃れる。だったら、なるようになれば良いか。なんて。
「――おい、何してる! 一人でほっつき歩くなっつったろ。誰が責任取ると思ってんだ!」
外から聞こえる先輩の声に、はあいと適当に応える。軽やかに踵を返すと、美しき緑の美術館を後にした。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
※無許可の廃墟探訪は不法侵入です。
※必要な手続きをする・許可なく物を取らない捨てない壊さない・心霊スポットと騒ぎ立てないなど、最大限の配慮をしてください。
※単独行動は命取りです。必ず同行者と安全を確かめましょう。
#ノート小説部3日執筆 絵に描いた餅(が食べたいのじゃね)/お題「絵画」
「絵に描いた餅」
いわゆる怪談の話に収まることじゃないですけど、
人間って、何事にもバックグラウンドを想像しがちな生き物じゃないですか。
それがどんなにひどい理由だとしても、理由があることの安堵が、理由がないことの恐怖に勝るんです。
だから、怪談を語る場合でも、そのバックグラウンドがあって然るべき。
唐突に幽霊に襲われる話でも、
「この話には裏があるんじゃないか」とか、
「きっと何かが隠されているに違いない」なんてことを、考えざるを得ないんです。
たとえ雨の峠道にで当人が、不意の事故で命を落としたような事故であっても――
例えば、巡り会わせがよくなかったり、幽霊の仕業という背景を想像せずにはいられない。
そんな何もない場所に、皆が理由をつけるとき――そこに良くないものを呼び込むのはよくある話です。
前提の話は終わりです.
◆◇◆
これは、東京のあるお寺であった話を、幾つか混ぜて薄めたものです。
その地域は、1950年代ごろに人が多くやってきた地域だからか、
高齢化に伴って田舎から持ち込んだものを体よく“処分”するために、
住職さんのもとに、曰くつきの物が持ち込まれることがよくあるそうです。
その中で、ほとんどの物は、謂れも祟りもないガラクタがほとんどなのですが、
ときたまに、“本物”が持ち込まれることがあるそうです。
当代の住職さんは、良いように言うと随分とズボラな方で、私は何度か彼に“本物”を見せてもらったことがあります。
それは、少し黒ずんだ、漆の食器が描かれた掛け軸でした。
私が初めて彼に見せてもらった時、彼はバツの悪い顔をしながら答えました。
この掛け軸は、「絵に描いた餅」という題名以外は説明することはできない。
ただ、この絵を空腹の時に見てはいけないといい、彼は袖の下からいちご大福を取り出して酷く美味しそうに頬張るのです。
その態度に、言いようのない違和感を感じながら思い出したのは、
当時発刊したばかりのダンジョン飯の「生きている絵画」の話でした。
「絵に描いた餅」には、餅が書かれていない。
少しかすれた焼け焦げたような漆原の食器の上には、何も書かれておらず、
綺麗に食べ終えた器の底に、自分の顔が移るかのような“黒”が残されている。
じゃあ、個々には本来何が乗っていたのか――?
私が思いをはせていると、住職はため息をついて、
どうしても気になるなら、今晩、その掛け軸と共に過ごすことを許してくれたのでした。
◆◇◆
その日の夜のことは、よく覚えています。
少し広いお堂の中、布団を敷いてもらい掛け軸と共に寝るのです。
嫌に安心して、掛け軸に布団をかけると、その日は故郷の夢を見ました。
早朝、時計の針が動く音の中で、私は家の中を歩き回るのです、二階にあった自室を抜け出て、トイレ、怪談が見える吹き抜けの廊下、窓から見える向かいの家と山に会ったスキー場、扉が閉じられた母の資質、父の書斎と寝室、階段を下り、扉の閉じられたリビングとダイニング、廊下の先にある洗面所とキッチン。
鮮明な景色。
違和感は、本来誰もいない和室から、香りがしたことです。
随分と腹の減った自分は、音をたてないように扉を開き何故か、和室に向かいました。
すると、カーテンで閉じられた和室のテーブルの上に、掛け軸で見たあの黒い器があったのです。
南向きの窓からかすかに差し込む、東雲の日が器を光らせ、 その器には、あんこ入りの餅が乗っていました。
私が、その黒にひかれるように手を伸ばしました。
心地よい触り心地の、柔らかい餅でした。
一口かじると――なるほど、懐かしい味がしました。
滑らかで柔らかい御餅の内側に詰められた、粒あんの餅でした。
咀嚼するたびに、もちもちとお餅が口の中で粘りながら弾み、粒の残ったあんこのハッキリとした優しい甘さが、口内を満たすのです。
それは、私がよく食べる和菓子屋で食べた。お気に入りの御餅の味でした。
そういえば最近、食べてなかったから――いい機会だ。
私が夢中で、その餅を食べ終えました。
そこには、昨日と同じ何もない黒い器だけが底にありました。
そして、カーテンを挟んだ先、はっきりと誰かが立ってこちらを向いていました。
その表情は、正しくはシルエットを除いて、うかがい知ることはできませんでしたが――
でも、私を見ている彼は、随分と恨めしそうにこちらを除いてくるのでした。
その姿を見て、あげないよ――と私が口に出そうとしたとき
私は翌朝、がらんとしたお堂の中で目を覚ますのでした。
◆◇◆
翌朝、住職の方と一緒に食事をとっているとき、私は夢に見たことを話しました。
彼は少し安心したような様子で、口を開きました。
曰く、「君だから大丈夫だと思っていたが、私は嘘をついていた。あの掛け軸の本来の題名は『至高の美味』といって、四国の田舎で、飢饉に心を病んで憤死した画家が自らの血で書いたもの」だと語ってくれました。
私は、そんなものがあるのかと彼に問い詰めましたが、彼は笑ってそんなはずはないと答えました。
せいぜい、百年の歴史もない贋物だと。
ただ、少なくとも、自分の手に渡るまで幾人かの手で、似たような話と共に伝わっている品であることは間違いないと。
「だから、君で試したわけだが、君があの程度で済んだのなら、早々に処分した方が間違いないだろう……」
君もさっさと、忘れた方がいい――と言われ、謝礼と共にその日は返されました。
私は、帰りに行きつけの和菓子屋により、現実でもその餅を食べながら、その掛け軸について考えていました。
あれはいわゆる、ない場所に、ない物を呼び込む方法の産物でした。
ふと私が思い立ったことは、曰くを作り出す方法で、曰くが呼び込まれるのは何処なのかという一つの疑問でした。
幽霊の正体見たり枯れ尾花――いつだって、曰くを作り出すのは人間の想像力です――そう考えると、なるほど、確かにあの程度の品なら処分した方がいいのだろうと思い――
私も細やかに呪われた自分を忘れるために、あの黒々とした鏡のような器と、あの恨めしそうなシルエットを餅と一緒に嚥下するのでした。
◆◇◆
余談ですが、住職は件の『至高の美味』を、高い値を付けてもらったからと売ってしまったとのことです。
もし、似たような謂れの有る、黒く何かがポツンと書かれただけの掛け軸をどこかで見かけても、手を出すことはやめておいた方がいいと思います。
この話はこれで終わりです。
#ノート小説部3日執筆 お題「絵画」清算
白いカーテンが揺らいでいるのをただじっと見ている。遠くから、自分の名前を呼ぶ声がする。
「|瑠李《るり》!」
その声で私は目が覚めたように現状を知る。私の目の前には大きなキャンバス。赤黒い中に一筋の光がさす物だ。
それは、見覚えがあった。これは、高校2年のときだと一瞬で理解した。
「瑠李なんか変だよ、今日は休めば?」
「いや、別に。寝不足が祟ったのかも」
笑いながら、返事をする。自分が言ったわけではない。口が勝手にそう動いたのだ。
「そうならいいけどさ、あんま寝不足すると授業中も寝てるんじゃない?」
「あはは、その通りでございます」
軽口を叩きながら、筆を動かすのはやめない。コンクールまでの期間があと少しだからだ。
私は、この結末を知っている。知っているけど、私は何もできない。
何度も見た、絵に絵の具を塗りつけていく。
「寝不足なのはいいけどさ、あと少しだからね? 完成しませんでしたじゃせんせー怒るよ」
「私ぐらいの天才ぐらいになるとほとんど完成してるんだなこれが」
「またまたー」
遠くで、運動部が走る音が聞こえてくる。冷房は付いているが、蝉の鳴き声で夏を実感する。
暗すぎる、と考えても、もう遅い。せめて、明るい色を塗り重ねるが、乾いてない絵の具の上に塗っても混ざるだけだ。
「急激にお腹すいたんだけど、購買まだ開いてたっけ?」
高2の私がそう言うと、友人は壁掛け時計を見て、「空いてないんじゃない?」
「げ〜〜〜〜〜〜じゃあ、飲み物でも買ってくるか〜〜〜」
「じゃあ私のやつもよろしく。パックのいちごミルクね」
「あんな小さいやつ飲んでるの⚫️⚫️ぐらいだよ」
肝心の友人の名前は思い出せない。ノイズがかかったように聞こえない。それはこれを第三者目線で見ている私だけで、当時の私は当然のように言った。
そういえば、親友だったな。
「でも、ペットボトルでいちごミルクなくない?」
「そうだけどさ、まあいいや、お金後で渡してよね」
「はいはい、いってらっしゃい」
「いってきます〜〜!」
階段を走って降りて、自販機が並べられたところに来て、誰もいないことを確認して、当時の私はため息を吐く。
私は、このため息の理由を知っている。友人の絵は規格外に上手くて、誰もが賞賛する。先ほど、高2の自分は自分のことを天才と称したが、天才は友人の方だ。美大からも推薦をもらっている、とは当時噂だが、後日、友人に秘密話のように聞かされる。親に「絵は高校生までね」と言われた私は、激しく嫉妬してしまうことは知っている。
私は、友人には見せないような真顔でパックのいちごミルクと、ペットボトルのミルクティーを買う。本当は近くのコンビニのパックのミルクティーがいいが、そこまで行くとは友人には言ってないので、私は恐る恐る来た道を帰る。日差しが入ってた美術室とは違い、真っ暗の階段を登っていく。足が行きより遅いのはわかっていた。私はこの後のこともよく覚えてる。美術室の扉を開けて、「買ってきたよ〜」と言うと同時に目の前の光景を目を見開いて見る。喉が弾くついたのがわかる。
友人が私の絵を見ていたのだ。
「何見てんの」
私は友人の前なのに酷く冷たい声が出た。当時はこんなに冷たい声が自分から出るんだと驚いてたっけ。
「いや〜瑠李がどんなの書いてるか気になって見ちゃった。ダメだった?」
「ダメじゃないよ。せっかくコンクールで見せて驚かそうと思ったのにって思ってたのに計画が台無しだよ」
「確かに、コンクールでこれを見たら驚くかもね」
「でしょ? だから秘密にしたかったのに〜」
「ごめんって」
「はい、いちごみるく」
私がいちごみるくを渡すと、友人は120円を出してくる。
「20円多いんだけど」
「見物料だって。いいもの見せてもらったから、モチベガン上がりよ」
「まあ、ありがたくいただいておくわ」
これは、全部うそだ。私は怒って、友人の胸ぐらを掴んで、怒鳴りたいのを我慢して、軽口を言った。それしかできないから。
「その色使いってもしかしてエル・グレコに影響されてるの?」
「そんなわけないって。確かにエル・グレコは好きだけどさ〜」
尊敬する画家の名前を友人の口から聞きたくなかった。軽く見られてるようで嫌だったからだ。
2人共黙って、絵の具を塗り重ねている。友人はパックのいちごみるくを口に加えたまま、ベコベコと鳴らしながら、書いている。
よく絵を描けるなその状態で、と思ってたら、ディーゼル越しに友人と目が合う。
「何?」
「……間違えたら、ごめんなんだけど、もしかして、怒ってる?」
「そりゃあ怒ってるよ、自分だけ私の絵見て、私には見せないのがいや〜〜〜〜〜〜」
「ごめんごめん。まだ完成してないからさ。完成したら、一番に見せるから」
「本当?」
「本当」
「まあ、いいけどさ、ギリギリはやめときなよ、先生怖いし」
「そーなんだよね」
私はここでミルクティーを飲んで周りを見渡す。
「木村達また来てないね」
「幽霊部員みたいなもんだしね〜」
木村達、と言うのは同じ美術部に属する高校2年の友人だ。1年の頃は美術室によく来ていた。でも、友人の圧倒的な画力をコンクールで目にして、筆を折った。実質退部みたいなものだが、退部するとなると顧問と話さなければいけない。だから幽霊部員に収まってる。「瑠李は、まだ続けるの」「うん」そう答えたこと、その時はまだ気にしてなかった。そのことを友人に伝えていれば、傷になったのかもしれない。
「あら、2人まだ残っていたの?」
顧問の先生だ。基本的に優しいが、厳しい時は厳しい。先生は知らないだろうが、今年の1年の心を抉って退部させてるのは先生のせいだ。
「コンクールが近いので」
「熱心なのはいいけど、もうこんな時間だからね」
「はーい帰りまーす」
美術準備室の網棚に絵を置いて、ディーゼルを片付ける。
椅子も片付けて、「もういい?」と友人が電気のスイッチに手をかけているのを「待って〜!」と言って、私は鞄を握りしめて、美術室を出る。
友人と笑いながら、今日のテレビの話とかして、自転車置き場に行く。友人は、徒歩圏内だから、ここまで来てくれるのは親友だからだ。
「じゃあね」
「バイバイ」
そう言って校門で別れる。
そこで、大人の私は目が覚める。嫌な夢を見たなと感じながら、カーテンを開ける。今の私はただの会社員だ。あの後は結局あの子が金賞を取って、私は入選どころか、顧問に止められて出すこともできなかった。それで、イライラして、自分の絵をカッターで切り刻んだ。バッテンをつけただけだが。それを友人に見られて、私は退部した。退部するとき、顧問に止められたが、目は合わせなかった。私は友人を徹底的に避けて、木村達のグループに入った。心地良かったのをよく覚えてる。
なんで、この夢を見たのか理由は分かり切ってる。SNSのトレンドに画家としてかつての友人が出ていたからだ。だから夢を見た。
当時使っていた、がま口財布に入ってる20円はあの日もらった20円だ。
外に出て、一番近くにある自販機に100円と20円を入れて、缶コーヒーを買った。別に好きなわけでもない。これで、あの子との縁は切れたなと思った。
#ノート小説部3日執筆 絵画とは人の描いた平面表現
学校の絵画鑑賞会というものほど退屈なものはない。
みんなで連れ立って美術館に行って、絵を見て感想を書いて出しましょう。くだらない。
そもそも絵がわからない。絵の見方がわからない。絵を見たって何も感じない。
「ああ、どこかの街だ」「ああ、手だ」というそれだけだ。
「どんな手だった?」と言われても困る。絵を指して「こんな手だ」と言うしかないし、だからなんだと言う話だ。
「人だ」「花だ」という感想が出てくるのはまだマシで、抽象画になると何が何だかもう分からない。何を描いているのかさっぱりだから、感想は「ここに10センチの線がある」としか言いようがない。
「どう思った?」と聞かれるが、どうも思わない。手は手で線は線じゃないか。それ以外のなんでもない。
それでも授業である以上、800字を埋めなければならなかった。約10分以内に。
同級生は書き終わった人とまだの人が半々くらいで、それでも全く手をつけていない人は少ない。
「気になったことを書いてみればいい」と学芸員?の人は言っていた。
気になったことといえば……。
僕はあるケースの前で立ち止まる。それは部屋の中心にあった。
「展示替え中」のラベルの横で、四角い箱が線を描いていた。線はクルクルと巻き取られていく。ただ淡々と、延々と。これも「芸術」なのだろうか。絵画鑑賞会と銘打たれているが、立体物もいいですよと言っていたではないか。わからないが、これはきっとゲンダイゲイジュツというものなのだろう。
その波形に目が止まった。以前受けた健康診断、心電図の波形を思い出した。それは僕には理解できなかったけれど、僕が確かに「生きている」形だった。その箱は今もなお、ふらふらと小刻みに揺らぐ線を吐き出し続けている。
その線は、ただの線だ。でも、気持ちのいい線だ。
線は続く。どこまでも。2本の線を描きつづけている。その線が「気になった」。
それを提出すると、担任は「それは温湿度計だろう。バカだなあ」と笑った。でも、理科の年取った先生だけは「それはいい絵を見つけたね」と言ってくれた。そして、擬態する虫、花びらの数の規則性、フーコーの振り子の軌道や、オイラーの公式を教えてくれた。
絵画はわからない。でも、この世界は人の意図しない絵画で溢れている。
題「『優しい時間』 スズキコウタロウ」 #ノート小説部3日執筆
まだ幼かったある日、少年は絵に出会った。それは絵画ではなく、母が彼のために描いた優しい落書きだった。彼は早速真似をしてみることにした。父、母、近所の猫、多くのものを描いた。家族はそれを上手だと褒めてくれた。彼はそれが心の底から嬉しかった。
「あら、まだ描いてるの?」
部屋のドアを開けて入ってきた母が後ろから話しかけてきた。少年は振り返ることなく「うん」とだけ返事をする。
「ご飯できたから食べにいらっしゃい」母が続ける。
「後で」彼は机から目を離すことなく答える。彼女が心配そうに見つめるのを背中に感じながらも、彼は手を動かすことをやめなかった。少しすると「ハァ」とため息をつき、夕飯に誘うことを諦めた母は、ドアを閉めて去っていった。
しばらくすると、 少年は一区切りついたのか、ペンを置いて背伸びをした。彼には目標があった。それは、目の前の作品を母の誕生日までに完成させることだ。机の上にある作品を目の前に持ち上げ、彼は得意げに笑う。そこに描かれていたのは一つの家族が食卓を囲む様子だった。誕生日まであと四日、きっと母は喜んでくれるだろう。作品を机に置いて、少年は作業に戻る。
彼は描き続けた。業を煮やした母親に怒られるまで。
「ねえ、まだ描いてるの?」
同じクラスの女子が話しかけてきた。青年は「ああ」とだけ返事をし、作業を続ける。彼の目の前にあるキャンバスには、家族が食事をする風景が描かれている。
「もうみんな帰っちゃったよ」彼女はそう続けた。
青年は、その時初めて空が黄昏色に染まっていることに気がついて、彼はため息をついた。今日も夕飯に間に合わなかったことを、母親からしつこく言われることが決定したからだ。
「君は? まだ帰らないの?」
青年は後ろに立っていた女子に尋ねる。
「私? 今日鍵の当番でさ、この部屋閉めなきゃ帰れないの」
彼女は手に持っていた鍵の束を、これ見よがしに彼の前に差し出した。「あーあ、誰かさんが早く作業切り上げてくれないかな」という小言付きで。
彼は申し訳なくなって「ごめん」と弱々しく謝った。しかし、すぐに「あと少しだけ、もうすぐ父さんの誕生日なんだ」と作業に戻る。それを見た彼女は肩をすくめて「じゃあ、あとよろしく」と言って、青年に鍵を投げつけて去っていった。
彼は描き続けた。時間の許す限り。
「おう、まだ描いてんのか」
同じアトリエを使う友人が後ろから話しかけてきた。男は煩わしそうに「ああ」と振り返ることなく答える。目の前のキャンバスには、家族が楽しそうに食事をしている様子が描かれていた。
「お前、またソレ描いてんのか。そんなの今の時代じゃ売れないどころか、見向きもされねえぞ」
そう呆れたように、彼は続けた。そして「やっぱ今は、三次元抽象画だぜ」と仰々しいヘッドセットを着けて、作業スペースをピョンピョンと踊り始めた。振り返った男は、その滑稽さを彼に聞こえないよう、静かにクスクスと笑った。
「なあ、お前、なんで描いてんだ?」
作業をしていると、一段落ついたのだろうか、汗だくの友人がそう問うてきた。
「なんでって、絵のことか?」男は聞き返す。
「違う、ソレだよ、目の前にある絵画の方だ」彼はキャンバスを指差した。
「確かに……なんでだろうな?」
「俺に聞かれても知らねえよ。ただ、それだけ家族に執着するなら、理由の一つ二つあって然るべきだろ。なあ、教えてくれよ」
「なんで、なんで……ねえ」
そう繰り返し、男は、自分の過去を振り返る。確かに、描く理由はあった。それは「家族に褒められたから」だ。ならば、今はどうだろうか。故郷から遠く離れ、売れもしない絵を描き続ける理由は何なのか。もう褒められることもないのに、家族を描き続けるのは何故か。何故、何故、何度も何度も繰り返し、自分に問い続ける。それでも、彼は、その答えを自分の中に見つけることはできなかった。それと同時に、筆を握る指の力が無くなっていくのが分かった。
カランカラン、と床に筆が落ちる。今まで共に人生を歩んできたはずの道具は、いとも簡単に手から滑り落ちた。
「おい! 大丈夫か!」慌てて友人が駆け寄ってくる。
「な、あ」男は震えた声で問う。
「俺は、俺は……なんで描いてたんだろうな……」
男はその日を境に筆を握れなくなった。
そして、彼は描くことをやめた。
「ねえ、なんで描くのやめちゃったの? あんなに頑張ってたのに」夕飯を食べていると、妻がそう聞いてきた。
「さあ、どうだったか。もう忘れちゃったよ」
男はそう返す。まるで執着が無かったかのように。
「お父さん絵描いてたの?」と向かいに座っている娘が興味深そうに聞いてきた。
「まあね、昔の話だよ」彼は懐かしむように語る。
男にとって、それはすでに昔のことだった。
ある日、仕事から帰ってくると、リビングが綺麗に飾り付けられていた。一体どうしたのか、と妻に尋ねると「今日、あなたの誕生日でしょ。誕生日パーティがしたいってあの子がね」嬉しそうに彼女はそう説明してくれた。
男の誕生日会はつつがなく進行した。いつの間に予約したケーキを食べ、満足していると娘が「プレゼントがある」と元気いっぱいに自分の部屋に駆け出していった。三分もかからず戻ってきた彼女の両手には、画用紙が大事そうに抱えられていた。それを見た男は、自分の心臓が早鐘を打っていることに気がついた。
「じゃん!」
そう言って裏返された画用紙には、家族がケーキを囲んでいる風景が描かれていた。それは、かつて自分が描いていた、あのとき描けなくなった絵画によく似ていた。世界がぐにゃりと曲がるかのように視界が歪んでいく。男はそれでもなんとか父親の顔を取り戻し「すご……いな! 上手に描けてるな!」と娘を褒めた。
「お父さんの絵、真似したから!」娘が得意げに話す。
「ハハ、ありがとうな。お父さん嬉しいよ」
そう言いながら彼女を持ち上げ、抱きしめる。そして、平静を装い「なんで絵にしたんだ?」と聞いた。
「だって、好きなんだもん。みんながご飯食べてるやつ」
「そんなに良かったのか、あの絵」
「うん。あったかくて優しいから」
「そうか……そうか……」
それを聞いて、彼は目から涙が溢れた。やっと分かった。私もあの日の少年も、好きだったのだ。家族で食事をしたあの時間が。だから描いていたのだ。だから描き続けたのだ。ただそれだけの単純な理由に、答えに気がつくのに、どれほど時間が掛かってしまったのだろうか。男は肩を震わせながら泣いた。
「お父さん、悲しいの?」娘が心配そうに聞く。
「違う、違うよ。嬉しいんだ。嬉しくて泣いてるんだよ」男は泣きながら答えた。
「ねえ、まだ描いてるの?」
部屋のドアを開けて、娘がそう聞いてくる。それに「もう少し、もう少しだから!」と慌てて返す。
男は筆を握り直して、キャンバスに向かって手を動かす。そこに描かれていたのは、笑顔で食事をする家族の風景だった。彼はこれからもそれを描き続けるのだろう。では何故描くのか。
「だって好きだからなあ、しょうがない」
彼は少し笑いながらそう呟いた。
#ノート小説部3日執筆 お題【絵画】
「チケット貰っただけなのに」
「いやー! 助かったよ眞壁くん! さすが、うちのエースだな眞壁くん! 素晴らしい人材が揃う我が社は安泰だよ眞壁くん!」
上司の上機嫌な労いに、お褒めに預かり光栄です、と返す眞壁の表情は、そのようなことを微塵も思っていないと言わんばかりだった。しかし彼の上司は気にすることなく、しきりに素晴らしいを連呼している。
「わざわざ、休日に出向いてもらったお礼には到底及ばないかもしれないが、これを貰ってくれ。芸術に疎い私より、君の方が相応しい」
そう言って上司はとある絵画展のチケットを差し出した。それは先程の取引先で、商談がうまいこと進み、相手に有意義な時間を過ごすことができた礼として渡されたものだ。
取引の間、相手社長の芸術に対する興味関心が尽きず、その話題になんとかついていけたのは眞壁のみであり、上司は横で愛想笑いを浮かべることしかできていなかったのだから、きっとこのチケットは彼にとってただの紙切れ同然なのだろう。
それに次に会った時に感想を聞かれたら答えられないこともわかっていて投げてきたに違いない、と眞壁は思ったが、あえてそこに言及することはせず差し出されるまま受け取った。
上司とはそこで解散し、その足で絵画展の会場へ向かう。個展を開いている人物の名前に覚えはなかった。だが、取引先の社長が懇意にしているということはそれなりの理由があるのかもしれない、と思い足を踏み入れる。
飾られている絵は大小さまざま、風景、人物、動植物、なんでもある。飾られている絵に一貫性はなかった。
(……なんていうか、本当に思いついたものを思いついただけ形にしている感じだな)
だが、そこには何かに縛られたわけでもない自由さを感じられて、眞壁にとっては好ましい空間だった。
休日、ということもあり来場者数はなかなかだ。さらに奥に進むと一際、人だかりができている一角がある。彼らはある一人の人物を取り囲んでいた。
(……!? 室賀の二番目の兄、筑波じゃねぇか……)
着物姿で姿勢良く立ち、穏やかに話す姿は来場者を虜にしている。眞壁はチケットを改めて確認した。そこにはやはり筑波の名前はなかったが、休日に限り日替わりで複数ゲストを呼んでいるとは書かれている。
まさかそのゲストの一人が筑波だったとは、なんて運命のいたずらか、と思わず天を仰いだ。
おそらくお互いに気が付いているだろうが、関わり合いにならず消えたほうがマシだ、と眞壁は何食わぬ顔でその前を通り過ぎ、飾られている絵を余すことなく鑑賞し出口へと向かう。
あと数枚で出口、というところで後ろから声をかけられてしまった。振り向かずともわかっているし、応えたくはなかったがそうもいかず、平常心を総動員して振り返る。
穏やかそうな表情でありきたりな会話をしてくる筑波に、眞壁も簡単に応える。それを遠巻きに見ている人間たちの視線にどうも嫉妬らしき感情が含まれ、眞壁に刺さってきていることについては気が付かないふりをする。むしろ、そうなるとわかってて筑波はわざわざ話しかけてきたのかもしれない。
ここに来た経緯を簡単に話すと、彼はそうでしたか、と微笑み、1枚のカードを眞壁に手渡した。
「……では、こちらは貴方が良いようにしてください」
「……良いように?」
「はい、良いように」
今回のチケットをくださった方に渡すもよし、ご自身で使うもよし、と言い彼は去っていく。
そのカードは招待状のようなものだった。
筑波自身も個展など開いているらしい。その優待券ともいえる。
(……出会うなり木刀や薙刀で人をスライスしようとするような男の個展にのこのこ行けるかよ……)
持ってたら呪われそうだし、処分したらしたで呪われそうだし、とその招待状は今回の絵画展のチケットをくれた取引先の社長に早々に渡すのが妥当だろうと判断する。おそらくは無条件で喜んでくれることだろう。
『湖の子』※死を想起させる描写あり #ノート小説部3日執筆 お題:絵画 #七神剣の森 現パロ時空
湖の子は 消えちゃった
朝の光に 消えちゃった
お父様が 怒っても
お母様が 探しても
湖の子は 戻れない
青い魚に なったとさ
私の故郷の童謡を日本語に訳すと、こんな感じだろうか。年の半分くらいは凍っている大きな湖の畔で、私達は村から殆ど出ることもなく慎ましく暮らしていた。北欧では珍しい黒髪黒目の集落だった。先祖は正統なヴァイキングだったという。ヴァイキングの正統って何なんだろうか。
湖の子は、もう帰ってこない。
あの時朝の光に消えたのは、私の最愛の人だったのか、それとも私の心だったのか。わずか十歳の子供には、いずれにせよ重すぎる負荷だったのだろう。
味覚と嗅覚を喪って塞ぎこんだ私を心配した両親は、最終的に私を国から連れ出した。暖かく喧しい極東の地に、私の救いを求めて。
私は冷たい湖の絵を描いた。
光や季節を変えて、何枚も。
五つ歳上の彼が遊んでくれた思い出の場所。
寂しそうな、悲しそうな笑顔を見せた木陰。
忘れたくない。
離れたくない。
「ラインハルトは絵を描くのが好きなのだし、画家を目指すのも良いかもね。」
私が高校から押し付けられた進路希望の紙を白紙のまま母に手渡すと、彼女は少し悩んでからそう言った。
「画家になれば、母様は私のことを諦めてくださいますか。」
「大人になったら、何も口出ししないわよ。」
私は美大を目指すことになった。
しかし、「人」を描けなかった。
石膏像ですら、目の前にして鉛筆を持つと手が震えた。
動いて。生きて。死なないで。
静謐が、敵だった。
講師と相談して、観察の時間を最小限にする、わざと部分だけに注視する、などの小技を使って「人」と認識しないことにより、入試は何とか合格した。
デッサンの授業でも人体を扱うことはあったが、自由に立ち歩いて良かったので助かった。
ただ、私が描きたいと思えるものは、やはりあの、冷たい湖だけだった。
失った感覚は戻らない。きっと湖にさらわれた。
私の人生も、あの少年が持っていってしまった。
主題が縛られすぎて売れないだろうからと教職を勧められ、私は志も何も無いまま教員となった。日本人でない私は国際色を売りにしたい私立の高校に気に入られ、今の職にありついた。
高校生を相手にするのは、あの人を覚えておくのにちょうど良かった。
毎晩のように涙し、
ああ、泣けるように
「なってしまった」か、
と恥じ入る日々が続いた。
その日は一段と暑かった。
あの人を失ってから一度もハサミを通したことのない後ろ髪を冷やすために、喫茶店に入った。最近出来たばかりなのか、調度品が真新しい。奥の方で談笑する声が聞こえたので、入口付近の明るいテーブルを選んだ。
「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになりましたら……」
コトリと冷水が置かれる。正直、味覚も嗅覚も無い身、飲み物など何でも良いのだけれど……少年の声? バイトだろうか。
「アイスコーヒー……」
顔を上げて店員を見た。
時の精霊が悪戯をしたのか。
世界が静止した。
間違いない、あの人だ。あの人の顔をしている。どうして? ここは日本で、あれからもう十六年経っている、なぜ今ここに? いや、違うよく見ろ、髪が狐色だ、別人だ、いやあり得ない、私があの人の顔を見誤るなど、いやだから似ているだけだ、他人の空似だ、声だって。声はもう思い出せない、完全に今の彼の声で上書きされてしまった、私の、私の大切な思い出が混ざる。彼と混ざる。ああ、やはり本人なのではないか。だって声が、私を見下ろす眼差しが、微笑みが、
───湖に濡れた冷たい石の懐かしい匂いがする。
アイスコーヒーひとつ、と彼は復唱して、カウンターに戻ってゆく。私は彼から目を離せずに、上の空で水を飲んだ。
……ああ。これがさっき感じた匂い。
冷水が入ったコップの匂い、だったのか。
彼が私に感覚を返してくれたということなのか。
水の味も、分かる。
故郷の水とは違う、知らない味だ。
ゆっくりと、他の匂いが混ざり始めた。調度品の木の匂い、父がよく挽いていたコーヒー豆の匂い、店内を飾るハイドレイジアの花の匂い。
尚も少年を目で追いながら、思考は散逸している。困ったな、感覚のある状態で飲むコーヒーは初めてだ。飲めるかな……。
私の視線で困らせてしまったか、彼は奥に引っ込んでしまった。申し訳なくなり、仕事でもするかと鞄を漁る。大学の同窓会の会報が出てきたので、開いて読み始める。奥から人が出てきた気配がしたが、そちらを向かないようぐっと堪えた。
「アイスコーヒーお待たせしました〜」
運んできたのは少年ではなく大人の女性だった。少し残念に思いながら会報から目を離し、会釈する。
「……あら! やっぱり、美術のかたなんですね!」
会報の封筒の大学名でも見たか、女性が声を上げた。やっぱりとは何だろう、芸術家にでも見えたのか。
「……いえ、ただの高校教師ですよ。」
「ああ、もしかして坂の下の進学校の? 道理でご縁がないはずだわぁ、うちの子達そんなに頭が良くないから……」
「母さん、余計なこと言うなってー!」
カウンターから二人分の抗議が飛んでくる。家族経営なのだろう。思わずふ、と微笑むと、母さんと呼ばれた女性は笑顔でまた話し掛けてきた。
「……ごめんなさいね、懐かしい人に似ているものだからつい。その人も芸術と学問を扱う人だったの。そうだわ! レオン、あなたの写真この先生に見てもらいましょうよ!」
えー!?と少年から悲鳴が聞こえたが、母親はお構いなしに店の奥から何枚かの写真を持ってきた。正直専門外だけれど、彼が撮るものには興味があったので黙って受け取る。
露地。猫。海。花。素朴な感性が心をくすぐる。良いと思ったから撮ったのだろう。
……これは、湖……いや池、か。
うつくしい。
私の描く湖にはない輝きがその一枚に満ちていた。
きらきらと、命に溢れていた。
ああ、羨ましい。
私も再びあなたと共にこの湖を眺めたい。
「それがお気に召しました?」
「あ、ええ、故郷に似ていて、懐かしくて……」
全然似ていないのに咄嗟に嘘をついてしまった。
「それ確かこの近所の池ですよ。レオン、今から案内してあげたら?」
「この炎天下で!?」
「ネッククーラー付けてきゃ大丈夫よ。お客様も、どう? 帰ってきたらおかわりサービスするわ」
思ったより苦かったコーヒーを痩せ我慢で飲み干し、池の目の前で車から降ろされた私と少年は、撮影場所まで歩いていった。
「そこの桟橋から撮ったんだ、あれは春で、まだこんなに生い茂ってなくて……」
少年が錆びた桟橋に降りる。
その手を、私はしっかりと掴んで引き戻して。
抱きとめようとした寸前で、我に返った。
「……危ないです。落ちますよ。」
「え、だ、大丈夫だよ……心配ありがと……」
そう、この子はあの人じゃない。
儚く泡になった彼とは違う元気な子。
あの人が奪った人生を、返してくれた子。
私は自分の動揺を誤魔化すように目を細めて見渡し、光景を心に焼き付けた。
輝くうつくしい湖と、明るい髪の少年の絵を、描きたいと思った。
#ノート小説部3日執筆 お題【絵画】 おっさん聖女、絵画になる(ほんのりBL風味)
「なぁなぁ、これって本気なの?」
戸惑いを隠しきれず、俺は控えめに隣の男に問いかける。周囲には何人もの画家が各々が「ここだ」と思う位置にイーゼルを置いたところだった。
「ラウル、何を言ってる。世界を救っておいて、今さらこれくらいどうってことないだろう」
「いや、でもなぁ……?」
ただのおっさんである俺が座り、その隣には若い男前――ジークヴァルトなんてかっこいい名前なんかついちゃってまぁ憎らしいこと!――が立っている。分かりにくいとは思うが、聖女と騎士である。
おっさんとイケメンの組み合わせだが、間違いなく俺たちは“魔界の扉”の封印に成功した聖女と騎士のバディだ。
聖女たちの内、魔界の扉を封印した聖女が当代の聖女として絵画になる。その準備が行われている最中だ。
「ラウルの功績は、後世に残すべきだ。堂々としていれば良い」
「もういっそ、きみだけでも良くない? 見目の良い男だけの方がみんなも喜ぶでしょうが」
イーゼルの上にキャンバスが置かれ、いよいよ画家が画材を広げ始めていた。
下手に動こうものなら画家から文句が出る。――実際には俺がそう思うだけで終わりそうだけどな。だって、画家のみなさん、俺のことを国王に向ける時以上に尊いものを見るみたいな視線を送ってくるから。
「彼らの視線の意味を理解しておいて、それを堂々と彼らに伝えられるか?」
「いんや……無理。あんな目で見られたら、俺、もっとしっかり聖女しないといけないなって思っちゃうもん」
「くく……」
笑いをこらえて顔を歪ませるジークヴァルトを軽く睨む。顔が歪んでも顔の良い男は整って見える。はあ、仕方ない。大人しく描いてもらうしかないじゃないか。ジークヴァルトが真正面を向いてきりっとした顔を作るのを確認した俺は、彼に倣って真正面を向いて聖女らしく微笑んだ。
「ようやく覚悟が決まったか」
「……まあ、ね」
俺はこれまでの経緯やらなにやらを思い浮かべる。
そりゃ、まあ頑張った。他の聖女と協力しつつ、この隣にいる男前と一緒に先陣を切った。すべての命に責任を持つつもりで、可能な限りの神力を使い、魔界の扉から出てくる魔獣を倒しまくった。その結果がこれだとは思わなかったけど。
男性聖女は本当に少ない。絶滅危惧だ。その中でも「聖女として活動できる」レベルに達している者は、と言うと俺の他には一人だけだ。ひどすぎる。それはそれとして、できる事を頑張った結果、魔界の扉を封印した聖女初男性となってしまった。
想定外に目立つ存在になってしまったが、後悔するはずがない。世界が守れるなら、こうしてみんなが笑顔でいられるなら、それくらい安い迷惑料だろう。
「ラウル」
「ん?」
ふと、穏やかな声で名前を呼ばれた。
「俺は、ラウルが聖女で良かった。命を預け合って戦う相棒がおまえだったおかげで、俺はこうして生きていられる」
「そっか?」
真っ直ぐに言われるとちょっとむず痒い。俺は何でもない風に返事をしたが、顔に熱が集まっていく気がした。
何度も同じような時間を繰り返し、ようやく肖像画が仕上がった。
「わぁ、俺ってばこんな顔をしてたんだ?」
著名な芸術家を集めて描かせた絵画たちは、どれも傑作ぞろいだった――が、男性聖女の俺が女神様みたいな表情になっている。そして隣にはやっぱり見目の良い偉丈夫。
俺の見た目がおっさんだから、なんかちょっとこう……こう……表現しがたい、今すぐ頭をかきむしりたくなるような羞恥心というんだろうか、とにかく何か、暴れたい。
「ずいぶんと慈悲深い、穏やかな表情をしているんだな……」
「きみねぇ……――」
からかうのもほどほどにしてくれ、と文句を言おうとして喉がつかえる。ジークヴァルトは泣きそうな顔をしていた。なんていう顔をしているんだ、と茶化す気も起きないくらいに。
「これ、永遠に残されるんだよな」
「そうだな」
並べられた絵画を二人で眺める。この肖像画たちは、これからそれぞれの場所で展示されることになる。こうしてすべてを一度に鑑賞することは、今後一生ないだろう。
「俺、周囲の女の子たちに嫌われないかな」
展示され、様々な人に鑑賞される姿を想像し、思わず言葉が漏れる。
「なぜ」
「だって、きみ顔が良いから。性格も良いけど。そんなきみの隣にいるの、おっさん聖女だぞ?」
俺がそう言えば、彼は驚いた顔をしてみせる。いや、その顔をされることの方がびっくりだ。
「嫉妬されるのは俺の方だ」
「はぁ?」
驚きに驚きが加わって変な声が出た。
「だって、稀代の聖女様の隣に立たせてもらってるんだからな」
「いやいや、珍しくおっさんなだけだって」
こいつ、時々なんかおかしいくらい聖女推しになるんだよな。こんなんだから彼女ができないんだ。
「ラウルほど聖女が似合う男はいない」
「褒めても何も出ないぞ?」
「それは残念」
小さく笑う男は、すごく様になっていて、俺が普通に女の子の聖女だったらときめいちゃうんだろうな、と思う。
「ラウル」
「ん?」
「今、何を考えた?」
「え?」
自分が女だったら、なんてことを考えていたとは言いにくい。俺が半笑いで誤魔化そうとしたら、ジークヴァルトが質問した理由を明かした。
「一瞬、絵画と同じ表情になった」
「……嘘だろ?」
「いや、本当だ」
どうしよう。もう俺、この絵画たちがまともに見れなくなったかもしれない。
「あー、うん。秘密」
絶対に言いたくない。俺は人差し指を口元に添えて良い笑顔を作った。
「バディに秘密を作るとは、なんて酷い聖女だ」
「うん。ごめんね? 俺、おっさん聖女だから、ずるいんだ」
俺が首を小さく傾げながらそう言うと、ジークヴァルトはきゅっと口元を一文字にして何かを堪えた。この顔をしたあとは絶対に追及してこないことを知っている俺は、よし、と心の中で頷いた。
#おっさん聖女
#ノート小説部3日執筆 お題:絵画。いつもの彼女と青年の話ですよ。なんだかもだもだすんなこのふたり。
平日の人の少ない美術館。週末の賑わいのある美術館。
どんな時でも彼女は一枚の大きな絵の前に据えてあるベンチに座って、何時間もじっと見ている。青年には彼女がその絵に何を見ているのかわからない。けれど、青年も彼女の隣で絵を眺めている。
その場所に展示してある絵画は時々、入れ替わり別の絵画になる。水墨画の時もあれば、浮世絵の時もあり、さらには油絵やモザイク画の時もある。おそらく彼女には展示される絵画がどんなものでも構わないのだ。ただ、きっとその絵の中に描かれているものの本質を見ようとしている。絵画に託された言葉を読み取ろうとしている。
平日の閑散とした美術館には人が少ない。しかも場所柄、空調はちょうどよく涼しくて静かだ。昼間も夏も間近の強い日差しに照り付けられることもなく、ひんやりとしているくらいだ。美術館という場所は人間よりも、絵画をはじめとした美術品を大事にして中心に設計されている。
夕時になって閉館時間が近くなると彼女はすっと立ち上がって、それでもしばらく絵を見詰めてから青年を振り返る。言葉が少ない彼女はそれだけの仕草しかしない。彼女が立ち上がって振り返ると青年は腰を上げて彼女の隣に並ぶ。
まだ昼間の熱気が冷めない外に出ると、熱風に吹かれてきっとこの気候を直に感じていたならむせてしまうのだろうなと青年は考える。隣の彼女は表情一つ変えないで、普段は下ろしている長い黒髪が風にたなびいてしまうのだけ気にしている。きっと、慣れないのだろう。
「今飾ってある絵さあ……お嬢に似てる」
ふと青年は美術館から出ていく歩を進めながらそんなことを言った。
「そうなの?」
「んー……まあ、美人画に似てるって言われても嬉しくないのわかるけどさあ。なんつーの。雰囲気かな。しっとりしてそうで周りの空気が綺麗そうだなって思って見てた」
興味なさそうな彼女の返事に慣れた青年は一方的に言いたいことを言う。
「周りの空気?」
彼女が青年を見て首を傾げると、彼はふと笑った。青年の言葉に少しでも彼女が反応を示すと嬉しいのだ。
「お嬢はさ、人間とはもちろん違うけどお嬢の周りだけいつも空気が綺麗でしっとりしてて気持ちよさそうなんだよ。でさ、膜が張ってるみたいに俺がこんだけ近くにいてもその綺麗な空気には触れらんないの」
つらつらと青年が彼女の隣を歩きながら喋っていると、言葉が終わったタイミングで不意に彼女側の手を掴まれて驚いた。頭一つ分背の低い彼女を青年が見下ろすと、前髪の下に珍しく憮然とした黒い瞳が見えて、怒っているらしいと気付く。
「えっと……お嬢、なに怒ってんの? んで、なんで俺、手え掴まれてるの?」
「私はそんな綺麗なものじゃない」
「え? お嬢は綺麗だよ? 人間に姿を隠してるから気付かれないだけで、姿見せてる時はみんな振り返ってるよ。お嬢が綺麗だからじゃん」
「そんなのどうでもいい。そうじゃなくて、雨が私を遠くに置いた」
「え? あー……そうなるの? それでお嬢、怒ってるの?」
彼女に片手を掴まれたまま、青年は開いている手で頭をがしがしと掻く。青年が口にした言葉に嘘はないのだが、彼女にはそれが〝綺麗の印象〟として伝わっていない。物理的に青年が彼女を高いところに飾ってしまったことになっている。
何十年、何百年と隣にいてもいまだに言葉は真っ直ぐに伝わらない。
「あの絵だって、そんな風に描かれているの? そのままを切り取って残したいと思ったんじゃないの。雨は、私のそのままを見ないの?」
彼女が青年を呼び名で呼ぶことは多くない。この短時間で複数回その呼び方をするという事はかなり機嫌を損ねている。青年は頭を抱えてしまいたくなった。彼女の方が長く存在しているというのに、時々、見たままの少女のような拗ね方をする。そういう時、青年は決まって手を焼くのだ。
「お嬢、ごめんって。そんなつもりなかったんだよ。機嫌直してよ。あー……こないだ、公園出たとこにあった喫茶店さ、ラムネ出してた。行こうよ」
「行かない。物で釣らないで」
「じゃあさ、どうしたら機嫌直してくれんの。お嬢、頑固だからさあ、俺困っちゃうんだよね」
早々に青年は白旗を揚げる。ここはあの手この手で機嫌を直そうとしても無駄なことを既に知っている。彼女は不機嫌なまま青年の手を離さない。だから、彼女が青年を捨てることはないことだけはわかっている。
とは言え、そのままでいるのは青年の方が嫌だ。彼女には笑って欲しいと願っているのだから。
「お嬢? ねえ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「どうしたら機嫌直してくれる?」
「このままでいて」
ゆっくりとねぐらにしている古いビルへと歩きながら、彼女はぽつりぽつりと青年に返事をした。
「このままって?」
「雨が、近くても触れないって言った」
「うわー……根に持ってる」
彼女の言葉に青年は肩を落として、一方的に掴まれた手を繋ぎ直した。
「ごめんって。でもさ、俺、お嬢が綺麗なことは撤回する気ないからね」
青年が気を取り直して、そこは譲らないと言い張る。彼女はなにも返事をしなかった。
ただ、手を繋いだまま公園の美術館から古いビルの廃墟の一室に並んで歩いて帰った。街中の雑踏で青年と少女が手を繋いで歩いている姿は、人間の目に触れたならそれこそ現実離れした絵画のようにも見えただろう。
#ノート小説部3日執筆 でノート小説を書くにあたっての相談や質問ができる「Misskey.ioノート小説部」のDiscordサーバーも以下のリンクにご用意してあります。作品の批評や雑談のできるテキストチャットや、お題を自薦いただける会議部屋などもございます。わたくし小林素顔がサーバー管理者なのでお聞きになりたいことがございましたらお気軽にご参加くださいね!
https://discord.com/invite/ReZJvrqG92 [参照]
#ノート小説部3日執筆 第15回のお題は「絵画」に決まりました! 今回は7月14日(日)の24時間の間での公開を目標としましょう。作品はノートの3000文字に収まるように、ハッシュタグの#ノート小説部3日執筆 のタグを忘れずに! [参照]
大遅刻申し訳ありません!【#ノート小説部3日執筆 】※動物の死、遭難、水難描写あり『わたしのシリウス』
お前の瞳に、星が映っていた。
濃紺の空いっぱいに、冴え冴えとした光が輝いている。ひとりと一匹で白い息を吐きながら見上げるそれは、死の恐怖をつかの間忘れさせるほどに美しかった。
「きれいだね」
お前のほうを向いて、わたしはお前の瞳に星を見た。夜空にひときわ輝くその星は、きっとあの一等星に違いない。だから、わたしはお前を名付けた。シリウスと。
***
それは9歳の春休みのこと。母方の田舎に遊びに行ったわたしは祖母と一緒に山菜採りに出かけ、「こごみを見つける!」と張り切り――そしてはぐれた。
泣き、助けを呼びながら山をさまよい歩くのに疲れ、わたしは日没前に見晴らしのよい高台を見つけ、大きな岩を背に座り込んだ。体はどんどん冷えて、お腹もすいてくる。生まれてはじめて経験する本当の闇、鳥や獣がたてるさまざま音……。
――怖い。寒い。死んじゃうのかな……。
できるだけ暖をとろうと体育座りの姿勢を取り続け、どれぐらいたった頃だろうか。わたしはカサリカサリと落ち葉を踏んで近づく音を聞いた。おそるおそる見てみると、闇の中でも、まっすぐにわたしを見ていることがわかる、一対の目が光っていた。
恐怖で体が動かず、両腕で頭をかばうのがやっとのわたしにそれは近づき――キュウン、と鳴いてわたしの頬をひとなめした。
「犬……」
それがお前との出会いだった。腕の間にするりと入り込んだお前は、わたしに寄り添った。
「あっためてくれてるの」
わたしはお前をぎゅうっと抱いた。あのときのお前は獣臭く、毛はガサガサして、くっつくと肌がかゆくなった。それでも、そのぬくもりが、わたしの心身を温めてくれた。
お前の体温を感じながら空を見上げ――。わたしは、お前の瞳の中に星を見た。
***
わたしの遭難は、日が昇るとあっという間に解決した。大人たちの声が聞こえ、それに向かってお前が走り、吠えたてながら大人たちをわたしのもとへと導いたのだった。
「あの犬、誰も迎えにこなかったら、うちの子にしましょう」
「健康状態に問題なし!」と医師に太鼓判を押されたものの、大事をとって一泊入院をしている最中、母が言った。
「お迎え、来るよ。あんなにいい子だもん」
無邪気に言うわたしに、母は「もしもの話、ね」と言い添えた。
果たして、お前は「うちの子」になった。獣医の見立てでは、人馴れから見て、誰かに飼われていたことは間違えない、とのことだった。わたしに寄り添ってくれたお前を、捨てた誰かがいる。わたしは家に帰り、お前の首をぎゅうっと抱いた。
「ずっと一緒。絶対に離さないもん」
シャンプーを終えたお前から、わたしは生まれてはじめて「洗いたての犬のにおい」をかいだ。
そう。それからわたしは、たくさんの「犬とのはじめて」をお前を通して経験した。トイレの躾(“外”派ということで落ち着いた)、家具の噛み癖(ある程度はお前が聞き分け、ある程度はわたしたちがあきらめることになった)、雨風が強い日も繰り返す散歩。
わたしは夕暮れ時、お前と川沿いまで行くのが好きだった。春には桜が咲き、秋には落ち葉が舞い散る小さな土手。茶色い体毛を夕日に輝かせるお前が見据える先に、沈みゆく太陽がある。そして、わたしを見上げるのだ。その黒い瞳にわたしを映して。
穏やかだったお前が、時たまひどく吠えることがあった。「大丈夫だよ」。そう言いながらわたしが抱いても、お前は前足をじたじたと細かに踏み鳴らし、なかなか吠えやまなかった。やがて、わたしたち家族は気がついた。そういうときは必ず、テレビの中で、子どもが泣いている。
***
わたしが高校に上がるころ、お前は一気に老いた。毛には白いものがまじり、後ろ脚がきかなくなった。散歩の距離が短くなり、たまに夜鳴きをするようになった。
だから、あの日、わたしはうれしかったのだ。台風上陸を前に、風雨が強くなるばかりのあの夏の夕方、お前が散歩に出たがったことが、長く歩きたがったことが。いつにない熱心さで、お前はあの土手へと向かった。お前が自分の足でそこまで歩くのは、最後になるかもしれない――。そう思ったわたしは、散歩に付き合った。
土手まで来ると、お前は耳をピクリと動かし、長らく聞かなかった太い声で吠えた。そして、駆けた。老身のお前のいったいどこにそんな力があったのだろう、という強さで。
「シリウス!」
わたしは転び、雨に濡れた手からリードが離れ……必死に追ったわたしが見たのは、濁流が今にも溢れそうな河川敷で、何かをくわえているお前の姿だった。
お前が襟首をくわえ、引っ張り上げようとしているのは、3、4歳の子どもだった。土手の向こうでは風雨の音にまぎれて気づかなかったけれど、「助けて」と泣き声をあげている。
加勢しようと走るわたしの目の前で、お前は子どもを岸にあげると――濁流へと足をすべらせた。それでもお前は、折れた垂れさがり、濁流のただなかに揺れる桜の枝に噛みつき、なんとか耐えた。
わたしはお前から目を離さないようにしながら、子どもに「大丈夫?」と声をかけ、安全な土手の上へと引っ張り上げる。子どもが激しく泣いていることにほっとしながら、通報しなければ、と思って、気がつく。携帯電話を家に置いてきてしまっている。
わたしはシリウスのもとへと駆け戻る。桜の枝は、今にも折れそうになっている。
「シリウス、シリウス」
手を伸ばしても、とても届かない。風雨が顔にたたきつける。お前はわたしを見た。いつもの黒い目で、わたしをまっすぐに。
間違っている。今も昔も、わかっていた。間違っている。それでも、わたしはレインコートと長靴を脱ぎすて、子どもに「来ちゃダメ! お家に帰って」と叫び、濁流に飛び込んだ。泥の味、腹や腕、脚、全身を何かが打つ。それでもお前をかろうじて腕に抱いた。鼻と口から容赦なく入るものすごい味の水、苦しい、腕にお前の茶色い体があるがかろうじて見えて……。
***
「君、君……!」
風雨と違うものが、顔を叩いている。口からゴボっと水が出て、わたしはせき込んだ。オレンジ色の制服に、ヘルメット姿の若い男性が、目の前にいる。
「シ……い、犬は」
わたしは跳ね起きようとして、全身の痛みにその場に倒れ込み、そして見た。オレンジの制服の向こうに、小さな、わたしが今まで見たどんな姿よりも小さなその姿があった。わたしはそこまで這っていき――。もう何も映さない目を、閉じてやった。
***
「キュウン」
目の前では、耳が垂れた子犬が黒く大きな瞳で、わたしを不思議そうに見上げている。山で保護された野犬が産んだ子なのだという。
あの日のわたしは、間違えた。何もかもを。なぜあの日、散歩に出てしまったのか。なぜリードを放したのか。なぜ命を捨てるつもりで飛び込んだのか。
もう決して間違うまいと誓いながら、あれからたくさんの犬たちと暮らした。年齢的に、この子が最後になるだろう。
わたしは目の前の子犬の目を見つめる。わたしはお前に名前を与え、それを何度で呼ぼう。決して先に逝かないと誓おう。生涯を看取ると誓おう。だから最後まで、わたしをその瞳に映してくれないか。
#ノート小説部3日執筆 「電動犬はベルカの夢を見るか?」 お題:犬 ※例によって遅刻
今より遥か未来、人類は月と火星を新たな領地に加え、さらには土星──土星自体はガス惑星で居住の余地はないので厳密にはその衛星の方──にまで手を伸ばそうとしていた。
火星を出発した宇宙船コンフィ号に乗る宇宙飛行士たちに課せられたミッションは「衛星エンケラドゥス居住のための橋頭堡確保」。
エンケラドゥスの中でも居住しやすい地域を見定め、コンフィ号に満載した機材を使用して現地資源から必要な装置を創出し、可能な限り滞在を試みる。
そのために7人のクルーと1匹の犬型ロボットが選出されたのだった。
遥か昔は犬だけを宇宙船に乗せて、人間は地上から遠隔で観察するのがやっとだったことを思えば、いきなり人間を送り込めるようになったのは格段の進歩である。
「でもよ、俺たち人間は相変わらず生身で送られるってのに、犬は『動物愛護の観点から』ロボットで代替されるようになったってのはちょっと納得いかねえよな」
「スミーったら口を開くといっつもそれね、嫌なら志願しなきゃよかったのに」
「バッカお前、土星進出の第一先遣隊なんて栄誉をみすみす逃すなんつースペースマンの風上にもおけねえような真似できっかよ」
「はははマリー、こいつは今回の任務でやっと犬とバディが組めると思ってたから不貞腐れてるのさ」
コンフィ号の談話スペースで、船内任務を終えた宇宙飛行士たち──スミー、マリー、ケニーの三人──が他愛もない会話を繰り広げていた。
話題の中心は、今回同行することになったロボット犬である。
本来この任務には、生身の犬が同行するはずだった。
しかし宇宙開発初期のライカを始めとした多くの犬たちの悲惨な最期や、生きて帰ったとはいえ随分と非道な処置を受けたベルカたちのことを知っている動物愛護団体の猛抗議によってその計画は変更を余儀なくされ、犬型ローバーとでも言うべきロボット犬が代わりに同行することになったのだった。
「まぁそれは仕方ないわよ。私たちスペースマンは自らの意思で命がけの任務を受諾するけど、ワンちゃんたちはそういう意思表示ができないんだもの」
「これでも宇宙でのミッションはかなり安全になった方だっつーのにわからず屋どもめ」
マリーが宥めるも、スミーはまだ納得がいかない様子である。
「それだけ旧世代の飛行実験のインパクトが強いってことだよ。火星生まれ火星育ちのお前さんにはピンとこないかもしれんがね」
ケニーの指摘にスミーがチッとひとつ舌打ちする。
スミーも愛犬家の端くれとして、初めてロケット打ち上げの歴史を学んだ時には随分と心を痛めたものである。しかしその後の技術革新もしっかりと頭に叩き込んでいれば自分たち宇宙開発関係者が過去の悲劇の再来を防ぐべく奔走したいることはわかるはずなのに、とも思ってしまうのだった。
……尤も、スミーがピンチヒッターの採用に不服な理由はもうひとつあって、何ならそちらの方がこれからの長いミッションにおいては重要かもしれなかった。
「しかしよ、ロボットだから仕方ねえってのはわかるぜ? わかるけどよ。……もうちっと尻尾振るとか愛想のあるモーション組み込んでくれても良かったんじゃねえの?」
犬好きのスミーとしては、犬型のものに好意を示してもらえないというのはかなりモチベーションにかかわる事案だったのである。
そのセリフにマリーとケニーは顔を見合わせた。
探査用のロボットにまで犬らしさを求めるスミーの犬バカぶりにツッコミを入れるべきか、そして犬バカのくせにロボット犬に実は感情AIに近いものが搭載されていることに気づいていないことを指摘してやるべきか迷ったのである。
そして彼らは真実を詳らかにしないことを選んだ。何故ならそれを知ろうが知るまいが任務には影響ないからである。
「まぁ、『彼女』も最新鋭の技術で作られているから、スミーが『彼女』に真摯に接すればいつかはそういう行動を習得することがあるかもしれないね」
「そうよ、ちゃんと任務のコマンドは聞いてくれる良い子なんだし、まずは仲良くなさいな」
とはいえ一応ヒントを出してあげるあたり、このふたりはなかなか優しい方であった。
──と、ここで彼らのチームの就寝時刻を告げるベルが鳴る。
「さぁ、もう寝る時間だわ。おやすみスミー、夢の中ではせめてワンちゃんと仲良く遊べるよう祈っているわ」
彼らは互いに就寝の挨拶をして各自のベッドコンテナに向かう。
スミーとロボット犬が心を通わせ、良きバディとなるのは彼らの旅路の先、惑星エンケラドゥスに着いてからかなり後のことであった。
おわり
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