#ノート小説部3日執筆 贋作師の一念/お題「どんぐり」
なんだいお客さん?
大の大人がどんぐり集めてなにしてるかって?
なにって、器作りに使うんですよ。
あっしは器屋ですからね。
おや?
器作りにどんぐりの煮汁が用いられることがあることをご存知でない?
いえ、使うんですよこれが。
茶器なんてものは使い込むと茶しぶなんかで、色がくすんで渋みのある風体になっていくわけですが、そこまで使い込むにはそれなりに時間がかかるわけよ。
そこで新品の茶碗をどんぐりの煮汁に浸す。すると、あっという間に色がくすんで年代物の茶碗ができあがるって寸法さ。
ぶっちゃっけ、贋作屋のワザですわ。
新品の器を年代物に見せかけるのが狙いってわけ。
ああ、そんな目で見ないでくだせい。
贋作って悪者扱いされてますが、贋作自体は悪いもんじゃありません。
贋作詐欺は悪でしょう。
アイドルのブロマイドや家族の写真を財布に忍ばせるのが悪でしょうか?
いわゆる「本物」ってやつは誰にでも買えるもんじゃありません。
とくにこの界隈における「本物」は金があっても金があるだけじゃ買えないときた。
そこで贋作の出番ってわけ。
ん?
あまり似てるように見えないって?
そこはあっしのこだわりでさぁ。
寸分違わぬ贋作では意味がないんで、八割の贋作を目指してるんでさぁ。
どこぞのご仁が「寸分違わぬ贋作と本物なら、本物になろうという意思が込められてる分、贋作のほうが優れている」なんて言ったらしいですが、あっしに言わせりゃわかってない。
さっき言ったでしょう?
贋作には贋作の出番がある。
寸分違わぬではそいつが果たせない。
そもそも、いわゆる「本物」ってやつも何者でもなかった誰かが本物になろうとした結果の存在でしょう。
本物にも本物になろうとする意思はあるんですわ。
つまり寸分違わぬ贋作は本物に勝るところがない。
なに?
それを言ったのは怪異業界の人?
ああ、なるほど。
霊だの超能力者だの世界なら本物は生まれたときから本物でしょうな。
ええと、なんの話でしたっけ?
そうそう。
本物過ぎると偽物としての役目を果たせないってやつ。
わかりやすところで行くと格闘技なんかでしょうか。
プロレスに限った話じゃありません。
ボクシングなんかもグローブの規格やルールを調整して、台本がなくても見世物として成立しやすくなる環境を作ってるんですわ。
つまり狭い意味において本物の戦いではないんでさぁ。
でも、熱くなるでしょう?
町中の喧嘩はヒクでしょう?
ルールを本物の戦いに近づけた格闘団体なんかもありますが、総じて興行的にうまくいってない。
贋作の役割を放棄した贋作に用はないってことさ。
八割の贋作にこそ本物を超える可能性があるってことさ。
さてと、こんなものでいいでしょう。
ーーー
語り終えると店主は茶碗を一つカウンターの上においた。
黄瀬戸の茶碗。
貫入からどんぐりの煮汁がしみこんで黄というにはくすんだ地肌をしている。
確かにこれなら安土のものと言われても信じてしまいそうになる。
しかし、と思いながらカウンターの奥を見る。
ショーケースのなかも黄瀬戸の茶碗がある。
あれが「本物」らしい。
値札らしきものが添えてある。
数字は・・・思っていたほど高くない。
安くはないがボーナス払いとかならいけてしまうな。
比べてみると贋作のほうは色の付き方がわざとらしい気がする。
なるほど。
八割の贋作である。
「さて、お客さん。あんたならこの器、いくらの値をつけます?」
どうも店主は値札の方もどんぐりの煮汁につけてたらしい。
#ノート小説部3日執筆 「鷲よ、自由に空を」 お題:ハロウィン ※いつものことながら大遅刻申し訳ありません
どこの国の人々も、霊は生者のバカ騒ぎを嫌うものだと察しているものらしい。
いや、昨今本邦でも流行り始めた元を辿ればケルトの祝祭であったイベントとて、元来は霊を不要に刺激しまいとした粛々としたものであったに違いないのだが、いつしかいい歳した大人までもが適当な仮装をしてバカ騒ぎするイベントに変質してしまった。
おかげでイベント当日の繁華街は百鬼夜行のごとしである。
ただでさえ活力にあふれる生者にこのような振る舞いをされたら、幽けき霊どもにはたまったものではないだろう。
故に霊どもはひっそりと彷徨う。喧騒を避け、静寂を求めて。あわよくば己の存在に反応してくれる人を求めて。
そんなわけで今日みたいな日は、俺の事務所は一銭にもならない来訪者で賑わいがちなのである。
「ねぇ玲ちゃん、聞いてよぉ。さっきいつものところに立ってたらさぁ、血まみれのナースさんが元気に歩いてたのよぉ! まるで歩く医療過誤! 私もうおっかなくってぇ」
腕に赤いトリアージタグを巻いた血まみれの女がソファのあたりにふわふわ浮きながら嘆く。大規模事故に巻き込まれて緊急搬送されたが不幸にも治療の甲斐なく命を落とし、その無念で地縛霊と化したここいらの常連霊である。
「血まみれならアンタの同類みたいなもんでしょ」
「事故の被害者の私が血まみれなのはしょうがないけど、ナースさんが血まみれなのはちょっと……ねぇ?」
一応適当にあしらいながら宥めてはみるが、こっちの話に応じて納得してくれるような手合いならとっくに成仏しているので、俺のやっていることは言ってしまえばただの徒労である。
尤もこの女はまだ会話が成立するだけマシだ。
部屋の片隅では、煤けた日本兵の出で立ちをした男が「自分たちが負けたから日本は魑魅魍魎だらけの国になってしまった、自分たちが負けたから……」と延々呟き続けて取り付く島もない。
魑魅魍魎(のコスプレ)だらけになるのはこの特定の期間だけだというのをそもそも理解できていないのだ。
他にも「オバケいっぱいでお外怖いぃぃ!」と泣きわめく子供の霊、その子を抱きしめて「大丈夫よ、今度こそママが守ってあげるからね」と繰り返す、その子とは何ら関係のない他人の母親の霊、首に巻き付いた縄を延々掻きむしり続けて「地獄だ……生きるのも苦しいのに死ぬのも苦しい……地獄しかない……」と唸る草臥れたサラリーマンの霊、とまぁとにかく近隣住民の相談を受けて一度は対話したことがある霊たちがこぞって俺の事務所に押しかけてきていて、こいつらが全員生者で金さえ持っていたなら千客万来とばかりに諸手を挙げて歓迎したところだが、残念なことに皆一文無し(六文銭の絵を印刷した紙くらいは持っているかもしれないが)の死者である。
つまりどれだけ相手したところで無駄、何ならこれから生きている相談者を迎える予定がある俺にとっては正直なところ商売の邪魔でしかない。
それでもすぐには追い払わずしばらく逗留させてやっただけ温情があると思ってほしい。
俺だって街中の喧しい魑魅魍魎ごっこには辟易しているのだ。居場所を一時的にとはいえ奪われたこいつらの気持ちはわからないでもない。
とはいえそろそろ時間的には潮時である。
これ以上こいつらをここに居させておくと事務所にケが溜まって、霊障に悩む相談者に悪影響を及ぼしてしまう。
だから俺はオーディオをオンにして、爆音で景気よく音楽を流してこいつらを追い払うことにした。話してどうにかなるわけでもない相手には実力行使あるのみである。
爆速にして重厚なツーバス、バンシーもかくやという叫びを上げるエレキギター、ドラムと競い合うようにビートを刻むベース、そしてメタル特有の全てを切り裂くようなハイトーンシャウト。そこにシンフォニックなコーラスも重なってどこか神々しくすらある。
今日という日に掛けるにはこれほどなく相応しい彼らのバンド名は「Helloween」といった。
その中でも特にお気に入りの一曲を大音量でかけると、事務所にたむろしていた霊たちは蜘蛛の子を散らすようにどこかへ行ってしまった。この曲の良さがわからないとは残念な連中である……というのは半分本気、半分冗談で、彼らはこういう生の騒々しさを苦手とする存在なのだから致し方ないことだ。まぁこちらはその性質を逆手に取って敢えてやっているのだから、むしろ気に入って居着かれる方が困る。
……さて、これで事務所の気も俺の気も晴れた。あとはこれから来る相談者が金になる案件を持ち込んでくれることを祈るばかりである。
「ようこそ、御神楽心霊探偵事務所へ。どのようなことでお困りでしょうか?」
おわり
#ノート小説部3日執筆 『$[ruby アマい奴ら Treat]に$[ruby 報復 Trick]を。』
「……ハロウィンってもしかして、言うほど楽しくない感じ?」
「そりゃあお前、警備の仕事なんて、9割退屈なんだから仕方ないだろ」
イベント会場の端っこで、警備員が二人、愚痴をこぼしていた。イベントの雰囲気を損なわないためだろう。二人とも、鎖付きの首輪をつけている。
今日は街を挙げてのハロウィンイベントの日。浮かれた世間がオレンジと黒っぽく染まる、そんな一大フェス。
だがあくまでも、それは一般的なニンゲンだけである。
「仮装なんてしなくても、この辺は怪物がゴロゴロいるからね」
「そうよな。妖怪・怪異(フォークロア)に、半妖人、合成半獣(アノマニマルズ)だっているんだから。いまさらニンゲンがコスプレなんて、必要ないんだよな」
ふと見回せば、別に仮装をしているわけでもない怪物たちが、仮装した人間に紛れて歩いている。ここはそういう街だ。
こういったイベントの警備は、主に人の動きの中から不審なものを検知するのが仕事だ。それが人間かどうかはさておき、検知したなら報告しつつ取り押さえ、できるだけ被害を少なくするのだ。
こういった祭りの雰囲気にまぎれて、良からぬ事を働く奴は一定数いるので仕方ない。
「……ボクたちで勝手に止めて大丈夫なの?」
「いいんじゃね?お駄賃出るし」
片方がヘラヘラと笑う。
決まった場所を決まった時間監視すればいいので、割と退屈らしい。
片方はぷやぷやとあくびをしながら、もう片方は本職の道具であるポラロイドカメラをいじりながら、定点監視を続けている。
そんな暇を、小さな事件が潰していく。
目の前の大通りで、ほんの僅かだが不審な動きをする奴がいた。すれ違った人のカバンから、手を抜き出すモーションが見えたのだ。手には財布らしきものが握られていた。
「――今の、写真撮った」
「仕留めるぞ。打電は済んでる」
そう口にした直後には、既に二人の姿は無かった。
人通りが多いにも関わらず、二人はほぼ直線距離でスルスルと標的に迫っていく。静かな、ほぼ物理を逸脱した動き方で、あっという間に追いついた。
「お兄さん。ちょっといい?」
片方が声を掛けたが、無視されている。声が小さかったのかもしれない、ともう一度呼びかけるが、やはり反応がない。
「くっそ、聴こえてるクセに」
片方が追跡している間、もう片方は打電を受けた職員に状況を説明していた。
「スリが発生しました。ここに証拠の写真があります」
自分で撮った写真を見せながら、ある程度簡潔に情報を伝える。
「うん、分かった。追跡に合流してあげて。被害者さんはこっちで探すよ」
「お願いします」
やってきた職員に引き継いで、もう一方の方へと駆け出した。
「……あの子誰っすか?」
「ん、地獄の働き者二人組だよ」
「……死人ってコトすか?」
「そりゃまあ、ハロウィンだし」
――
「もしもーし、お兄さーん、聞いてるー?」
声掛けも虚しく、至近距離の追走劇は続いている。
「せっかくだし、やるか、アレ」
警備の彼は突然何かを思い付いたらしく、少しだけ追跡の足を遅めた。
突然追跡と声掛けが途絶えたので、スリ犯は安堵の顔になった。聴こえないフリをするのも楽ではない。
そのままズラかろうと、スリ犯は路地に入った。
はずだった。
見渡すかぎりの赤黒い炎。カンカンに焼けた鉄が大きくそびえ立ち、間に黒い鎖のようなものが張り巡らされている。
まず、間違いなくその辺の路地裏ではない。
「やっほー!お兄さん」
声の主は、スリ犯の背中にぴったりと張り付くように立っている。
「ようこそ地獄へ!これからアンタが行き着く先だよ」
あえて元気な、あからさまなクソガキの声だ。
明らかに身長が足りないにも関わらず、スリ犯の顔の横に、顔を近付ける。
「ガキのイタズラ(Trick)と同格だと思うなよ。アンタの為したコトはそのくらいのモンだよ」
先程と違う低めの、それでもちびっ子の声だが、ねっとり語りかける。
「一歩行けば落ちちゃうぜ、大人しく――」
「そーこーまーでー!!」
けたたましい声が路地裏に響く。
追いついた片割れが、何人かの職員を引き連れてやってきた。
相方に駆け寄り、思い切りビンタをかましてから会話が始まる。
「まーこーとー!『現世で地獄の釜出すな』ってあれだけ言われてるだろ!お前始末書何枚書いたんだよぉ!」
「今回ので200枚目じゃねぇか?」
「おとぼけーっ!!」
トンだ問題児たちを横に、縮こまったスリ犯は粛々と連行されていった。
――
“ハロウィン”というデカい里帰りイベントも終わり、地獄はそろそろ釜の蓋を閉める時間。11月からまた忙しくなる。
子供たちは、仕事が終わった後すぐに地獄へ強制送還された。
問題の方はみっちり説教と折檻を受け、始末書を宿題とすることになった。当然の報いだ。
もう一方は、できる限り問題児に近付くなと注意を受けた。どうせあちらから近付いてくるので、意味はない。
「おかえり。また地上で派手にやったらしいね」
「うん」
保護者からの迎えの言葉に軽く会釈をするなり、問題児の方は畳に突っ伏し、すよすよ寝息を立てた。
やれやれと笑いながら、保護者は戸棚から小さなケーキを取り出した。オレンジ色をベースに、チョコでジャックオランタンの顔が描かれたものだ。
「せっかく作ったんだけどねぇ、地獄だとかぼちゃお菓子は不評みたいだ。試作のやつだから、好きなだけ食べていいよ」
子供は少し顔色を明るくした。
「それで、どうだった?そんなに悪いやつだったのかい?」
「とんだ大捕物でしたよ。ただのスリ相手にあそこまでする必要はないのに」
そうして、今回の大騒動を語り出した。今回は彼にとって、だいぶ強いとばっちりだ。個人的な怨嗟も、語りに混じっている。
「おや、思った以上に非道いねぇ。しかも今回は黒縄まで行ったのか」
保護者は困り笑った。慣れと諦観からきている。
悪い事をした者相手に、文字通りに地獄を見せる。その結果、自分の罰が増えようと構わない。この悪童はいつもこうだ。
「普段からあれだけお菓子をあげているのに、一向に横暴が減らない。困った子だ」
保護者は、猫のように丸まった悪童に毛布を掛けてやると、ケーキを食べ終わった子供に向き直った。
「キミも気をつけるんだよ。彼のように“報復”に身をやつすと、ロクなことにならない」
「……もう遅いですよ。ボクも彼と変わりませんから」
子供はカメラのケースを開いた。昼間のスリの証拠と、捕獲時の怯えきったスリ犯の写真が落ちる。それ以外にも、さまざまな事件の、そしてその犯人の写真が入っていた。
「証拠はいくらでもあります。ボクも、追い詰めるべき相手がいますから」
本来、あまりに享年若い子供は地獄には向かわない。彼ら二人がここにいるのは、相当の理由がある。
いずれ堕ちてくる復讐相手のために、わざと悪事を働いて刑期を延ばし続ける悪童二人には、相応の覚悟がある。
現世で甘い汁(Treat)を吸い続ける奴らに、相応の報い(Trick)を与えねば、彼らは止まれない。 [参照]
【#ノート小説部3日執筆 】※人の死、不慮の事故についての話あり『さよならも言えずに、僕たちは』(お題:ハロウィン)
***
あの雑踏の中で、どうしてその人がわかったのだろう。
「メケ丸さん、メケ丸さんですよね!?」
僕はその日、月イチで開かれるミーティングのために、渋谷の本社に出社していた。なぜ、ハロウィン当日に。一日ぐらいずらしてくれればいいのに。そんな不満も、懐かしい姿を見たとたんに、ぱっと晴れた。
相手は一瞬、驚いた顔をした。黒い布を頭からかぶったような形状の衣装からのぞくのは、灰色がかったドーランを塗りたくった顔。黒い唇の端には、塗いつけられたようなメイクが施されている。それでも意外に表情がわかるものなんだな、と僕は変なところで冷静になる。
「ああ、笹さんか」
「そうです! 笹です! 笹!」
僕はこれ以上ないぐらいに力強く、首を縦に振る。
「覚えてくれてたんですか?」
「忘れるはずないよ」
縫われた口元が、にいっと上がる。
「あのキョンシー5人越え!」
「メケ丸さん……!」
思わずうっすらと涙ぐんでしまう。序盤のミスを挽回するため、苦し紛れにひねり出したあのプレイを、覚えてくれているなんて……。
僕らが出会ったのは、8bitのアクションゲーム「霊幻封印闘士」、通称「レイトー」のファンコミュニティだった。人になんと言われようと子ども時代からプレイし続けたそのゲームにおいて、いかにクリア最短記録を叩き出せるか――。当時の僕らは、mixiで知り合った者同士、細々と情報交換をし合っていて、メケ丸さんはいつもその中心にいた。僕らはmixiのほかにもYahoo!チャットを使って、いろいろなことを話した。子どものころどうやって親の目を盗んでゲームをしたか、好きだった駄菓子の話、ときには政治の話まで。
「しばらく歩いて話そうや」
「はい!」
心が躍る。そういえば、メケ丸さんと僕は、いつから会っていなかったんだっけ。とりあえず、僕らの共通の話題といえば……。
「いま、『『レイトー』、めっちゃ盛り上がってるんですよ! 海外にもプレイヤーがいて、世界最短記録は15分なんです。中ボスの、カンフーマスターのところも、今では……」
スクランブル交差点を渡り、仮装した人たちで溢れたセンター街を歩く。僕が夢中になって話し、メケ丸さんは、それをただ静かに聞いている。まるで昔のままだった。「レイトー」について語りながらも、僕の胸には何かが引っかかる。メケ丸さんに会ったら、話したいことがたくさんあった。でも、なんだっけ。妙に焦って、僕は話題を変えた。
「そういえば、メケ丸さん、コロナのとき、どうでした? 僕、せっかくほぼリモートになったのに、月イチ出社がハロウィン当日とかぶっちゃって……」
「ああ~」
「それと、ご実家、北陸でしたよね。地震は……」
メケ丸さんは、口元を上げて、困ったような、諦めたような表情で僕を見つめた。
「ごめん、俺、もうそういうの、わかんないんだわ」
「それって、どういう……」
コスプレイメイクの下の表情を読もうとメケ丸さんに向き合ったとき、僕はぴちゃん、という音を聞いた。それは足元から聞こえていて……。そこには、血がしたたっていた。出所を知ろうと視線をあげ、そのときはじめて、黒い衣装の真ん中が裂けていることに気がついた。その奥が、てらりと不吉に光る。
「ああ、これ……仮装のひとつってことで」
僕の視線に気がつくと、メケ丸さんはため息まじりにそう言って、衣装をつまんで裂けたところを結び合わせた。
「悪ぃけど、時間、ないみたいでさ」
メケ丸さんがそう言ったとたん、本格的な仮装をした人たちがどっと押し寄せ、ふたりを隔てた。染みだらけの包帯を巻いたミイラ、どう見ても「そのまま」の骸骨、白装束の日本スタイルの幽霊。どういうことだろう。警察は、今日は何をやっているのか……。
そのうえ、クラクションを鳴らして、車がつっこんできた。僕は勢い、尻もちをつく。車は僕のつま先をかすめてすごい速さで走り去っていった。生命の危機に心臓がドッドッと早鐘を打つ。命――。車。傷。ハロウィン。メケ丸さん。すべてがつながり、僕は無理矢理体を跳ね起こした。いつの間にか亡者たちはさらに膨れ上がり、メケ丸さんは遠く、小さく見える。
「メケ丸さん、なんで、なんで死んじゃったんですか」
違う。こんなことを言うべきじゃない。
僕らは、コミュニティに集っていた僕たちは、みんなメケ丸さんのことが大好きだった。だから、最初は嘘だと思った。
「これ、メケ丸さんが行くって言ってたイベントじゃね?」
ある年のハロウィンに行われた、大規模コスプレイベント。メケ丸さんは、初恋だったというゲームヒロインのコスプレをする子がいるとかで、珍しく興味を持っていた。メンバーのひとりがチャットで送ってきた記事は、そのイベント会場で、ひどい事故が起きたと伝えていた。会場のすぐそばを走る国道で事故を起こしたトラックと乗用車数台がフェンスを破り、撮影中の輪に突っ込んだのだ。
「まさかあ」
メンバー各人が、心のザワつきをごまかしながら雑談に興じた、次の日――。
「被害者に●●●●●さんっていてさ。俺、メケ丸さんから古いジョイボール譲ってもらったことあったじゃん。そのときの送り状の名前と、同じ」
「そこの住所に行って確かめれば」
「メケ丸さん、転勤で何回か引っ越してるじゃん」
「実家は?」
「さあ。北陸とか……?」
そのときの僕らは知らなかった。ネットの知り合いの生死を知る難しさを。たとえ急逝しても、親族がネット上の痕跡を発見しない限りは、何も知ることができない、ということを。どんなに親しくしていても、さよならさえ言えないということを。
今だったら、もっと他にやりようがあるかもしれない。しかし、当時はTwitterもまだなく、僕らは若いというより幼かった。何もわからないまま、メケ丸さんがオンラインにならない日だけが過ぎ、いつしかYahoo!チャットはサービスを終了した。
メケ丸さん。TwitterってSNSで、いっぱい同じ趣味の人が見つかりましたよ。
メケ丸さん。RTA in Japanってイベントが始まりましたよ。
新しいことがあるたびに、僕は心の中で、メケ丸さんに語りかけた。でも、ほんとうに言いたかったことは。僕は思い切り息を吸い込み、ありったけの声を出す。
「メケ丸さん! ありがとう! ありがとう、ございました」
僕はブンブンと手を振り、口元だけで「ざ、ざようなら」と鼻をすすりながらつぶやいた。亡者たちの向こうで、メケ丸さんが手を振り返してくれたのが、わかった。
***
ファミコンのスイッチを入れると妙に哀愁漂うBGMが流れ、黒をバックに『霊幻封印闘士』の赤いロゴが浮かび上がる。
主人公の道士を操作して、お札を飛ばし、ステージを進む。ここで、メケ丸さんが褒めてくれたなあ。ここは、みんなで時間短縮の知恵を出し合ったっけ。
今まで、思い出すことを避けていたことが次々溢れて、視界がぼやける。そんな状態で初見殺しのこのゲームをプレイできるはずもなく、あっという間に道士は敵にやられてしまう。僕はティッシュを引き寄せて、盛大に鼻をかみ、そうして、画面に表示された「continue」を押した。
「悪ガキどものハロウィン」#ノート小説部3日執筆 お題:ハロウィン #僕らの壊せない三角 スピンオフSS #みすでざハロウィン2024
「……そんな浮かれることある?」
僕は朝から教室の惨状を見て溜息をついた。
十月三十一日、ハロウィン。朝から夢の国に行くんだろうなっていう仮装一家やら、絶対それ仕事に不要だろっていうデカい紙袋を持った社会人エンジョイ勢やらで、僕が毎朝通学に使っている電車はいつになく混んでいた。バイクで登校すりゃ良かったなぁと思うけれど、まだ寒い日用のジャンパーを買えていないままズルズルと来ているので仕方ない。とりあえずコレを乗り越えれば平穏は確保される。僕は足と腹に力を込めて踏ん張った。
ほらね、良かった学校はいつも通りだ、と自教室に辿り着くまでは思っていた。
「トリックオアトリート!!」
教室のドアを開けた途端、ばさり、と布のようなものを頭から被せられる。
「……問答無用じゃん」
トリック一択じゃん。
「おおー、ライノに掛けられた! やるじゃん松方マシン」
「よっしゃ、百八十超えに成功したなら多分全員いけるな」
「あっクリス待って! まだ取らないで、写真撮るから」
カシャ、と撮影音がする。僕は被せられた布を取り払い、犯人達の顔を見た。まあ見なくても声で分かる。三谷と、松方と、上條だ。頭上を見ると、滑車で動く原始的な装置が設営されていた。松方マシンということは奴がこれを作ったのだろう。学園祭で舞台装置に目覚めたのか、元々そっちの能力に長けていたのか、僕は知らないけれど。
「次の標的が来るでござるよ!」
「やば、ライノ早く退いて! シーツセットしなきゃ」
廊下を監視していた後藤が警告し、三谷が僕の手から白い布を取り上げた。慣れた手つきで入り口の上に渡したロープに引っ掛ける。
「全員にやってんの? これ」
「そうだよ、名付けて全員強制おばけコスマシン!」
松方がドヤ顔で答える。
「これでどんな奴も教室におばけコスで登場した浮かれ野郎に仕立て上げられるってワケ。上條は証拠写真担当」
「捏造じゃねえか!!」
よく見たら黒板は前も後ろも大きく芸術的に落書きされ、窓には……なんだあれ……血糊、じゃない、スライム? 絵の具か? とりあえず直視してはいけなさそうなものが貼り付き、床にはゴミ……じゃないんだろうけどクラッカーを使ったような紙吹雪が散らばり、朝から既にはしゃぎ切ったのか? という様相を呈していた。
で、僕の口から冒頭の言葉が漏れたのである。
「トリックオアトリート!」
次の犠牲者に上條が声を掛ける。突然のことにフリーズする相手を容赦なく撮影し、布を回収しにいった。
「……あ、おはよー、安原」
「……は?」
ターゲットとなった黒髪ウルフカットの男が、鬱陶しい前髪の隙間から目をギラつかせ、めちゃくちゃ不機嫌そうな声を上げた。
「ほら今日、ハロウィンだから!」
「てめぇらの頭は小学生かよ」
言うなり、安原は近くの机をガンと蹴って教室から出ていった。去り際、彼はちらりと僕の方を見た。
──雷野、お前もかよ。
そう彼の目は物語っていた。
「無差別ってのは良くなかったかなぁ……」
松方が肩を落とす。上條はその背中を軽く叩いた。
「謝んに行く?」
「どこ行ったか分かんないし、まあ授業始まったら帰ってくるっしょ〜」
対して三谷は暢気なもんだ。
「安原殿は吹奏楽部にござるゆえ、部室の可能性?」
「え? 部外者行きづらいやつじゃん、それ」
後藤の情報に上條は眉をひそめた。
「一年の大会が近いから、多分行ってないと思うよ〜?」
同じ吹奏楽部の平岡さんが教室の後方から声を上げて教えてくれる。
「先生にチクりに行くってキャラでもねえしなぁ。ま、待ってたら良いって〜」
三谷はそう言っていたけれど。
一時間目が始まっても、教室は片付けられなかったし、安原は帰ってこなかった。
「あれ? 安原来てなかったか?」
数学の小谷先生が首を傾げる。今朝、校門で迎える担当だったから、安原のことも覚えていたのだろう。
「……あー、朝からちょっと揉めて……」
上條が言いにくそうに打ち明ける。
「そうなのか。雷野、悪いが捜してきてくれないか」
「……はい」
なんで僕が、とは言わない。小谷先生には僕が授業受けなくても平気なのを把握されている上に、僕はこんなでも一応生徒会長だ。しかし、アテもなく捜してこい、だって? つまりサボって良いってことかな。
席を立つ時に、ゴメンね、と上條が小さく囁くのが聴こえた。
ハロウィン、ねぇ。日本での騒ぎを見る限り、楽しめる奴らと傍迷惑だなと思う奴らがどちらも出るイベントだと思う。無理にお互い巻き込まずに一日を過ごせたら良かったんだろうけど。
下駄箱を確認。一応校内にはいるようだ。じゃあ、一番サボりやすいのは保健室か図書室かな。近い順に保健室から行ってみるか。
「失礼します、2-Aの安原来てますか」
「ああ、気分悪いって寝てるよ」
ドンピシャだった、そんなすぐ見つかるとはね。僕は指差された寝台に近づきカーテンを開けた。
がばり、と白い布団が飛んでくる。
「……っはは」
僕が頭から布団を退けると、安原が口の端だけで笑っていた。
「……仕返し?」
「やってる側は面白いのかと思って」
「笑えた?」
「そのうち笑えんじゃねえかな」
お前、じゃあ今の笑い声は何だったんだよ。僕は手にした布団を広げて安原に覆い被さった。
「マジ、いい加減にしろよ……!」
安原が布団の下でバタバタと暴れる。
「やられたらやり返していいだろ」
「そっちが先だろうが!」
「僕に直接手ェ出したのは安原が先だ」
顔の形が出るくらいぴったりと薄い布団で抑えつける。安原はウモモと変な声を上げながらもがいて布団を引っぺがした。
「っだ、は、息……危ねえ……」
「……小学生はお互い様だな」
「あぁ? ……へっ、今更かよ。机蹴って授業サボってる時点で俺もガキだよ」
「ふーん? 分かってんじゃん」
「雷野は……もしかして、俺のこと捜してこいって言われたのか」
「ん? いや、サボりだよ。こんなに早く見つかるとこにいやがって」
「俺は別に、隠れんぼしてるつもりはねえからな」
安原が布団から出たそうに身じろぎしたので、僕は近くの椅子に座り直した。
「……朝からあんなこと急にされてムカついたし、許しはしてない。でもキレてお前にまで迷惑掛けたのは悪かった」
「だから僕もただのサボりだっつってんだろ。……あいつらも謝りたがってたよ」
「何してたの、アレ」
「全員強制おばけコスマシンだって」
「……くだらねー……」
安原が鼻を鳴らして顔を歪める。まあ、擁護の余地はない。
「確かにアレはやり過ぎだけど、他の連中もふざけ倒してる。ちゃんと見る暇なかっただろうけど大惨事だよ、教室。嫌なら片付けるように言っとこうか」
「……別にいい。ハロウィンが嫌いなわけじゃない。布団掛けたくなる気持ちもまあ理解できた。事前に分かってれば平気」
「……好きにしたらいいけど、無理はすんなよ」
「楽しめるなら楽しめた方が良い。それくらい俺も分かる。好きに無理するさ……」
その後教室に戻った安原が、休憩中のシーツ大喜利に遠目からニヤついているのを見て、そういう距離感も有りかと僕は気にしないことにした。
ハッピーハロウィンだ、悪ガキども。
#ノート小説部3日執筆 マカロニチーズが食べたいのじゃね/お題「ハロウィン」
「馬鹿馬鹿しい……」
電車の中で浮かれ気分の若者を見つめながら、私はスーツの襟を正す。
ハロウィン――とは何か。
ここ最近、話題になり始めてきたイベントである。
だが、本邦の例にそぐわず、こう言った催し物は何かと魔改造されがちな物である。
私が知るハロウィンとは、本来、小さな子供のための催しであったはずである――
北欧のケルト人は決して、墨西哥のような気風を持つわけではない。
つまりハロウィンは、死者の日でないのであるから、何かと騒ぎ立てるような気風は如何なものか――
どこか、世間から取り残されたような
電車を降りて、そろそろ白い息が毀れそうな肌寒い帰路に就く。
ただいま――と、声を扉を開く。
すると、深いチーズの香りが家中に漂っていた。
「お帰りなさい、今日はマカロニチーズですよ」
「マカロニチーズ?」
「ハロウィンですから……」
ハロウィン――そうか、家でも外でもハロウィンか。
どうやら、真の意味で世間から取り残されていたのは自分だけのようだ。
だが、妻が作ってくれた手作りのマカロニチーズ。
白い深皿に湯気を立てているそれに、私は心を奪われた。
妻にも料理にも罪はない。
着替えてダイニングに腰掛ける。
焼き立てのチーズの芳香は、地よい期待感を齎してくれていた。
「いただきます」
付け合わせのバゲットと共に、マカロニチーズを頂こう。
フォークで表面を突きたてて、一口分を持ちあげる。
すると、とろけた黄金色のチーズソースに絡まったマカロニが――こってりとした重たさと共に持ちあがり、粘性のある糸を引く。上から下へと、重力に逆らうように伸びていくチーズの様子に、思わず見入ってしまう。
おっと、いけない。
もう食べ物で遊んで楽しむような歳は随分と過ぎてしまった。
一口、口に入れた瞬間、豊かなチェダーチーズの香りが鼻腔をくすぐり、次に滑るようにクリーミーな舌触りが口内に広がる。
まず感じたのはチーズの塩味と甘み。
マカロニも程よい茹で加減であり――適度な歯応えを残しつつ、優しく曲がったその形が適度な粘り気を持ったクリーミーなソースをマカロニの表面にしっかりと絡みつけてくれる。
その上、刻んで混ぜ込まれたベーコンの旨味と肉味がチーズソースと合わさり、これがマカロニの小麦味と一体になることで、マカロニチーズは、そのシンプルさに相反して極めて美味な味わいに昇華されていた。
二口目。今度は少し大きめに。フォークですくい上げると、チーズの糸が宙を舞う。口に含んだ瞬間、温かいソースが口いっぱいに広がり、ベーコンの旨味がはじける。
これをガーリックバターを塗ってトーストしたバケットにとって、口に含んだ瞬間、チーズソース、ベーコン、マカロニがニンニクとトーストされたパンの風味と相乗し、引き立てられた塩味と共に、口の中で爆発した。
外のハロウィンの喧騒など、今は全く気にならなかった。
このマカロニチーズと向き合う時間は、確かに私にとっての幸福であった。
最後の一口。もはやマカロニは少なく、主にソースだけが残っている。それでも、最後の一滴まで味わい尽くしたい衝動に駆られ、殆ど残りのないバケットで根に理に皿を拭った一口を口に運ぶ。
思った以上にシンプルで、それでいて奥の深い味わいだ。
もう一皿は食べれてしまうだろうが、きっとこの一皿でとどめておくことが――寛容なのだと顧みることで満足した。
「ごちそうさまでした、美味しかったよ」
「ええ、良かったわ。あまり騒がしいのは得意ではないでしょうから」
妻の言葉に、首肯しつつロッキングチェアに腰掛ける。
すると――家の扉にノックする音と共に
「」
と――快活な声が響いてくる。
お菓子を用意した妻を横目に私は、想いの他、ハロウィンという行事に対する嫌悪感が消え失せていた。次に誰かが訪ねて来た時には、私が応対してもいいと思うほどには――
「ハロウィン」(彼方よりきたりて)#ノート小説部3日執筆
秋も深まり、冬の足音が聞こえ始める時。
「……あ、いたいた。シリウス様!」
放課後、のんびりと廊下を歩いていたシリウスは後ろからの呼びかけに足を止めて振り返り── 一瞬、その動きがピタっと止まった。
視線の先にはアリアとエルナトがいたのだが……いつもの制服ではなく。魔女に扮したアリアと猫耳をつけ肉球手袋にブーツを身に着けたエルナトが立っていた。……アリアはニコニコ笑顔で楽しそうだが、少し後ろに控えるエルナトは非常に渋い顔で目を逸らしている。
アリアは「うふふ」と小さく笑ってから右手をシリウスに向かって差し出した。
「シリウス様、トリックオアトリート! です!」
「え? ……あー……」
聞き覚えのある言葉にシリウスは逡巡して記憶を探る。……確か数日前、アリアがクラスメイトを中心に話していた催しの説明で今の言葉があった。
トリックオアトリート(お菓子かイタズラか)。
仮装をしている人からその言葉を言われた場合、お菓子を渡さなければイタズラされるというもので、元々はアリアがいた国でやっていた「ハロウィン」という催しらしい。日時までは詳しく聞いていなかったが、どうやら今日がその日のようだ。
「……お菓子渡さないとイタズラされる、でしたっけ」
「そうです!」
にっこり笑ってくるアリアに対し、シリウスは持っていた鞄の中からクッキーの入った小袋を取り出してそのまま差し出した。
「どうぞ、クッキーです」
「有り難うございます」
クッキーを受け取ったアリアはお礼を述べた後、くるっと振り返ってエルナトの方を向く。
「ほら、エルナトさんも!」
「……はぁ……」
アリアにぐいぐいと背中を押されながらシリウスの前にやってきたエルナトは視線を横にずらしたまま、仕方なくといった様相でため息をついて口を開いた。
「えーと……トリック、オア、トリート」
「はい。えっと……」
シリウスは先程と同じように鞄から小袋を取り出し、エルナトに差し出──……そうとしたが、何か思い当たったように手を止める。
「?」
動きを止めた青年を見てエルナトが首を傾げる一方、シリウスはおもむろに小袋の封を開けて。
「いただきます」
「はっ?」
小袋を逆さにして中に入っていたクッキーを掌に出し、そのまま自身の口へと放りこんだ。
「!?」
これにはエルナトはもちろん、エルナトの背中を押していたアリアもギョッとする。少女二人が唖然とした表情を浮かべる中、シリウスはクッキーを咀嚼してから飲み込み──……ふぅ、とひと息ついた後でエルナトに顔を向ける。
「えっと、お菓子ないんでイタズラで」
「はぁ!?」
さらりと発せられた言葉にエルナトが素っ頓狂な声を上げた。
「いやあっただろ。今。食べといて何言ってるんだお前」
顔を引き攣らせる相手に対し、シリウスは悪びれもせずにへらっと笑う。
「……や、こういう状況になったらエルナトさん、どんなイタズラするのかなってちょっと気になりまして……」
「ふざけんな! どうせまだ持ってるんだろ、出せ!」
シリウスがいつも鞄に何かしらお菓子を入れているのを知っているエルナトは声を上げて睨みつけたけれど、対面の相手は笑ったまま表情を変えない。
「いえ、持ってません」
「…………」
しれっと返された言葉にエルナトは顔を引きつらせ──……イタズラをお望みなら鞄の中身を全部ひっくり返してお菓子を奪ってやろうか、という考えが頭に浮かんだ時。
「何やってるんだお前ら」
不意に耳に入ってきた声の方へ顔を向ければ、不思議そうな表情でこちらを見ているリゲルとサルガスの姿があった。
二人は仮装しているアリアとエルナトを交互に見やり……それから納得したように「あぁ、前に言ってた催しか……」と声をもらす。一方、アリアが笑いながら経緯を簡単に説明して──それを聞いたリゲルは苦笑いを浮かべ、サルガスは呆れたようにシリウスを見た。
「お前は本当に好き放題だな」
「どんな反応するかなと思いまして……」
少し笑いながらサルガスにそう言葉を返し、シリウスは鞄を開けて小さな包みを取り出す。
「すみません、調子に乗りました。改めてお菓子どうぞ」
「…………」
エルナトは黙ったまま差し出されたお菓子を受け取ろうと手を伸ばしかけて──……今度は彼女が動きを止めて、その手を引っ込めた。
「?」
その様子にシリウスが首を傾げるのを見ながら、エルナトはフ、と小さく笑みを浮かべる。
「イタズラにするからそれはいらない。……お前今日はこの後、日付が変わるまでずっとこれ付けてろ」
エルナトはそう言いながら自身が付けていた猫耳を外し、やや乱暴にシリウスの頭へそれを押し付けるようにして付けさせた。
「絶対、外すなよ」
「……仕方ないですね、判りました」
シリウスが了承を口にすれば、エルナトは溜飲を下げたように少し表情をゆるめた。
「……今回はちょっとやり過ぎたな?」
「まぁ、はい。そうですね」
アリア達と別れた後、苦笑いを浮かべるリゲルに対し当たり障りのない返事をして。シリウスは猫耳を触りながら胸中で小さく息をつく。
(……そのままお菓子受け取られたらどうしようかと思ったけど、こっちの思惑通りに動いてくれて良かったな)
そんな事を考えながらシリウスはリゲルと共に寮に戻って──そして、律儀に日付が変わるまで猫耳をつけたまま過ごしたため、男子寮ではざわつきが起き。
翌日、それを聞いたエルナトは「本当に最後まで付けてたのか……」と何とも言えない表情を浮かべる事になったのだった。
#ノート小説部3日執筆 「琥珀色の記憶」 お題:コーヒー #モノクローム・アカシックレコード ※大遅刻申し訳ありません
<番外編:2>
南方原産の香琲なる豆は、炒って挽いたものを熱湯で抽出すれば眠気覚ましの妙薬になるとされている嗜好品である。
ダナスも研究に根を詰めていた頃は好んでこれを飲んでいたので香琲を淹れるための道具は一式持っているが、今はほどほどにリフレッシュ効果があってお手軽な香茶の方を好んでいた。
そういうわけで香琲用の器具は戸棚の奥にしまわれっぱなしになって久しかったのだが、最近になってこれを引っ張り出す者が現れた。
言うまでもない、ダナスが忘れたものをこれ見よがしに持ち出しては使うのが大好きなダナスの望まぬ同居人、ダナス・ノワである。
彼は今日も朝からミルでゴリゴリと豆を挽いて、部屋中に香琲の香りを撒き散らしていた。
そしてその音と匂いに叩き起こされるのがノワと生活を共にすることを余儀なくされてからのダナスの朝のお約束となっていたのであった。
(……今日は浅煎りか)
漂う香りからダナスは豆の焙煎具合を判断する。
最初は勝手に道具を使われることに文句を言っていたダナスも、最近は暖簾に腕押しだということを覚えたのでとやかく言うことはやめた。死蔵されていた道具も再び日の目を見ることができて喜んでいるだろうと思うことにしたのだ。
それに、この程度なら嫌がらせのうちにも入らないのでむしろ好きにやっててくれとすら思っている。
そんなことを考えながらダナスは自分用の香茶を淹れようとマグを出そうとして──それが戸棚にないことに気がついた。
ノワ用のマグは別途用意してやっているし、そちらも戸棚にはないから、ノワが勝手にダナスのマグを使ったとは考えづらいのだが……
怪訝に思いながら戸棚の前で立ち尽くしていると、背後から声をかけられた。
「ようお寝坊さん。たまには香琲でもどうだい?」
振り返ると、ノワがいつもの胡散臭い笑みで立っていた。自分と同じ顔なのにどうしてこんなに胡散臭く見えるんだろうとダナスとしては不思議で仕方ない。
その手には、琥珀色した液体が湛えられたダナスのマグが握られていた。
「……一応聞くが、変なものは入れてないよな?」
「無論だとも。お前は心配性だなぁ、何ならオレのと取り換えるかい? 飲みかけだけど」
「……いや、そこまで言うなら信じてやるさ」
そんなやりとりをして、ダナスは香琲の入ったマグを受け取る。
「ミルクと蜜は?」
「いらない」
「寝起きにブラックは胃に悪いって教わらなかったか?」
「……生憎誰かさんに過去の記憶を食われてるもんでね、そんなことは忘れたよ」
やや棘のある応酬をしつつテーブルにつくと、ダナスは籠から丸パンをひとつ取り出してかぶりつき、香琲でそれを流し込んだ。
爽やかでフルーティーな味わいは、香琲でありながらどこか香茶のようでもある。
先ほどノワは「寝起きにブラックは胃に悪い」と言ったが、これならそんなに負担になることはないだろうと思う。少なくともダナスがかつてよく淹れていた深煎りよりは。
辛うじて覚えているあの頃は、記憶の流出を防ぐ方法を見つけるべく、休む間も惜しいとばかりに濃く淹れた香琲をがぶ飲みしながら魔術書を読みふけっていた。
それが今やその記憶流出の元凶は自分から切り離され、自分の半身として在りながら自分の好みとは異なる香琲を目の前で楽しんでいるというのだから人生とは何があるかわからないものである。
まるで鏡写しのようなノワ。同じ顔、同じ体躯、瞳の色と肌の色だけが彼が単なる鏡写しの存在ではないことを示している。
いかにも人外らしい、漆黒の眼球に輝く紅い虹彩。闇から生まれ出た事を示すような琥珀色の肌。……もしかしてノワが香琲を好むのはその色のせいだろうか。
(オレに自分の存在を呑めって暗に示してるつもりか……?)
そう思うと、この琥珀色の液体をそのまま飲み干すことにダナスは急に抵抗を覚えた。
無言で卓上のミルクポットを取り、香琲に注ぎ入れる。浅煎りに入れるにしてはやや多い量を入れると、ダナスはカトラリーで乱暴にかき混ぜた。
そうしてノワの肌と同じ色だった液体がすっかり白茶けた色に変わったのを見て安堵すると、そのミルクだか香琲だかわからなくなってしまったものを悠然と口に運んだのだった。
その行為について、不思議とノワは口出ししてこなかった。
彼もまた香琲に軽くミルクを入れてカフェオレにしていたからというのもあるが、実は密かにミルクの白と混ざり合う琥珀色に羨望めいた感情を抱いていたのである。
(オレたちもあんな風にかき混ぜて混ざりあえたらいいのにね)
その想いがダナスに伝わることはない。
これからもノワは時々ダナスの分まで香琲を淹れるだろう。そしてダナスはそれにたっぷりミルクを注いで混ぜるのだろう。
ノワがそれに代償行為めいた想いを投影していることなど知らずに。
しかし少なくとも浅煎りの香琲とノワの存在はダナスの記憶の中でひとつに結び付けられた。結び付けられてしまった。
そのことにダナスが気づいて愕然とするのはもう少し後のことである。
おわり
#ノート小説部3日執筆 お題:コーヒー 「コーヒーの香りに誘われて」
カラン、カラン。
扉を開けると今時珍しいドアベルの涼やかな音が小さな店内に響く。
カウンター席5、4人掛けのテーブル席が3、2人掛けのテーブル席が同じく3ほどあるあまり広くない店内は昼時ということもあってかそこそこ込んでいた。
カウンター席の前にあるキッチンでコーヒーを淹れていたマスターがちらりと視線をこちらに寄越した後、目の前の空いている席を視線だけで指し示す。
相変わらず愛想のひとつもないその態度に苦笑をしつつも、サイフォンで淹れるコーヒーの香りに誘われていそいそとマスターの前のカウンター席へと座る。
「いつもの」
そう常連面をしていえば、くっとその唇が皮肉を込めて弧を描き、後ろを振り返るとそこで調理をしているマスターより幾分年下の男に「日替わり、いち」と伝えてまたコーヒーを淹れる作業に戻る。
……ちなみにランチのこの時間、メニューはこの『日替わり』だけだ。
だから「いつもの」なんて常連ぶった台詞を言ったとしてもあまり意味はないのだが、それでもマスターに顔は覚えられているのは分かる。
たまたま引っ越してきたアパートの近所にあった、この少しレトロなこの喫茶店から漂ってくるコーヒーの香りに惹かれて通い始めてから1年は経っていた。
昔から憧れていたコーヒーショップでの常連と、席について「いつもの」という注文の仕方を出来るようになって俺はなんとなくいっぱしの大人になった気持ちで高めのスツールに腰掛けて内心、ふふふ、と笑う。
ただ、目の前にいるマスターは俺の顔を覚えてくれてはいるっぽいが特に世間話をしたり、客とやり取りをするのは好まないらしく、更に踏み込んだ関係になる事は無かった。
……いや、まぁ、漫画とかアニメとかドラマじゃあるまいし、そんな客と店員がそれ以上の関係になんてなかなかなれないというのは分かっているんだけど。
でもやっぱりそんな関係に憧れてしまう。
近所にある喫茶店のマスターや、そこで働くウェイターさんや料理人さんと少しでも仲良くなって、ゆくゆくは、なんというか、友達、みたいな関係……。
そんなバカみたいな事を夢見てはいるけど、ちらりとマスターへ視線を向けても彼はこちらなど特に気にしていないようで、丁寧にコーヒーを淹れていた。
その真剣な顔をぼんやりと見つめる。
この喫茶店にはコーヒー豆を焙煎する機械も置いてあり、そこからもコーヒー豆の炒られるいい香りがしていた。
その豆が炒られる香ばしい香りを嗅ぎながらコポコポと昔ながらのサイフォンのフラスコの中の湯がアルコールランプで温められて沸く音を心地よく、聞く。
そしてフラスコの中の湯がロートを上っていくと、マスターが手早く攪拌してコーヒーの粉全体に湯を浸透させると、ふわりとこれまたいい香りがしてきた。
あぁ、いい香りだなぁ。そんな事を思っていると、俺の前に日替わりランチのお盆がウェイターの手によって運ばれてきて、今度はその日替わりランチのメインであるオムライスの美味しそうな香りに腹がぐぅ~と鳴る。
手を合わせた後、昔懐かしいタイプのチキンライスとそれを包む薄い卵焼き、その上にそっけなくかけられているケチャップの酸味と甘みに舌鼓を打つ。
1年この店に通っているが、どの料理も本当に美味しくて、お値段の割にボリュームもあり我ながらいい店を見つけたなと自画自賛する。
そして、サラダやスープ、付け合わせの小鉢などをあらかた食べた頃、目の前のマスターからすっとコーヒーカップが差し出された。
この最高のタイミングに出されるコーヒー。これもまた絶品だった。
……と、言いたいのだけど、実は俺はコーヒーが少し苦手で、出来ればブラックで飲みたいのだけど、最初の時に格好つけてブラックで飲んで思いっきり顔を顰めたのをマスターが見て以来、たっぷりのミルクを注がれ、そして砂糖の瓶も横へと置かれてしまう。
その事にトホホ……と思いながら、ミルクをたっぷり入れてもコーヒーの絶妙な苦みと酸味のバランスを消さないように淹れられているマスターの技巧に毎度舌を巻く。
と、同時に本当に申し訳ない、という思いを抱えてしまう。
いつかマスターが淹れたこの薫り高いコーヒーをブラックで飲んで見せる! とこの店へ来るたびに心の中で誓い、意気込むのだが、結局毎度俺は勧められるがままコーヒーにミルクをたっぷりといれ、砂糖もたっぷりといれて飲む。
そんな俺をマスターの少し呆れた様な視線が顔に突き刺さっているのを感じる。
その視線に、うっ、と思いながらもカップを口に運ぶ含むと思わず俺の顔が綻ぶ。
そしてその瞬間、すっとその呆れた様な視線は遠ざかるのを感じた。
ちらりとカフェオレというかコーヒー牛乳のような有様になっているそれを呑みながらマスターの顔を伺うと、また真剣な顔をしてサイフォンでコーヒーを淹れていて、だけどその口元がいつもの皮肉めいた笑みではなく、緩く楽しそうに見える笑みが浮かんでいるような気がした。
でもそれも数舜の事で、彼の顔はまたいつもの無表情に近いものへと変わり、コーヒー豆を挽いたり、サイフォンへとセットするろ過布の準備をしたりしていた。
そんな姿を見ながら、コーヒー牛乳を飲み終わると手を合わせて「ごちそうさまでした」と口の中で小さく呟き、背の高いスツールから足を下ろす。
そしてお会計を済ませると、今度の日曜日の日替わりはなんだろうともう次にまたこの店に来る時の事を考えながらその喫茶店を後にした。
「今日も来てたなー、あの子」
「……あぁ」
昼のピークを過ぎ、客もほとんど帰った後、マスター……高校からの腐れ縁のアイツに向けてそう聞けば小さく頷く。
「いい加減話しかけりゃいいのに」
カウンターを布巾で拭きながら意地悪くそういえば、アイツはこちらにその目つきの悪い目を向け睨みつけてきた。
「うっせぇ。黙って片付けしろ」
「職人気取るのもいいけどよー、あんな美味そうにお前の淹れるコーヒー飲んでくれてんだせめて『いつもありがとう』くらい言えよ」
「……ミルクと砂糖たっぷり入れた子供仕様で飲んでるのにか?」
アイツの言葉を無視してそう言えば、アイツは苦虫を噛み潰したような顔をした。
いい歳こいて人見知りで、昔馴染み以外とはまともに話せないアイツのシャイさに呆れ返ってしまう。
「でもあのふにゃっとした顔見るのは嬉しいんだろ? あ、そうだ俺がきっかけ作ってやろうか?」
これでも一応気を使ってやって俺からは話しかけないようにしているのだがさすがにじれったくてそう言えば、人を殺しそうな目で睨まれた。
その事に両手を顔の横に上げて降参の合図をすると、これでまた当分あの常連となった高校生と、このおっさんとの視線のやり取りを傍観するだけの無害なウエイターに逆戻りだ。
年齢なんて関係なく、友達になりたいならなりたいっていやぁいいのに、とそんな事を思うと、もう一度睨まれて俺は肩を竦めると手早くカウンターを拭き、備品の補充をした後、アイツが淹れた一杯のコーヒーを飲む。
「……あ~、やっぱお前の淹れるコーヒー美味いわ」
「……お前に言われてもな」
俺の賛辞にそんな返事をするアイツに俺は意地悪く笑ってやるのだった。
#ノート小説部3日執筆 「レポート:██山の怪異について。あるいは、その調査がいかにして進展したか」
時速70km。高速道路を走るクルマとしては遅い方。
できるかぎり早く届けるべきなのは分かっているが、未だに大型車に慣れていないので仕方ない。
そうでなくても、高速道路は怖いものだ。
先日、先輩が横転を起こしてしまったので、次は我が身という感じ。ビビリなのは昔からだ。
追い越していくバイクや同業が、ほんのり羨ましく思えてくる。もっと度胸を磨くべきなのだろうか。
時速0km。サービスエリア。
飲料の補充、飲みきった缶の廃棄、ついでにトイレに行く。やはりコーヒーの飲みすぎはよくない。
だが、眠気覚ましになって、俺の味覚に合うのがコーヒーしかない。お茶はパンチに欠けるし、カフェインタブレットは美味しくない。エナジー飲料は……、あの味本当にニンゲンの飲料物として正しいのか?ともかく苦手だ。
先輩はドロップ缶のミント飴を噛み砕いていた。あんなのでも、俺には清涼感が強すぎて涙が出てくる。なのでミント系のものは、早々に選択肢から外れた。
思い出に浸りながら歩いていると、ウチの車を見上げるガキがいた。大型だから珍しいのだろう。
「コラ、危ないから帰んなさい」
声をかけると、ガキはそそくさと、サービスエリアの端まで逃げていった。俺はずいぶん遠くに停めたから、ちょうど駐車場の反対側らしい。こんな遠くまで来るなんて、危機感の無いガキだ。
時速不明。渋滞に引っかかった。
視界の半分が、ブレーキランプの赤だ。目に悪い。
わずかに動くだけまだマシな方だ。ブレーキを踏みながら、缶コーヒーを呷(あお)る。
にしても、平日のこんな時間に、ここまで渋滞が起こるなんて珍しい。ラッシュが起こる時期でもないはずだが。
少し流れが速くなったところでミラーを見ると、ベコベコになった横倒しのワゴン車が路肩にあった。とりあえず、乗ってた人の無事を祈っておこう。もう遅いかもしれないが、それでも。
時速10km。高速を降りて一般道、というか山道。少なくとも、トラックで走っていい道ではない。
ナビが出した道に従ったらこのザマだ。
道のガタつきは少ない方だから、荷物に支障はないだろう。
祠とか鳥居みたいなものを横目に、とりあえず進めるだけ進む。ナビによれば、突っ切ればまともな道に出るらしい。
一度疑ってスマホを見ようとしたが、圏外だった。そんなに辺境じゃないはずだがなぁ。
時速0km。誰かいたので止めた。こっちに向かって、大きく手を振っている。残像のせいで腕が多く見える気もする。ハイビームでもうっすらとしか分からない。
こんな中で山道で会うヤツなんて、ロクなもんじゃないはず。ただ、なんか無視するのもマズい気がしたので、止めて確認しようというわけ。
「どうしましたぁ?」
窓から大声で、その人影に訊ねる。
ソイツも、それなりにデカい声で返してくれた。
「どうしました、じゃ無かろうが!この先は崩れておる!帰れ!」
口ぶりからして現地の人っぽそうだ。口調がジジイだが、声がガキだ。これが流行りの『のじゃロリ』ってやつか。たぶんあれ男だけど。
「サーセン!ありがとうございます!」
礼を言ってから、なんとかして車をUターンさせる。ナビがバグってたのかもしれない。
時速0km。駐車場。
山を降りてすぐのコンビニで、この辺の地図を買った。
さっきナビが出した山道の先を見ると、道が途切れていた。スマホが繋がったので調べてみると、10年以上前に崩れてから手付かずらしい。
このナビ、15年モノだからな。情報更新が追いついていないんだろう。帰ったら報告書だな。
時速50km。一般道。
なんとかルートを見つけた。このまま走れば間に合うはずだ。
時速0km。目的地。予定から10分遅刻した。
事務所に挨拶するなり『大丈夫でした?』と質問攻めにあった。なのでとりあえず、道であったことを話す事にした。
「――まあ、こんな感じですね」
話し終わった後、担当のお兄ちゃんたちが顔を見合わせていた。やっぱりもっと速度出すべきだったかもしれない。
いつもの子からは「疲れてたんじゃない?」と言われた。たぶんそうだろう。アレは幻覚か何かだ。
「とりあえず、帰りは違うルートにすべきでしょう。こちらで指定しますから」
そんな感じで、所長さんから地図を渡された。
時速60km。一般道。
指定されたルートは信号に引っかかりこそするが、特に問題なく走れている。意外とこの時間も流れは少ない。
これなら、行きよりも早く帰れそうだ。
――
いつものドライバーのお兄ちゃんを見送って、デスクに帰ってきた。
「……小夜ちゃん、アレってけっこう危なかったヤツ?」
起こったことを聞くかぎり、間違いなく怪異の類に遭っている。
「えぇ、しかも危険度が高いものですわ」
高速道路のある地点で起こる渋滞も、路肩のワゴンも、その後に山道送りになるのも、とある怪異が引き起こすものらしい。最悪の場合、そのまま消えて行方不明になる。
「早く名前をつけて管理をしたいのですがね。なにぶん帰還事例が少なすぎて、まともな調査もできないのです」
小夜ちゃんはファイルから書類を取って見せてくれた。
初発生は10年前。あの山の崖崩れが起こった頃。帰還事例が3個しかないし、書類の『遭遇条件』『帰還条件』の欄が空白だ。
「それにしても、よく分かりましたね。彼が怪異に遭遇したこと」
「まあね。蛇の情報網は優秀なんだよ」
とはいったものの、完全にまぐれだ。長蔓山(ながつるやま)の蛇兄ちゃんがたまたま遭遇したから、なんとかなった。
あの辺に寺社仏閣は無かった気もするが、蛇兄ちゃんはいつもフラフラしてるから仕方ない。
「今回助けてくれた妖怪、彼に話を聞くことはできますか?貴重な情報となるはずです」
「そうは言っても。長蔓兄ちゃん、どこにいるか分からんからなぁ」
ちょっと前流行ったゲームみたいに、コインと機械で召喚できたら圧倒的に楽なのに。
ま、深く考えてもしょうがない。
「今行ったらまだいるんじゃないかな。ワープはしないはずだよ」
頑なに徒歩だから、そんなに遠くには行かないはずだ。
「あの辺を調査するなら、“お嬢様”たちもいるだろうよ。呼び止めとく?怪異系なら、こっちも怪異の力がないとでしょ」
「感謝しますわ。人手……いや妖手は多いほうがいいですから」
オレができることはこれくらい。あとは専門家に任せるしかない。
――
クソっ、今回は獲物が来てくれなかった。
大きいやつだったのに、ご飯がたくさん載ってると思ったのに。
山の近くの大きな道を通る、頭からコーヒーの匂いがする車は、色んなものを載せている。その中に、たくさんご飯があるときがある。それだけが狙い。
ご飯以外はいらないけど、返す方法は分からないし、適当に捨ててる。
……お腹空いてきた。
あ、コーヒーの匂いの車。今度のは小さいけど、頭数も多いし、美味しそう。
こっちに来るように、上手いこと誘導しないと。こっちの道を通るようにする。
今度は邪魔もないから、たぶん大丈夫だよね? [参照]
#ノート小説部3日執筆 お題『コーヒー』
知り合いからコーヒーを頂いた。既に挽かれた後の粉末だが、普段の生活では見ないような高級品、それもイタリアンローストと来た。
コーヒー豆の焙煎度合いには八段階あり、イタリアンローストは最も深煎りの豆を指す。強烈でコク深い苦みが特徴的なそれは、私が最も好む豆の種類だ。
これ程素晴らしいコーヒーを頂ける機会は滅多にあるものではない。どうせ飲むとなれば、『アテ』となる菓子にも最高の物が欲しい。
という訳で駅前に行き、お気に入りのスイーツ店に足を運んだ。ケーキ一つ六百円は下らない高級ぶりなので、普段使いは出来ないが、近辺でここを超えるスイーツ屋は他に知らない。
私は迷うこと無く、フォンダンショコラをテイクアウトした。苦いコーヒーに合わせるとなれば、これ一択だ。
家に帰ると、即座に湯を沸かし、コーヒーをドリップする。イタリアンロースト特有のガツンと来る濃厚な香りに、喉に流し込んだ時の味わいを想像させられる。
これは美味い、そう確信した。急いでドリップし、火傷覚悟で飲み干したくなるのを我慢しつつ、ゆっくりカップに黒色の液体が満ちるのを待つ。
その間、電子レンジに買ってきたフォンダンショコラを入れ、少しだけ温める。三十秒にも満たない加熱から取り出すと、チョコレートの香りがキッチン全体に広がった。
フォンダンショコラを皿に乗せ、カップからドリッパーを取り外す。最後にコーヒーフレッシュと、スティックのグラニュー糖を一本入れると――自宅コーヒーセットの完成だ。
まずはフォンダンショコラの端をフォークで崩す。熱々に熱されたチョコの滝が、白い皿に流れ出していく。同時に閉じ込められていた香りが爆発し、小さく腹の虫が鳴いた。
ケーキ生地とフォークに、チョコレートをたっぷりと纏わせ――口内に招き入れる。
濃厚極まりないチョコレートの味に、思わず舌を巻いた。キッチンの空気を変えるだけの香気が口という狭い空間で炸裂すれば、それは暴力的までの味となるのだ。液状のチョコレートの味が落ち着いたところで、柔らかなケーキ生地を噛む。ふわりとした食感と共に、再びカカオの芳しさが息を吹き返した。
私がフォンダンショコラをコーヒーのアテに選んだのは、ただ甘いだけではないからだ。味わいこそ濃厚だが、ただ甘いだけではない。そもそも古来、チョコレートは苦く、薬として利用されていたのだ。故に甘さの中に、確かにほろ苦さも存在する。それが甘過ぎない程度に味のバランスを保ち、濃厚ながらも何処か引き締まった味にしてくれている。
そして口の中がチョコで満たされ、ケーキを呑み込んだ瞬間、すかさず頂き物のコーヒーを口に含んだ。熱湯でドリップされたコーヒーは熱々で、いっそ火傷しそうな程だ。しかし、その熱こそ口内に残ったチョコレートを、コーヒーの香りと共に喉へと連れて行ってくれる。
そうして飲み込んだ時――残ったのは、達成感だった。やはりこの組み合わせは間違っていなかった。
フレッシュと砂糖で多少マイルドにしても、尚一切陰りを見せない強い苦み。酸味は殆ど無い、苦さでの一点突破。当然苦いだけでなく、その色のように底が見えない深いコクがあり、日本酒のように舌で転がしたくなる。それでいていつまでも口内に居座る事無く、飲み込んだ後はスゥッと消えていくキレの良さまで持ち合わせている。
コーヒーの苦みとチョコレートの風味は、炊きたてご飯と焼き肉ぐらいには説明不要の相性の良さだ。最大まで深煎りされたコーヒー豆の強い苦みとフォンダンショコラの濃厚なチョコ味は、この二つの素晴らしさを最も強く味わえる組み合わせだと言っても過言ではない。
単体で飲むには少々苦いイタリアンローストと、何も合わせず食べるには濃すぎるフォンダンショコラ。出会うべくして出会った最高のコンビではないか。
並の喫茶店では及びもつかないであろう至高のコーヒーブレイクをゆっくりと堪能した。
殆ど同時にフォンダンショコラとコーヒーが無くなると、私は何処となく寂しさに襲われた。コーヒーはまだ数杯分あるし、美味しいアテも他に幾つか知っている。それでもこの二つの味を、この瞬間にもう少し味わいたかった。
私は窓を開け、ベランダに出た。少し冷たい秋の風が、何故か自分を叱っているような気がした。四階のベランダから見る青空を見上げ、暫く佇んだ。地上より少しだけ近くの秋空が、一つの閃きをくれた。
そうだ。美味いコーヒーを飲む方法は、美味いアテだけではない。
私は別のカップにもう一度コーヒーを淹れると、戸棚のチョコチップクッキーと共に盆に乗せ、ベランダに出た。
結局行っていないキャンプ用の椅子に座り、小さなサイドテーブルに盆を乗せた。
クッキーを一口囓り、コーヒーを啜ると、小鳥の囀りが響いた。何処か、福音のように聞こえた。
晴れ渡った秋の空をアテに、暖かいコーヒーの匂いを肺いっぱいに取り入れる。このコーヒーブレイクは、まだもう少し続く。
#ノート小説部3日執筆 『岩壁にて』お題:コーヒー
遙か向こう側に沈んでいくほむらの星が地平線をなぞるのを見届けたところで、観測者は休むことを決めた。何人も寄せ付けぬ岩の壁、その半ば、人が一夜を過ごす事が出来る程度の〝窪み〟に背負っていた荷物を降ろす。
荷物の中から手のひらほどの鉄皿を出して傍に置く。持ち込んでいた細い木の枝を積み、火打ち石を打てば瞬く間に燃え、周囲を照らした。そこに小鍋を置いて、水袋から水を注ぐ。ふつふつと温められていくそれを横目に、観測者はすらりとしたコーヒーミルを取り出した。小さな革袋に詰まったコーヒー豆をざらざらと入れる。一粒ばかり転がり落ちていったのに、ああ、と口惜しい声を漏らしながら、挽いていく。
空はすっかり夜の帳に覆われていた。
眼下、この壁から人類から遠ざけるためにある森も、闇に覆われて輪郭を失っている。森の向こうの更に遠く、最後に立ち寄ったであろう宿場の灯りすら、見えそうにない。
その代わりに星明かりがあった。星の行列が、夜空に横たわっている。ほむらの星を追うように、小さな星々が寄り添い合いながら、敬虔な輝きを零している。
それを眺めながら、豆を砕いた。ゴリゴリと鈍い音と共に、よい匂いがしてくる。傍らの鍋もぐつぐつと揺れていた。豆を挽く臼の音が軽くなった頃合いで、受け皿を開く。細やかな粒が、収まっている。カップに紙を乗せ、豆をそこに入れる。小鍋の湯をなるべく細く、ゆっくりと注いでいけば、よい匂いは強くなった。
火に照らされるカップの中身は黒々としている。泥濘に似て、しかしそれよりも濃く、澄んでいる。一口飲む。熱が唇に触れ、苦みとほんのわずかな甘みが観測者の喉を撫でた。壁を這い登り、疲れきった身体に黒い飲み物は染みる。
干し肉を囓り、ゆっくりと咀嚼する。ひとりだ。ここで朽ちても誰も気づくことはない。そんな場所だ。宿で聞く誰かのしわぶきも、壁向こうの甘やかな声も、たくらみの交わりもここには無かった。
あるのは夜の闇と、冷たい岩の壁と、風に流刑を言い渡されたか、頼り無く壁に張りつく草花のみである。
最後の一口、ざらりとしたものが舌に乗って、観測者は飲み込んだ。火を消し、目を瞑る。襲うことも、襲われることもない夜。腹の中で、温かなものが燃えている。 #ノート小説部3日執筆
#ノート小説部3日執筆 「記憶の香り」 お題:香水 #モノクローム・アカシックレコード
<番外編:1>
香りと記憶は密接に結びついているという。
ダナス・アカティークが自らの記憶が欠損し始めていることに気が付いた時、彼が初めに試した対処法は、香を纏い、思い出せる限りの過去を思い出すことだった。
そうすれば、何か忘れてしまったことに気づいても、その香を嗅げば思い出せるはず──
しかしその試みは失敗に終わる。
彼の記憶欠損は単なる健忘ではなく、記憶そのものを時空の狭間の化身のようなものに食われ続けるために発生していたからである。
香りは記憶という書籍に挟む栞としては有効だが、ページごと破られた場合は実に無力、むしろそこに大切な情報があったことだけを知らせてやるせない気持ちにさせるだけの代物に成り果てるのであった。
そのことに気づいたダナスはいつしか香を纏うのを止めた。そしていつしか香の存在ごとすっぱりと忘れ、香のしまわれた箱は部屋の片隅で埃を被り続けることになったのである。
──ダナスに巣食っていた時空の狭間の化身がダナスの中から引きずり出され、ダナス・ノワを名乗るダナスそっくりの存在として実体化するまでは。
ダナスにとって、ノワは不倶戴天の敵であり、犯した罪の具現であり、とにかく顔も見たくない相手であった。
しかし何故か今は同居を余儀なくされている──それはノワが、ダナスから失われた記憶を保持する唯一の存在であり、彼を放逐してしまえば過去を取り戻す手段がなくなってしまうからである。
いわば記憶を人質に取られたも同然なのであった。
尤も、ノワがダナスの記憶を保有しているとはいえ、それを取り戻す手段は今のダナスにはないし、ノワの要求を呑んでノワと合一するなんてのは死んでも避けたいので、こうして同居に甘んじているのだが。
それをいいことにノワはやりたい放題である。
ふわりと漂う郷愁を誘う香りにふと振り返ると、ノワが何やらどこかで見たような箱から小瓶を取り出して自分の手首に吹き付けているのがダナスの視界に入った。
それが何のためのものだったかは今となってはもうダナスには思い出せないが、その香りを嗅ぐとなぜだか胸がチクリと痛むので、おそらく記憶維持のためにいろいろ試行錯誤していた頃に使っていたものだろう。
それだけなら別にいいのだが、それをノワがわざわざ持ち出してきてこれ見よがしに使っているというのがダナスの癪に障った。
「……ノワ、人のものを勝手に使うなと何度言えば解ってくれる?」
不機嫌を露わにしてダナスはノワに注意をした。
だが当のノワはどこ吹く風である。
「でもお前、これの存在忘れてただろう? オレはお前にそれを思い出させてやったんだぜ? ……うん、いい香りだ」
何なら恩着せがましさすらみせてきて、それが余計にダナスを苛立たせる。
できることなら今すぐこいつをぶちのめしたい。
しかし以前手酷い返り討ちに遭って記憶保持術式にまで介入されかけたので、迂闊に手出しもできない。
よってダナスは今のところは臍を嚙む思いでノワを放置するしかできないのであった。
ノワは古代魔術にルーツを持つ化生だ。そしてダナスの手元には幸いにして古代魔術に関する資料が複数ある。以前『新大陸』より持ち帰ったもので、これらから得た情報によって自分からノワを引き離してこれ以上の記憶の流出を止めることに成功したという経緯がある。
だからいずれノワから記憶を取り返して彼をぶちのめす方法にも辿り着いてみせる。
その一念でもって、今はどうにか我慢を続けているのだった。
しかしダナスはまだ気が付いていない。
いつかノワを打倒したとしても、この香水を嗅ぐたびに今度はノワとの記憶に囚われてしまうことを。
ダナスはまだ知らない。
おわり
#ノート小説部3日執筆 【SS】勇気をくれる魔法。
「お客様、香水にご興味がおありなんですか?」
その日、私はたまたま街角の香水専門店の前で足を止めた。特に明確な理由もなく、ただその内装に目をやっただけだ。強いて言えば、店頭に飾られていた香水のパッケージに目を引かれたのかもしれない。
そして、しばらく立ち止まっていた私を認め、扉を開けて女性の店員さんに話しかけられたのだった。目が合ってしまい思わず肩がすくむ。その場から逃げ出そうにも身体がうまく動かなかった。
「あ……えっと、あの、その……」
次に返すべき言葉が見つからなくてしどろもどろになっていると、店員さんは私の顔の高さで目を合わせてくれた。
「もしかして、学生さんですか」
「……! ……!」
言葉が出ないので全力の首肯で応答する。すると彼女はフッと微笑み、お店の扉を開けた。
「よかったら、少し中をご覧になります?」
扉の発した風で、店内の空気が香りとともに外へ漏れ出す。なぜだかとても落ち着く、不思議な香りだった。それで心も少しほぐれたのか、言葉が少しずつ出てくるようになった。
「えっと……いいん、ですか」
「もちろん。貴女さえ良ければですけど」
そう言って彼女はまた笑った。
* * * * *
店内は白を基調とした清潔感のある空間で、まさにおしゃれなお店、という佇まいをしている。それなのに私があまり緊張せずにいられるのは、頭上に輝く暖色の照明と、先程の不思議な香りのおかげだろうか。
周りを見回すと、サンプルと思われる小瓶がずらりと並んでいて、私に手に取られるのを心待ちにしているかのように見える。
「あの……本当に見るだけでもいいんですか」
「ええ。知ってもらいたいですから、香水のこと」
「…………」
私は目の前にある小瓶をひとつ手に取った。蓋を開けて顔を近づけると、中身の香りが鼻をくすぐる。
これは……シトラス? 奥からは何かしらの花のような香りも漂ってきて、とても華やかな印象を受ける。きっとこういう香水を付けるのはもっと太陽みたいに明るい人だろう。私とは真逆のタイプだ。
もし私がこんな香水が似合う女の人だったら、あの人も意識してくれるのかな。なりたかったな、そんな人に……。
「これなんかいかがですか?」
「えっ?」
驚いて顔を上げると、すぐ隣に先程の店員さんが佇んでいた。どうやら考え事の海に沈んでしまっていたみたいだ。
「すみません、お客様に合いそうな香水を選んでて。それで、これを」
手渡されたのは、今嗅いでいた小瓶と同じ外見のもの。しかしそれとは違う数字のラベルが貼ってあった。
小瓶の蓋を開けて中身を嗅ぐと、ふわりと優しい香りが広がった。
「……ふわふわする」
甘い匂い……なのかな。上手く言葉では説明できないけれど、甘いような、そうでないような、複雑な香りが私を包む。香りとしては強い気がするのに、不思議と嗅いでいて嫌じゃなかった。むしろ私の心に落ち着きを取り戻してくれた。
香りを愉しむ私を見て、店員さんはまた私に目の高さを合わせる。
「もしかして、好きな方とかいらっしゃるんですか?」
「えっ!? な……なんで、それを」
「勘……ですかね? "そういう"顔をされてましたし」
今度はいたずらっぽく笑った。恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
「好きな人……いるん、ですけど……あんまり意識されてないみたいで」
服の裾をぎゅっと握った。私がこんなに引っ込み思案じゃなかったら、私にもっと勇気があったら……。
「なるほど。なら、なおさらこの香りを選んで正解でした」
店員さんは手を叩くと、一片の紙を手渡してくれた。
「うちの香水、香りひとつひとつにストーリーが付いてるんですよ。この香りのは……」
その紙には、『一歩踏み出したい貴方の背中を押す』と書いてあった。
「背中を……」
あの香りは、たしかに私を優しく包んで、緊張した心をほぐしてくれた。足がすくんでもまた動き出せるような、深呼吸するみたいな香り。この香りをまとった私なら、ちょっと勇気が出せるかな。そうしたら、あの人にも意識してもらえるかな。踏み出したい。私――。
「……香水って面白いですよね。それで――」
「――あ、あの! これ、買ってもいいですか」
うっかり話を遮ってしまって、店員さんが目を丸くした。自分でも思いもよらない大声が出て、私も目が丸くなった。
そんなことを言ってから、値段を確認していないことに気がつき、側にあった値札に目をやる。思ったよりは高くなかったけど、しばらくお小遣いは切り詰めないといけない金額だった。宣言した手前で後には退けず、思わず頬を冷や汗が流れる。
「えっと、その、か、買わせて、ください……?」
しばらくきょとんとしていた店員さんだったが、やがて我慢の限界といった風に吹き出した。
「ふふ……ふふふっ、あははは……! わかりました、わかりましたよ」
面白そうに閉じた目をこすりながら、彼女は商品の小箱――私が手にしている香水のもの――を渡してくれた。その外装は、私が店頭で見たパッケージのデザインと全く同じだった。
「そんな顔してまで買おうとしてくれるのは嬉しいですし、特別に半分私が出しちゃいますよ。その代わり、恋が成就したらもう半分返しに来てくださいね」
「……!」
私が驚いて目を丸くすると、店員さんは控えめに親指を突き立ててサムズアップをした。今日見た中で一番明るい笑顔とともに。
レジを通して改めて手渡された小箱は、ほのかな温かみを持って私に勇気を与えてくれた。早くこの香りをまとって、そしてちょっぴり勇気を手に入れた私の姿をあの人に見せたい。それで、そしていつかは――。
その小さな一歩として、私はまず携帯を取り出したのだった。
「もしもし、朔くん? あのね、今度の日曜日ね――」
#ノート小説部3日執筆 お題:香水 「桜の香の君」 BL?
ふわりとどこからか、風に乗って甘くて優しい香りが漂ってきた。
まるで桜の花が花開く時の様な、香り。
多くの人々が行きかう街中の歩道で、周りには桜の木など一本もない。
それでもどこからかふわりと香り、信号待ちをしていた男の鼻腔を擽った。妙にまとわりつく様なその甘く独特な香りに、近くにいる女性が付けている香水の香だろうかと辺りを見回す。
だが、周りにいる人間の多くは自分と同じ男性で、このような甘い香りを好んで身につけそうな人間を見つける事は出来なかった。
ではこの香ってくる優しい香りはなんなのだろうか、と思う。
自分の周りではなく、もっと遠くから香りが運ばれているのだろうかと男は思うが、生憎と香水にしても本当の桜の香りが風と共に運ばれているのだとしても、ここまではっきりとした香りが他の匂いと混ざることなく届く事は考えにくかった。
そしてもし本物の桜の香だとしたら、この信号から相当離れた場所にある公園にしか桜はない。それに、と思いながら男は首に巻いたマフラーをその手袋をはめた指先で触れる。
人の間を吹き抜ける風は冷たく、その風には粉雪が混ざっていて街の中を白く染め始め、吐く息も白く揺蕩っていた。
こんな寒い日に本物の桜の香りがするのは考えられなかった。
ずっと寒い日が続くから、いち早く春の気分を味わいたくて、桜の香の香水を身に纏っている人がどこかにいるのだろうかと男は考え、改めて桜の香水の香りだろうと思い直す。
そして、男はマフラーで口元を隠してふふっと笑う。
そう言えば昔、この香りとよく似た香りをとても寒く雪が背丈を超える程積もった日に、その身に纏っていた人がいた事を男は思い出したのだ。
その人は存在そのものも春の陽だまりの様な、明るく咲く桜の花の様な人だった。
大学を卒業した後、進路は別々になり、その人は男とは全く違う県へと引っ越していった。だからその人が今どこでどうしているのか男は知らない。
それに何より特に仲が良かった訳ではなく、男が一方的にその人を知っていただけの可能性が高い。
講義で何度が隣になり、軽い雑談や講義に対する話を少しばかりしただけの相手だ。
その人が、真冬の講義の時に今香ってくるような桜の香水を身に纏い、隣の席に座った事を男は懐かしく思い出す。
『……なんの香水?』
その時、ふんわりと香るその甘さのある優しい香りに思わず男がそう聞いた時にその人は微笑んで『桜』と答えたのだった。
『まだ冬なのに?』続けてそう聞けば、『桜が恋しくて』と悪戯っぽく笑ったのが男の中では甘酸っぱい思い出となっている。
気が付けば信号は赤から青へと変わり、周りにいた人達がぞろぞろと雪が解けて濡れた道を歩いていく。
慌てて周りの人に合わせて男も歩き出し、マフラーに顔を埋めながら足元を見つつ、前からくる人間達を避けながら道路の向こう側へと向かう。
そんな男の鼻腔に、先程よりも強く桜の香が漂い、弾かれた様に男は顔を上げた。と、男の頬に桜の香水を焚き詰めた様な長い髪の毛の先がふわりと触れ、思わず男はその場で足を止める。
「……え」
驚き後ろを振り返るも、頬に当たった様な長い髪を持った人は一人もそこにはおらずまるで狐に化かされたような面持ちとなり男は目を瞬く。
途端、車からのクラクションが鳴り響き、ハッとするとすでに信号は青から赤へと変わっていて男は慌てて信号を渡り切る。
そして渡り切ったところでまた振り返り、道路を走り去る車の流れの向こう側、先程まで自分が立っていた場所を目を細めて見る。
何故かそうしなければいけない、と男はそう思っていた。
暫くそうして反対側を見ていると、また信号が変わり、青となった瞬間男は反対側へと走り始める。
さっきまで確かにいなかった筈の長い髪の人が、そこに立っていた。
「……君は……!」
駆け寄り、そう声を掛けると、その人は昔と変わらず陽だまりの様な、満開になった桜の花の様な温かい笑みをその整った顔に浮かべる。
「こ、こっちにいつ帰ってきて……」
走ったことでいささか上がった息を整えながらそう聞くと、その人はまた微笑み、男の鼻腔に強く桜の花の香水の香りが漂った。
「か、髪、伸びたね」
何も言わないその人に男は何を話していいか分からなくなりそんな言葉を口走り、すぐにしまったと思う。
そもそも目の前の人が自分の事を覚えている保障なんてどこにもない……と男は気が付き、こんな質問気持ち悪いだけだろ、と自分自身に内心毒づく。
だからきっと微笑むだけで何も返事をしてくれないんだと思い直し、改めて一つ咳ばらいをすると口を開いた。
「あ……と、覚えてないかもしれないけど、大学の時良く同じ教授の講義を取ってて……。その君とは何度か席が隣で、少し話した事もあるんだ。僕の名前は……」
そこまで言ったところで目の前にいる人は、まるで覚えているよ、といったように男に微笑み、また桜の香りが強くなった。
そしてその人は自身のスラックスのポケットに手を入れるとそこから何かを取り出す。
男は釣られるようにその手のひらの上にあるものを見て、目を瞬いた。
その人の手のひらの上には桜の花びらが小さな可愛らしい瓶の中に液体と共に詰められていて、男はなんだろうかと思う。
「これ……」
何? そう男が尋ねようとした時、その人の手が男の手を取りその上にそれをそっと置くと、また微笑んだ。
まるで貰ってくれ、と言っている様に感じもう一度男は目を瞬く。
手の中に置かれたその小瓶を自分の目の位置に掲げてまじまじと眺め、改めてその人に男が色々な事を質問しようと視線をその人に戻したが、そこにはもう誰の姿もなく、ただ様々な人が寒そうに首を竦めて早足で歩道を歩いているだけだった。
その事に三度目の瞬きをした後、もう一度手の中にある小瓶を見つめる。
それを見つめていると男の瞳に何故か涙が盛り上がり、上気していた頬に流れ落ち、冷気に冷えて頬から顎までを冷やしていった。
**
――アイツ、桜が咲く時期まで頑張るって言ってたけど、ダメだったんだってさ。
春に行われる今までは参加した事の無かった大学の同窓会に参加した男の耳にそんな言葉がざわめきに紛れて聞こえてきた。
ビールを口に運んでいた手が止まり、その話をしているグループへと男は目を向ける。
――元気になったら会いたい人がいる、ってそれが最期の言葉になったってアイツのお母さんにこの前聞いて、堪んないよな。
男は耳をそばだててそんな会話を盗み聞きする。
男の頭の中は、まさか、と言う言葉が氾濫し、ポケットに忍ばせていたあの小瓶を取り出した。
それはあの時あの人に渡された小瓶で、中身は桜の香水だった。
その小瓶の蓋を男が開けると、ふんわりと桜の香りが辺りに漂う。
――あ……、今なんか漂ってきた匂い、アイツが好きだった匂いだ。はは……、アイツも、ここに来てんのかな。
男の耳にグループの中の一人のそんな言葉が聞こえ、その後半は涙声になっていた。
その涙声を聞き、男は小瓶に蓋をし少し眺めた後、席を立つとその涙声の男の前にその小瓶を黙って置き、その場を後にした。
外には桜がまっていた。
#ノート小説部3日執筆 「思い出は、みかんの香り」
「こんにちは。被験……じゃなかった、のんちゃん。元気かな?」
「うん。げんき!」
被験体ちゃんは、いつも通りニコニコしている。
前の担当が辞めてから元気がないと聞いたけど、安心した。
被験体は丁寧に扱わないといけない。ここの実験は過激なものが多いから、メンタル面には特に慎重にならないといけない。
精神崩壊を起こして、怪物化されたら困るからね。
まあ、別の棟に割とギリギリの精神状態の子がいるけど……。
「せんせー、せんせー、だっこ!」
この子はけっこう甘えんぼうだ。やって来た当初は人見知りが激しかったけど、慣れてからはそれこそ、ほぼ全員にべったりしている。
「よしよし、おいでー」
両手を広げて迎え入れる。そろそろ10歳の子とはいえ、この子はこんな感じで扱わないといけない。それが実験の一つだからだ。
体感としては、図体がデカいだけの幼稚園児って感じ。
「ん!せんせー、いいにおい、する」
抱っこで顔を近付けたからだろう。ボクの香水が気になるようだ。
「先生はねぇ、いい匂いのスプレーをつけてるの」
「いいにおい?どんなのどんなの?」
どうやら、香水の匂いに興味が沸いたらしい。
ちょうどつけなおす時用に、携帯用を持ってきていた。
ただ、渡すためには申請が必要だ。とりあえず内線を繋ぐ。
『あーもしもし、臨時で申請したいものがあって。ボクの香水なんですけど……』
『ん、手荷物検査通ってるやつでしょ?後でレポ書くならオッケーだよ』
許可をもらったので、早速与えてみるか。
「のんちゃん、お手手パーってして。シュッシュするよー」
それこそ、保育士さんがやるような言動をとる。こうでないと、この子が言うことを聞いてくれないから。
「はーい!」
被験体ちゃんは両手の指をいっぱいに広げて、こちらに向けてくれた。元気があって、たいへんよろしい。
香水のノズルを向けると、被験体ちゃんは目をきゅっと瞑った。そういえばこの子は、消毒アルコールや消臭剤など、スプレー系のモノに対してはよくこの反応をする。
「はい、シュッ、シュ〜」
被験体ちゃんの手首に向かって、片方に一回ずつ噴霧する。
「み〜っ!つめたーい!」
被験体ちゃんは目を瞑ったまま、首をふるふるさせた。これもスプレー系のモノに対して、この子がよくやる行動だ。
「でもいいにおい!みかんみたいな!」
おそらく、シトラス系の香りだからだろう。この子は語彙が少ないので、柑橘類はほぼ9割“みかん”呼ばわりだ。
「のんちゃん、この匂い、好き?」
「すき!」
「そう?じゃあ次来るときにも、シュッシュしてあげるからね」
「やったー!」
被験体ちゃんはぴょんぴょこ飛び跳ねている。身長150cmの図体だから驚くが、ちびっ子の挙動としては、まあよくあることだろう。
ふと時計を見た。午前のカリキュラムの終了時刻が近くなっている。
「あ、そろそろ12時になるね?12時になったら、何の時間かな?」
これまた、ちびっ子に聞かせるような言い方をする。
「ごはんのじかん!」
「そうだね。食堂に行こうね」
「はーい!」
そうして、食事担当にバトンタッチする。ボクの仕事はここまでだ。
まあ、臨時で情操教育なんて、いきなり用意できるわけないわな。部屋の本とかでその場をしのぐつもりだったから、香水に目を向けてくれたのはありがたかった。
香水を与えたことについてのレポートは、まあ、昼飯を食べながら書くことにしよう。
――
「……珍しいなノン。香水なんて付けてんのか」
おっ、やっぱり洋平くんは鼻が利くねぇ。そうなの。香水、買ったんだ。
「良いじゃん。似合うぜ」
えへへ、ありがと。
チェーザレ・コンモルトの52番。なんだっけ、なんちゃらシトラスの香りだよ。アメリカ語は読めないや。
「“チェーザレ”ってんだからイタリア語だろ」
そうなの?どのみち分かんないから、まあいっか。
「……どうしたんだ突然、香水なんて」
なんか思い出しちゃったんだ。昔ね、先生が付けてたんだよね。
「ユナ先生か?」
ううん、その後で臨時に来た先生。結局、一回来ただけで終わっちゃったんだけどさ。
「一回来ただけの先生覚えてんのか。すごいな」
うーん、そういうわけでもないよ。だって最近まで忘れてたもん。
「じゃ、なんで思い出したんだ?」
たぶん、私達のコードネーム、キュラソーの匂いに似てたから、かな?
ほら、みかんの匂いするでしょ?
「みかん……?まあ、柑橘ではあるか」
だからさ、この香水付けてたら、もっとキュラソーっぽくなるかなーって。
ほら、私リーダーだし、気合入れたくてさ。なんか香りをつけると、やる気出るじゃん?
「分からなくはない。香りは気分を左右させやすいから」
だからね『がんばるぞー!』の気持ちを込めるために付けるんだ。
そうだ、洋平くんもつける?
「いいのか?」
うん。
じゃあね、お手手をパーってして。シュッシュするから。
「……はい」
やるよー。はい、シュッ、シュ〜。
「……はい」
どうかな?どうかな?
「いい香りだと、思う」
えーっ、それだけ?
「オレに感想を期待しないでくれ」
うーん、まあ、それもそう。
あとで他の子にもシュッシュしてあげよーっと。
「それ以前に、12時だ。これから何の時間だ?」
おねんねの時間。
「そうだな。もう寝ろ。オレも寝る」
じゃ、他の子にはまた明日かな。
それじゃ、おやすみ。 [参照]
#ノート小説部3日執筆 お題【香水】伝わる事と伝わらない事(BL、GLカップル)#書類不備です。
「カジくん、最近浩和(ひろかず)と同じ香水使ってるよね?」
「えっ」
いつものメンバーで賑やかな時間を過ごしていると、紗彩(さあや)がそっと耳打ちしてきた。浩和はなにやら寛茂(ひろしげ)に変な事――またいつもの突拍子もない何かだろう――を言われたらしく、変な笑い顔で首を横に振っている。
寛茂の恋人であり祥順(よしゆき)の上司でもある千誠(ちあき)は紗彩の恋人である明寧(あかね)と共に、そんな二人の様子を見て笑っていた。
いつもの日常だ。
ホームビデオを見ているかのような気持ちでそれを見守っていた時、飲み物を取ってきた彼女がふいに話しかけてきたのだった。
紗彩は浩和の元恋人である。彼女が明寧とのお出かけ――当時は本当にただの友人関係だったようだ――を浮気だと勘違いした事がきっかけで別れる事になったのだが、今ではちょっとした笑い話になっている。
この一件がなければ、祥順が浩和に興味を抱く事もなく、また浩和が祥順に特別な感情を抱く事もなかったのだという事を十分すぎるほどに理解している祥順は、密かに感謝していたりする。
「突然ごめんね。でも、私は香水分けてもらう事がなかったから……ちょっと羨ましいな、なんて思っちゃったの」
「なるほど……?」
もう、二人の間に恋愛感情はないと分かっている。だが、彼の元恋人であったという事実は、言葉に表せないもどかしい感情を時々呼び起こす。
祥順は自分の中に浮かんできたその気持ちを隠そうと口元に弧を作った。
「男性向けの香水だから、あなたには似合わないとでも思ったのかも。ほら、俺は同性だし……」
「ふふ、でもねぇ……寂しかったらこれ使って……みたいなの、憧れない?」
紗彩がいたずらっ子のような笑みを浮かべて「枕にプッシュしたりして……とかね」とつけ足してくる。祥順はその様子を想像し――慌てて首を振る。
そんな事をしたらかえって眠れなくなりそうだ。
「あら、なに……想像しちゃった?」
妙齢の女性にぐっと近寄られ、祥順はどきりとした。ふわりと甘い香りが鼻腔に届く。あれ? この香りは……――
「紗彩さん、俺の勘違いでなければだけど……今使ってる香水、浩和がブレンドする香水コレクションに入ってるよ」
「えっ……?」
きょとんとした紗彩にブランドと品名を伝えると、彼女は驚きに目を見開いた。
「やだ……この香水……気づいてたんだ」
「香水コレクション、数が多いからあんまり中身が減らないとか言っていたな。そのコレクションを単体で嗅がせてもらった事があるんだ。
中でもこれは女性ものの香水だったから印象に残ってて」
浩和はこれを少しだけ混ぜるのだと言っていた。そうすると、男性でも不自然にならない甘さが出るのだとか。祥順は彼が説明してくれた話を思い出しながら、紗彩にそれを伝えた。
彼女は祥順の話を聞いている内に瞳をうるませていく。まずい、祥順がそう思った時には遅かった。形の良い目から雫がひとつこぼれ落ちる。
「あ、ごめんね。ちゃんと大切にされていたんだなって思ったら、ちょっときちゃって」
「こっちこそごめん。あ、これ使って」
近くにあったティッシュボックスから一枚渡す。彼女は小さく笑んでそっと目元にあてた。祥順は今でも浩和を大切に思っている彼女に向け、何か面白い話はないかと考える。だが、浩和と違って気の利いた話が思い浮かばない。
どうしたものかと悩んでいると、二人の様子に気づいた浩和が近寄ってきた。
「ちょっと、さーやの事泣かしたの?」
「浩和。えっと、厳密には浩和が泣かせた……ん、だけど」
「カジくんの言う通りよ」
「え?」
大げさなくらいに驚いて見せた浩和に紗彩が笑う。やはり元恋人なだけあって、彼女のツボが分かっている。祥順は少しだけ疎外感を覚えながらも、彼女の表情に笑みが戻ってほっとする。
こんな事を口にしたらきっとジェンダーがとか言われてしまうだろうが、女性は笑顔が一番だ。祥順が紗彩につられるようにして口元をゆるませると、浩和が今度は眉間にしわを寄せた。
「……祥順。何、紗彩に鼻の下伸ばしてるんだ?」
「してないけど?」
「ふふっ、ヤキモチ。かっこ悪いね」
紗彩は完全復活したらしい。にやっと笑み、浩和を挑発している姿は香水にまつわるエピソードを今更ながらに知って目を潤ませていたとは思えない。
「浩和は、もう少し言葉で伝えるのを覚えた方が良いのかもね。態度じゃやっぱり伝わらないよ」
「え? 二人とも何の話をしていたんだ?」
浩和が紗彩の助言にうろたえている。悪い話ではないが、勝手に香水の話を持ち出してしまったのと、彼女をそれで涙ぐませてしまったのとで、告げて良いのか悩ましい。
祥順は簡単に決定権を手放した。
「紗彩がオーケーしてくれたら話しても良いよ」
「じゃあ、私とカジくんの秘密にする」
「ずるいぞ」
浩和がムキになるのが面白いのだろう。紗彩はくすくすと笑いながらこちらに近寄ってきた明寧にそっと寄りかかる。
「ずるくなんてないよ。ね、明寧」
「ん? 何の話?」
明寧は自然な動きで紗彩のこめかみに口づける。さらっとそういうスキンシップでこちらにマウントを取ってくる明寧だが、そんな彼女の態度が好ましい。元恋人同士が仲良くしているのにモヤモヤを感じる仲間だからだろうか。それとも、その感情を彼女の方が強く覚えていそうだと直感的に思ってしまうからだろうか。
祥順はそんな事を考えながら浩和の腰を抱く。
「誰にだって、秘密ってあるだろう? そういう事だよ」
「……全然分からないけど、祥順が良いならそれで良いって事にするさ」
体重を預けながら諦めのポーズをとる男に、情深い人なんだよなとしみじみと思う祥順の鼻に、嗅ぎ慣れた香水の香りがふわりと届く。
ああ、今日は同じ香りだったんだっけ。明らかな仲良しアピールすぎやしないか、と今更ながらに面白い気持ちになる。
「あーあーハイハイ、自分達だけの世界に入るのはんたーい!」
「わぁっ!?」
千誠がぬうっと現れたかと思えば、浩和ごと祥順を抱きしめてくる。ぎゅうっと筋肉質な腕に圧迫され、変な息が悲鳴と共に漏れた。
浩和が暑苦しいよ、と苦笑しながら軽く文句を言うのが聞こえてくる。男達が塊になっているのを見た女性陣が笑っている。
ああ、もう笑ってくれるなら何でも良いか。そんな風に思っていると、楽しい輪に入りたくなったらしい寛茂が突撃してきた。
さすがに無理。祥順がそのタックルに耐えられずにソファに向けてバランスを崩すと全員が叫んだ――が、後の祭りである。祥順は男三人の下敷きになって苦し気な呻き声をあげる事しかできなかった。
#ノート小説部3日執筆 お題:香水
ふと、デスクから窓の外を眺める。
すこし前までの夏を彷彿とさせるような暑さは鳴りを潜め、急に下がった気温は道行く人の装いを変えさせた。
暖かい飲み物が嬉しい季節になってきたな、とマグカップの珈琲から立ち上る湯気をぼんやり見つめる。
「こう突然寒くなると、寝る時もなに着るか迷いますよね」
やっていた作業も一段落ついて、隣の席に声をかける。
そこには、なにやら眉間に皺を寄せてパソコンのモニターを見つめる女性。
入社時からお世話になっているこの先輩。
何かにつけて構ってくるのだが、社内では変人扱いされており、実際奇行も多い。
この間は仕事で詰まったから、と一時間くらいセミの抜け殻を撫でまわしていたこともあった。
しかし何をそんなに真面目に仕事しているのかと、ちら、とモニターを覗く。
赤とオレンジを基調とした明らかにSNSらしき画面。そして隣に文章作成用ソフトが別々のウィンドウで並んでいた。
——あぁ、この人サボってるわ。
こちらが見ていることを知ってか知らずか、モニターを見つめたまま先輩からめんどくさそうな声が返って来る。
「シャネルの5番でいいんじゃないかい」
「なんですかそれ?」
適当な返事だと思って軽く聞き返すと更に言葉が返ってくる。
「調べてみるといい」
自分も暇そうなのに、とぶつぶつ言いながらスマホで調べると、マリリン・モンローの話がすぐに出てくる。
余程有名なのか、と思いながらさらっと内容を拾って頷く。
「……香水の話なんすね」
遠回しに全裸で寝ろと言われた気もするが、それは置いておく。
相変わらずこちらに一瞥もくれない先輩から「あぁ」と気のない相槌をが返って来る。
「香水に縁なんてないもんで知らなかったです。先輩よく知ってましたね」
「私はたまにつけてるよ。シャネルじゃないけど」
「え、意外。どんなのか見せてくださいよ」
「意外だとか失礼なことをいうやつには見せない」
それにそもそも普段から持ち歩いてなんかないよ、と言うとモニターから目を離し、ぐりぐりと肩を回しながらこちらを向いて笑う。
「私がつけてるのは一日くらい持つから、そんなにつけ直さないんだ」
あんまり匂いが強すぎると迷惑だしね、と付け加える。
確かに電車内などで瓶ごと頭から被ったのかと思うほど香水の臭いをさせる人もいる。
なるほどそういうものかと納得しながらも、ふと疑問が湧いた。
「先輩のはどんな匂いの香水なんですか?」
「“夜明けの読書”って名前のやつ。今日もつけてるよ」
「そんなのあるんですね」
名前からは想像がつかないが一体どんな匂いだろう、と先輩の方を向いて鼻をひくつかせるがよく分からない。
「だからって嗅ぐんじゃない!デリカシーがないなぁ!他でやったら本当に嫌われるぞ!?」
「だって気になるじゃないですか」
「こういうのはふとした時に少し香るからいいんだよ」
まったく、と大きく身を引かれる。一応の羞恥心はあるらしい。
「そういう匂いが好きなんですか?」
「そうだねぇ……好きだけど嫌いかな」
わけがわからない。
「じゃあなんでつけてるんですか」
「そうだねぇ……自戒のためかな」
先輩は少し俯く。垂れた前髪が影を作る。その奥で暗い瞳がゆっくりと細められる。
「むかし好きだったひとのイメージに似ててね。朝焼けの似合う人だったよ」
——意外だった。
この人が他人を好きになることがあるのか、ということもだが。
さっぱりしていそうなこの人がそういう感情を今も引きずっている事に驚く。
俺の顔を見ると、考えが表情に出ていたのだろうか。見透かしたように先輩は続ける。
「恋愛感情ではなくて、友人になりたいとか憧れとかそういう感情だったけどね」
「先輩がそういう話をするのは珍しいですね」
そう言って続きを促す俺に、先輩は「面白い話じゃあないよ」と苦笑しながら続ける。
「そうだな、とても綺麗で良い文章を書く人だったし、考え方もきっちりした人だった」
本当に少しの間関わっただけだったんだけどね。と笑いながら画面を見つめる。
「自分の考えに絶対的な自身を持ってるように見えて、なのに他人の顔色が気になってしかないように見えてね」
「そういう人間臭い所に惹かれたんだけどね。ま、私が嫌になってしまったのさ、身勝手にもね」
自嘲するように言うとモニターから目を離してこちらを見る。
「私は、もっとその人の事を知りたかったし、知れば良かったのかもしれないと思うよ。
らしくないかい?と聞かれて答えに詰まる。
「ま、とにかく。この香水は私のひどく個人的な感傷という事さ」
「……先輩らしくはないですね」
「正直だね」
「先輩の個人的な話を聞くのは初めてなので」
「……そうだね。私もあまりこういう話はしないからね」
する友人がいないないんだけどね!と渇いた笑いをする先輩を尻目に、ざわつく自分の心に気づく。
きっと、俺も知りたいんだ。この不思議なことばかりする先輩のことを。
ボンヤリと先輩を見つめていると、視線に気づいた先輩がふざけたように言う。
「なんだい?私を好きにでもなったかい?」
「興味はあります」
「は?」
予想外の返答だったのかへらへらと笑っていた先輩が固まる。
俺も少し考えた後に、告白ともとられかねないことに気づいて焦って続ける。
「あー……。恋愛とかそういう話じゃなく、興味が」
「君の場合は珍獣を見るのと同じ扱いじゃないかい?」
「あぁ、確かに。そうかもしれないですね」
やっぱり失礼じゃないか、と呆れた顔をする先輩に苦笑してみせる。
だが本音を言えば、自分でもこの興味がどういう感情なのかは分からない。
ただ。垣間見えた孤独と、この人の言うところの“感傷”をもっと知りたいと思ってしまった。
「……ちなみにその香水ってどこで買えるんですか?」
「ネットでも注文できるけど……買うのかい?」
「気になるんで」
先輩は片眉を上げて少し考えると、やがて諦めたように溜め息を吐いた。
「今度小さいボトルに入れてくるから、試してからにするといい」
それからでも遅くないだろ、という先輩の言葉に頷く。
「本当に君は変なやつだな」
言葉とは裏腹に、その声色は優しい。
伸びをしながら立ち上がる先輩からふわり、と少し甘さの混じった木のような香り。
——自分の心が、じく、と動くのを感じた。
それは、胸が痛むような。心地よく甘いような。相反する2つが混ざり合ったような感覚。
匂いが記憶を呼び起こすものだというのなら。この上手く表現できない気持ちも覚えておきたい。
この香りが苦くて甘い今の気持ちに結びついて、また思い出せるように。
「どうかしたのかい?」
先輩は不思議そうにこちらを見たので「いえ、なんでも」と答えて目を逸らす。
——先輩が香水をつけ続ける気持ちが少しだけ理解できた気がした。
了
#ノート小説部3日執筆 香水の記憶
香水の記憶
その香りは死と結びついている。娘の死体を見た時、したのがその香りだった。
香りをあらわす言葉を私はあまり多く持ってはいないが、清楚な華のような香りだ。娘の部屋にはシンプルな香水瓶が残されていて、ああ、あの娘らしいなとしみじみ思ったものだ。いい子だったと思う。それなりに反抗期もあったが、優しくてかわいい子だった。そんな人並みな言葉しか出てこなくて、私はそっと恥ずかしく思った。
私が娘のなにを知っていたというのだろう。出かける時にはあの香水を少し手首につける、そんなことしか思い出せない。笑った顔も、怒った顔も、泣いている顔も、霧の向こうにかき消えてしまったかのようだ。写真を見てときどき思い出す彼女の声は、本当にそういう声だっただろうか、もう確信が持てなくなっている。
そんなとき、電車でその香りがした。隣の若い女の子からだった。その女の子は娘とは似ていなかったが、一瞬、娘を幻視した。女の子は私の様子を見て、奇妙そうにみじろぎをする。
「ごめんなさいね、あの……」
どう言えばいいのだろう。不快にさせるつもりはなかったのだが、死んだ娘の好んでいた香りだと言えば、もっと不愉快にさせるのではなかろうか。
「その香水……お好きなんですか?」
「え。あ、臭いとか……?」
私は慌てて手を振った。
「いえ! そうじゃなくて……娘、が好きだった香りなもので……。いい香り、ですよね」
私が蒸発して中身がほとんどなくなった香水瓶を見せると、彼女はちょっと不思議そうな顔になってから、ああ、と頷いた。
「わたしも好きなんです。母がつけていたので」
「そう……なんですね」
「この香りで思い出すんです。楽しかったり、優しかったり、そういう記憶を」
そうだ。私もこの香りで娘を思い出している。
「ええと、娘さん? にとっても大事な香りだったんでしょうね」
娘の死は一瞬のことで、痛くなかっただろうと医者は言っていた。それならいい。あの香水は、私にとって娘との楽しいお出かけの記憶だ。彼女にとってはどうだっただろうか。たぶん、娘にとってもいい記憶と結びついていたはずだ。あの香りに包まれて死んだのなら、たくさんのしあわせな記憶を思い出して逝けたのなら、きっと悪くない人生だった。そう思うと、急に涙が溢れてきた。
「ごめんなさい、ありがとうね。ありがとう……」
これは私の、しあわせな思い出の残り香だ。
#ノート小説部3日執筆 魔女の香水
魔女の香水
森と街のあいだに、その小屋はあった。近づくと、甘いような苦いような複雑な香りが漂ってくる。
それは魔女の家だった。魔女は黒いローブを着て、毎日森へと入る。花や果実、樹液をわけてもらうのだ。
街の人は、彼女を「香りの魔女」と呼んでいた。
さて、その魔女の小屋の扉を叩く音がした。今日の客は若い女性だ。目の下のくまがやけに目立つ。
「香りの魔女さん、ですよね」
「そうよばれていますね。ご用件は?」
「香りを作ってもらいたくて……」
「なるほど。まず、おはいりください」
魔女はにこにこと奥に通した。なかは古びていたが掃除が行き届いていて、ほこりひとつない。たくさんの蒸留釜や絞り器が並んでいた。どう使うのか女性にはさっぱりわからない。ただ、混ざり合った薬のような香りが鼻をくすぐった。
女性は勧められた椅子に座り、不安げに息をつく。
「はい、代金はパンと干し肉1週間分。何の香りをお望みで?」
「わたし、彼とケンカして……別れちゃったんです。やりなおせる香りをください!」
魔女は奥からたくさんの瓶を出してきた。大きいもの、小さいもの、多くは茶色で蓋がついていた。
「失礼ながら、妊娠はされてませんね」
「は、はい……」
「そうですか。なかには刺激の強い香りもありますので」
そう言って魔女がひとつの小瓶を女性に向ける。
「こっち、嗅いでみて。鼻をつけないで、あおぐようにしてくださいね」
女性が手であおいでみると、ふわっと強い香りがする。すっきりと爽やかな草の香り……ちょっと薬っぽいかも。
「嫌いじゃなかったら、これで作ります」
「嫌いでは……ないかな」
魔女はガラス管で中の液体を吸い、透明なコップに入れる。今度は違う瓶から少しとってそのコップへ。すっきりだが、少し苦味のある果実の香りが混じった。いくつかを合わせ、最後に少量ずつ入れたのは、ちょっとだけ甘くてスパイシーな木のような香りだった。アルコールと蒸留水を注いでよく混ぜる。
それを装飾のある瓶に詰めた魔女は、きゅっと蓋をして女性に渡した。
「この香水を彼に1滴振りかければ、きっとやりなおせますよ」
「1滴って……どうやって?」
「さあ? 私にできるのはやりなおせる香りを作るだけです。香りはあなたの背中を押すものですから」
彼女はドキドキとして彼の家の前に立つ。この香水を彼にかけなければならない。でも、どうやって?
「あ……!」
そうして声をかけられず待っていると、背後から声がかかった。彼だった。慌てて逃げようとするのと呼び止められる。
「あ……」
「待って! 待ってくれ!」
呼び止めたものの、男性は迷っている。女性のほうもどうしたらいいかわからない。
「ええと……これ、プレゼントなんだ」
男性の手には、女性の持つものと少し違う香水瓶があった。彼は自分の手に少し取ると、そっと彼女の手をとった。ふんわりとした優しい花の香りが、いらいらとしていた心を落ち着かせる。男性は深く呼吸をし、切り出した。
「ごめん。ぼくにも悪いところがあったのに……」
「わたしも、ごめんなさい。かっとなっちゃって……」
女性も自分の香水を1滴、二人の手に落とした。さわやかでちょっと苦い、甘い花のような香りで心が晴々としてくる。
「やっぱりあなたのことが好きよ」
「うん、ぼくも、君じゃなきゃだめみたいだ」
魔女は歌いながら2週間分のパンと干し肉の整理をする。
「おちついて話し合う香りはラベンダー、カモミール、ベルガモットにオレンジ、メリッサ……やりなおす香りはローズマリー、グレープフルーツにレモン、ゼラニウム、ジュニパーとサイプレスを少し。香りは背中を押すだけですよ。うまく使ってやってくださいな」
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