#ノート小説部3日執筆 お題『浴衣』
私にとって、浴衣というのは何も特別な衣装じゃなかった。何しろ、周りを見渡せば幾らでも見る事が出来たからだ。何しろ私の実家は、有名な温泉地にある旅館の一つだからだ。
家業を継ぐ必要こそ無かったものの、特に行楽シーズンともなれば是非もなしに手伝いをさせられた。特に県外からも見物客が訪れる花火大会の時には、まさに息つく暇もなかった。そういう訳なので、私からすれば浴衣は、自分が着ることより、人が着ているのを見る印象の方が圧倒的に強い。
だから進学の折に上京した時、初めて気づいた。
私は、祭りに行くための浴衣を持っていない。
そんな訳なので、友達と祭りに行った時、半袖のTシャツと膝ぐらいの丈のスカートというラフな格好だった私。
結果、すごく浮いた。私以外にあと三人、一緒に行くメンツがいたのだが、全員夏らしい、綺麗な浴衣を着ていた。うちの二人は『浴衣じゃないん?』って感じで一言触れただけだったが、一人だけ私の姿を認めた瞬間、明らかにがっかりしたような顔をした。
その娘は入学して最初に仲良くなった娘だった。入学式で隣に座ったというそれだけのきっかけだが、私達はよく行動を共にした。彼女はよく私の容姿を褒めてくれた。『歯並びが綺麗』とか、『髪の艶がいい』とか。褒められる事自体は悪い気はしないが、親にも特に褒められたことのない容姿をここまで良く言われるのは、むず痒いものがあった。
私達は四人で一通り祭りと花火を楽しんだ。彼女は表向きはいつも通りだったが、時々残念そうな目で私を見た。
帰りの電車で、その娘以外の二人が降りた後、思い切って私は訳を聞こうとしたが――
「浴衣、見たかったんだけどな」
彼女が小さく、しかし先手を打つように言った。私が思わず「浴衣?」と聞き返すと、彼女はコクリと頷いた。
「綺麗な黒い髪してるし、スラッとしてるから絶対似合うと思ったんだけど……」
「ん~~そうは言われてもなぁ……」
私は旅館の娘に生まれたせいで、逆に浴衣の事を重要視していなかった事を話した。すると彼女は、信じられないものを見るような眼で私を見た。
「そこに生まれたからこそ、むしろこだわりたくならないの?」
「私はそうならなかったなあ」
彼女は急に私の手を掴むと、有無を言わさぬとばかりの力強い眼を向けてきた。
「じゃあさ、ウチに来なよ。ウチ、呉服屋なんだよね」
「……え?」
思わぬ事態に、間抜けな声しか出なかった。
「浴衣は勿論、和服の力を侮っちゃあいけないよ。着る人が着ればそりゃあもう一つの芸術にすら昇華されるんだから」
どうやら私は地雷を踏んだらしい。
身近だからこそ特別じゃなかった私と、だからこそ特別な彼女。運命というものがあるなら、随分面白い事をするな、と他人事のように思った。
『祈りのかたち』 #ノート小説部3日執筆 お題:浴衣 #果ての地のうつくしい千年 スピンオフ 元ネタ絵あり(添付)
「リン。泰紀の衣装を調達してくれない?」
私が虚空に呼びかけると、漆黒の闇がじわりと染み出し、そこから不機嫌そうな女の声が響いてきました。
「愛し子は私を何だと思っているの?」
「もちろん、世界の半分を司る偉大な夜の大精霊だよね。」
「よく分かっているじゃない。
ただの便利屋だと思っていないなら構わないわ、できるわよ。
でも、どうして?」
「ほら、今度主神様と泰紀で捧げられた平穏の祈りを叶えに行くことになったでしょう。
主神様はお姿を変えない方が良いけれど、私は……
せっかくお祭りもあるというし……」
「いつもと違う格好であの子を歓ばせたいということね。」
「口に出したら主神様に丸聞こえじゃないか……」
私は無神経なリンの言葉で計画が半分台無しになったことにがっかりしつつ、
あの方に黙ってことを運ぶという仕業の難しさを改めて実感しました。
リンは暗闇の中で少し笑ったようでした。
「ま、分かったわ。
何でもいいならすぐに出せるけれど、お祭りに相応しい衣服となると……
ちょっと時間をもらえる?」
「どうして?」
「当然、流行りの意匠や腕の良い服屋なんかを調査して、最上のものを愛し子にプレゼントするためよ!」
そう、この精霊は本来イタズラ好きで、私をからかうのを至上の楽しみとしていて……
そんなリンに丸投げしてしまった自分の愚かさに、私はその時になってようやく気づいたのでした。
「リン! 主神様と一緒に歩いて恥ずかしくないやつでお願いね!」
あわてた私の追加注文は、消え去った闇の向こうに響いていくだけでした。
ということで、とても心配だったのですが。
「どう?
あの子と同じ秘色の衣に、光を表す金色の帯にしてみたわ。」
「リンが……まともだ……!?」
「あら、シースルーの黒もあるけれどそちらがご所望だったかしら?」
「とんでもないよ、これがいいよ、ありがとうね。」
母譲りの減らず口のせいで、リンとの会話はいつも綱渡りです。
悪癖であるとは自覚してはいるものの、なかなか。
早く体に見合った成熟した精神を持ちたいと願うばかりです。
「……その衣は浴衣と言って、模様にもそれぞれ意味があるんですって。
蝶は不死・不滅。
雲取は良き暮らし、輪廻転生。
エ霞は永遠。
流水は魔除け、清らかさ。」
「へぇ……ヒトはそうやって、モノにも祈りを込めるんだね。」
「健気なものよね。
というわけで私からも祈りを込めてみたのよ。」
「うつくしい色合いと模様だとは思うけれど……輪廻転生?」
「時が経てば、いずれ分かるわ。
精霊からの贈り物ですもの。」
「そっか。ありがとう……」
大精霊の祈り。
それはもしかすると、世界の命運に刻まれるレベルのまじないになるのかもしれません。
私も主神様と永遠に仲睦まじくありたいと願っているので、有難く袖を通すことにしました。
主神様との待ち合わせ場所は、祈りが捧げられた神宮という泰紀の聖地のそばの、人目につかない高台です。
泰紀は不思議な宗教を持ち、彼ら自身の本来の信仰と極北の私達への信仰を習合という形で同一視しています。
彼らの神は極北の私達の数よりずっと多いのだそうです。
そういう土地ですから、主神様も彼らの神に配慮し、神宮に直接転移するのは避けているようでした。
「お待たせ、ラインハルト。」
背後から声を掛けられ、私は微笑んで振り向きました。
「お先に着くことができて良かったです。」
主神様はいつもの秘色のビシュトに身を包み、蒼い宝玉を胸元に煌めかせていました。
「その装束は浴衣、だね。」
「はい、リンに用意してもらいました。
……主神様と同じ色を纏う不敬を、
このお祭りの間だけはお赦しください。」
「良いよ。美の神のお前によく似合っているし、
私のものだということが判りやすい。」
「光栄です。」
お祭りの雰囲気を、主神様も楽しまれているのでしょうか。
普段はおっしゃらないような嬉しい言葉を聞いて、私は頬が上気するのを感じました。
「さあ、楽しむ前に仕事をしてしまおうね。」
「はい。参りましょう。」
そうして私達は手を取り合い、ふわりと空に舞い上がりました。
泰紀の夜は賑やかで明るく、何の憂いも無いように見えます。
しかしこの国は今、疫病が広まり、死者を多く出している状況なのです。
その弔いとよりよい明日のために、彼らは敢えて祭を催しているのでした。
「ラインハルト、手伝いを頼むよ。
失われたとはいえ光の神名と死の諱(いみな)を持つお前なら、
私の真似もできるはずだ。」
『呼応。其は陰陽より出ずる時の精霊。集結。人為のそばにありて、生と死をあざなうもの。収斂。海一つ国一つ、求める者に求めるものを。執行せよ、〈生命断罪(デュラータ・バランシャ)/ララ〉』
主神様の詠唱に続いて私も同様に精霊魔法を発動させると、二つの魔力が束となって夜空を貫き、それから花のように開いて八天を満たしました。
「……この魔法は、厳密には人を救う魔法じゃない。
生きたい者には生を、死にたい者には死を与える魔法だ。」
「……では、今多くの魔力が消費されたように感じたのは……」
「うん。かなりの人数を、命の巡りに戻したね。」
平穏の祈りは一通りではありません。
病苦から解放されたいという思いから、いっそ死を望んでしまうヒトが、それほど多かったということなのでしょうか。
それとも私達は、本当は生きたかった者達まで……。
「お前は苦しまなくていいよ。
この方法を選んだのは私だ。
泰紀では元々今日……八月十五日に、死者の元へと願う者達の声が一番多くなる。
それに乗じて疫病が弱毒化するレベルにまでヒトを減らしてみたんだ。
どうやら遥か昔から……私達が生まれるよりもっと前、泰紀の人々が今の土地に居着き、民族として確立するより前からの慣わしだそうだ。
血の記憶というべきものかもしれない。」
「……それも、私達の仕事、ということですか。」
「そうだね。問題はないよ。
生を望む者の疫病は祈り通りに取り払われたし、
楽しい祭りに水を差すものでもない。」
それでも浮かない顔をしていた私の頭を撫でて、
主神様は淋しげな笑顔を向けてきました。
そう、私はこの方の御業を否定してはいけない。
この方の真の味方は私だけなのですから。
私はそれに思い至り、表情を戻して頷きました。
「さあ、ラインハルト。神の奇跡はこれで終わりだ。
お前のうつくしい姿を民に広めにいこう。」
ああ、と得心がいきました。
神である私の装束は、人々の祈りでできているのです。
彼らが目にするのは、蝶に流水、雲取、エ霞の模様。
不死・不滅。永遠。魔を祓う清らかさ、良き暮らし、そして輪廻転生……。
それは彼らの信仰のための模様なのでした。
であれば、私は極北に住まう神の一員として。
主神様のおそばに仕える者として。
この姿も最大限意味のあるものにいたしましょう。
あなたが統べゆく永遠のために。
#ノート小説部3日執筆 浴衣
浴衣
夏真っ盛り。夕方になってもまだむわっとしている。
盆も過ぎれば暑さもやわらぐとはいうが、本当だろうか。
ドンドンと太鼓が鳴り始めた。吊り下げられた提灯にも灯りがともる。
市民広場の盆踊り会場では、浴衣や甚平を着た人々が集まっていた。
その楽器の音とざわめきのなか、わたしはそれを聞いた。
「あら、左前じゃない!」
驚いてふりむくと、声の主は中年の女性だった。
そこにいた若い女の子の浴衣が気になったらしい。
女の子は白地に紺のかすり、帯はお太鼓結びで帯揚と帯締もしていた。
襦袢を重ねた胸元が、左前だった。
「お太鼓なんかしちゃって。浴衣はね、こんな帯しめたってダメよ」
「はあ、そうなんですか?」
女の子はわからないといった顔で首を傾げた。
たしかにこの気温で襦袢と足袋にお太鼓は暑そうだけど……。
中年の女性は得意げな顔で言う。
「そう、まともな服じゃないんだから」
「はあ……」
「お太鼓だってちゃんと上がってないから形がおかしいし」
「そうですか?」
「おはしょりも雑。丈も短いんじゃない?」
「うーん、そうですかねえ……」
女の子は自分の浴衣を見ておろおろしている。
「腰だって補正しないとみっともない!」
そうかもしれないけどとわたしは思い、次には口に出していた。
「い、いいじゃないですか。こなれていて素敵だと思います!」
確かにきっちりした着付けではないけど。
わたしから見ると、着かたが雑というよりこなれているように見える。
体の線に沿っていて、窮屈な、着せられている感がない。
「ね、もう始まるよ。あっちで踊ろ?」
わたしは彼女の手を引いて、盆踊りの輪に繰り出した。
おはやしの音に女性の声は聞こえない。
踊ってしまえば、だれも着方なんて気にやしないだろう。
「ただいまー」
帰ってくると、御年九十になるひいばあちゃんがまだ起きていた。
「楽しかったかい?」
「うん、楽しかった!」
わたしはおみやげのたこ焼きを出して、女の子と踊ったことを教えた。
気がついたらいなくなっていて、ちょっと寂しかったことも。
「あらそう。浴衣にお太鼓、おかあちゃんがしてたわねえ」
「そうなんだ」
「昔は野良着しかなかったから、浴衣といや上等なもんだったんだよ」
ひいばあちゃんはぼそっと呟いた。
「まあ、帰ってらしたんでしょうね」
#ノート小説部3日執筆 天ぷらがたべたいのじゃね……/お題「浴衣」
「家で浴衣ってのも悪くないんじゃない~?」
浴衣を着た。
蜻蛉の柄の浴衣を家で着た。
遠くから祭囃子が聞こえてくるが、外は灼熱の暑さだ。
疲れてしまうくらいなら、家で楽しみたい――
「ま、日が沈んでからでも、遅くないか」
と、菖蒲の柄の着物を着た彼女が笑う。
「今日はすごいよ~、君も期待しといて~!!」
と返して、昼からエアコンが効いた部屋の中、
リビングから聞こえてくる映画の音を尻目に準備をする。
「張り切り過ぎないでよ~」
という声が、後でどう変わるかが楽しみだ。
◇◆◇
まずは、茄子を半分にして端に切れ込みを入れ、塩で水を抜く。
カボチャは種とワタを取って厚切りに。
オクラは産毛とガクを取り、真ん中に包丁を入れる。
トウモロコシは身を削いで、薄力粉を加えて混ぜる。
大葉はそのまま、エビの仕事に取り掛かる。
尾の先端を軽く押さえて、背ワタを取り除く。
腹に浅く切れ目を入れて、まっすぐに伸ばし塩を振っておく。
食材が整ったところで、衣の準備に取り掛かる。
薄力粉は先によくふるいにかけ――
ボウルに冷たい水を注ぎ、薄力粉を少しずつ加えていく。
箸で軽く、そっとかき混ぜる。
グルテンができないように、注意する
ところどころに小さな粉の塊が残るくらいが望ましい。
衣が出来上がったところで、油の準備に取り掛かる。
年に数度の贅沢ということで綿実油と米油をブレンドして使う。
油だけで、幾らかかってしまったかは、秘密にしたい。
次の料理にも使えるから、今は全力で行こう。
兎も角、慎重に油の温度を180度まで上げる。
気が付くと、既に空は夕暮れを迎えていた。
映画のエンディングがゆっくりと――リビングを満たしている。
彼女は普段より少しだけアンニュイで、クールな表情を浮かべている。
「準備できた?」
「お待たせしました~」
「で、そのコンロの上に乗った油は、なに?」
「夏野菜のガチ天ぷら、オマケの海老天です~」
「ガチ……」 と――
少し呆れたような表情を浮かべた彼女を前に、天ぷらを本気で揚げていく。
まずは、エビから――
おまけから揚げていく。
尾を持って、衣に潜らせてそっと油の中へ。
油面に滑り込むように入れることで、衣が均一に広がる。
火力は一定を保ち、静かに真っ白な天ぷらが上がるのを待つ。
「白い」
「卵使ってないからね~」
海老天は、軽い雑談をしているうちにすぐに揚がってしまう。
和紙はないから網の上に乗せ、天つゆで頂いてもらう。
彼女が天ぷらを――
まるで宝石商が宝石をつかむような箸使いでつかみ口に運ぶ。
きっと「さくり――」という音と共に、
海老の旨味が口の中で踊っているのだろう。
内側がレアの状態で、旨味を凝縮させた天ぷらだ。
食材、油、揚げ時間、今回は全てに拘っている。
口を押えて目を白黒させる彼女を、見つめながら茄子を揚げていく。
「今まで、私が食べていた天ぷらとは何だったんだ……」
「天ぷら、なんじゃない~?」
「何が起きているのか、理解できないんだけど……」
「別に、油がいいだけだよ~」
茄子は薄く衣をまとわせ、長めに揚げる。
一口かじると、外は軽やかに食感――
中はとろりと柔らかい、食感になっている……はず。
次はカボチャでいこう。
じっくりと火を入れると、飛び切り甘くホクホクに仕上がる。
「酒」
「ん、冷やしておいたビールでいい~?」
「日本酒、開けていい?」
「もちろんいいよ~」
硝子のお猪口を取り出して、うやうやしく手を掲げた彼女の手に乗せる。
冷やしておいた冷酒を、とぽとぽと、注ぐ。
とぽ――
「揚がるまで、もうちょっと待ってね」
「ハイ、わかりました」
「そんなかしこまらなくてもいいからね」
「ハイ、わかりました」
彼女が自棄になって、ぐいと日本酒を飲む。
そうしていると、カボチャにも火が入る。
目の前で親の仇のように、一口齧る。
「むちゃうまい……」
「よかった~」
「その……ごめん、語彙力が、なくて……」
「美味しそうに見えてるからいいよ~」
どうやら、気に入ってもらえたみたい。
次はオクラでいこう。
そっとオクラを揚げる。
スタンダードに揚がったオクラは、見た目の緑も綺麗でいい。
衣のパリパリと、プチプチとしながらねばつく食感が楽しい。
トウモロコシはキッチンペーパーで成形して
キッチンペーパーごと揚げていく。
裏返すときキッチンペーパーを取って、カラッと揚げる。
一粒一粒が濃厚な甘さを放ち、風味がいい。
「あ、これ好きだ……」
口の中で、トウモロコシの身がはじける食感もいい。
彼女も気に入ったみたいで、良かった。
最後に大葉を衣につけて、そっとくぐらせる。
大葉の天ぷらは、その薄い葉が羽のように軽やかに揚がる。
ぱりっとした歯ざわりに、さわやかでほろ苦い大人の味。
差し出されるお猪口に、日本酒を注ぐ――
「美味しかった……」
「よかった~」
「そういえば、出されるから天ぷら、堪能しちゃってるけど……あんたの分は?」
「俺は今から屋台で食べるから~」
「そういえば、今からお祭り行くんだっけ……」
ま、ビールでも飲む――と、くっと伸びをした彼女を横目に、
今のうちに油の処理を、してしまうことにする。
外から聞こえる祭囃子の音が心を弾ませる。
彼女が、自棄になって飲み始めないうちに済ませてしまおう。
#ノート小説部3日執筆 「シンプルイズベスト」 お題:きゅうり
採れたてのきゅうりを薄く薄くスライスして、軽く塩もみする。
今はどうだかしらないが、昔は「きゅうりのスライスは薄ければ薄いほど素晴らしい」とされていたらしい。
刻んだディルを柔らかくしたバターに練り込んで、サンドイッチ用の耳が落とされた薄い食パンに塗りつける。
きゅうりから出た水分をしっかり拭き取って、味付け用の塩胡椒を振ったらディルバターを塗ったパンにたっぷりと重ね、もう1枚のパンで挟んでぎゅっと密着させる。
これを食べやすいサイズに切ればアフタヌーンティ定番のキューカンバーサンドイッチの完成だ。
最近のアフタヌーンティは季節の野菜や豪華な食材を使用した派手なサンドイッチを提供するところが多いようだが、僕の店マリーカでは古式ゆかしくシンプルなキューカンバー、スモークサーモンだけのサンドイッチを提供することにしている。
アフタヌーンティにはシンプルなキューカンバーサンドイッチこそが合う。
共に供されるケーキやスコーンにはない塩味、瑞々しさ、パリッとした歯ごたえ、そして──ハイカロリーなケーキやスコーンを食べる罪悪感を和らげてくれるヘルシーさ。
昔のイギリスではきゅうりは高級食材だったというから、きゅうりをたっぷりと楽しめるシンプルなキューカンバーサンドイッチこそが最上とされたのかもしれないが、アフタヌーンティを嗜んでいた貴婦人たちは体型維持のためにも低カロリーなきゅうりを求めたのではなかろうかと僕は時々思うのだ。
それはまぁ、僕自身火星で喫茶店を始めてから菓子の試食だなんだを繰り返すうちに腹回りが気になるようになってきたからなのだけど。
「ウルリッヒさんは、その……、歳の割には……シュッとしてる方だと思いますけど」
僕が腹の肉を撫でているのを見かねてか、ケーキの試食をしてくれている年若の友人がフォローしてくれたが、若さと細さを兼ね備えた存在に言われたところで何の慰めにもなりはしない。今そんなことより大事なのは。
「新作、どうかな」
「美味しいです。……クリームにもマスカット果汁入れてますか? それがマスカット感を増幅させててケーキ食べてるのにフルーツ食べてるみたいで、自分はすごく好きです……でも」
ケーキを絶賛してくれた友人はしかし、そこで一瞬言い淀んだ。
「でも?」
「……こういうリッチなケーキを食べてると、シンプルなきゅうりのサンドイッチが恋しくなりますね」
僕が水を向けると友人は少し恥ずかしそうにそう答えてくれたのだった。
「ふふ、音希さんもしかして結構お腹空かせて来てました?」
「あー……、徹夜で作業して、そのまま納品に来たんで……」
「じゃあ順序は前後しますが、キューカンバーサンドイッチとスコーンを持ってきましょう。アフタヌーンにはまだ少し早いですけど」
そうして僕は冒頭の通りキューカンバーサンドイッチを作って、温め直したスコーンにたっぷりのクロテッドクリームといちごジャムを添えて、僕のギャラリーの一角をいつも彩ってくれている友人に差し出したのだった。
おわり
#ノート小説部3日執筆 『今度のきゅうりはオフロードです。母より』
ここは死後の世界、地獄の繁華街の一つ。どこか江戸めいた古風な街。
大通りは今日も賑わっている。今流行りの話題はやはり、お盆の里帰りの話だ。
「マリちゃん『きゅうり』来た?アタシもう来たの!」
「いいなー!ウチもそろそろだと思うんだけど……」
きゅうり、というのは本物のきゅうりのことでもあるが、この時期はもっぱら精霊馬のことを指す。
きゅうりの馬が各々の家から迎えに来て、それに乗ってお盆帰りをするのだ。宗派や家柄によっては別な乗り物になったりするが、この地域の住民は基本的にきゅうりだ。
そんな話を横目に、蕎麦をすする少年がいた。客の中でひときわ小柄なので、つま先立ちで屋台にしがみつきながら飯を食っている。
「いいなぁ、ボクもきゅうり乗ってみたいです」
この少年小河原(おがわら)新太(あらた)は、享年若いが働き者なので、賽の河原ではなく地獄の仕事に回された一人だ。
ある年にある港町で死んだ子供は、なぜか異常な責任感と実力があった。なので揃って働かされている。児童労働は良くないと声が上がったが、地獄の中なので有耶無耶にされた。それに、本人たちも納得しているので問題ない。
「ウチのに乗せてやろっか?」
隣で食っていた少年、七逆(ななさか)誠(まこと)が言った。同じ年代に見えるが、死んだ年代が5年違う先輩だ。だが背伸びして蕎麦を食う様子は、ほぼ同年代と言っていい。
「こんど現世の友達と遊びに行くからさ、お前も一緒に行こうぜ」
文面だけ見れば、近所の悪ガキの誘いである。実際こいつはかなりの悪ガキだが。
「でもいいの?その友達さんびっくりしない?」
「着いたら別行動すりゃいいだろ」
「ひどぉい!」
――
さて所変わって、ここは三途の川沿いにある乗り場。各々の家からやって来たきゅうり馬たちが、乗る者を待っている。ちらほらナスや別な物もあるが。
「普通に車もいるんですね……?」
「アレは鳥海おじさん家のやつだな。地元がきゅうりじゃなくてミニカー飾るらしい」
そういう地方もある、という雑談をしながら、二人の亡者は人混みを分けてずいずい進んでいく。
乗り場の端の方までやってきて、誠は振り返って新太を見た。
「んで、これがウチの――今年も気合入ってんねぇ」
そこには、きゅうりとナスで出来た豪勢な車があった。輪切りでタイヤを作り、くり抜きや飾り切りで車体が作られている。内装まで丁寧に表現されていて、もはや芸術の域だ。
「……デカいですね?」
「まったく、母ちゃんの趣味はわからねぇや」
明らかに6人乗りの車体に、大きなタイヤ。車高が妙に高く、子供が乗るのには苦労しそうだ。
「ま、母ちゃんなら『男の胸と車は、デカけりゃデカいほどいい!』って言うわな」
すごい親なんだなと、新太はドン引きした。仕方ない。そんな親にして、この息子なのだろう。
「んで、こっちはオレのじいちゃん、運転手だよ。じぃじ、オレの友達なんだ。一緒に乗せるから」
「よ、よろしくお願いします」
じぃじと言われた存在は、人の形はしているが、ひどくおぼろげで顔も見えない。現世で覚えている人が少ないのだろう。
「若い時に死んだらしくてさ、母ちゃんも顔覚えてないらしンだわ。婆ちゃんはまだ現世だけど、だいぶ重めの痴呆らしいし……」
誠の一族も大変らしい。覚えている人が居ないというのは寂しいものだ。
そういう意味では、新太は既に消えていてもおかしくない。
両親は墓にお供えも何もせず、精霊馬だって出さない。これだけで忘れられているという証拠にはならないが、これが何年も続いているなら可能性としては充分だ。
誰かが定期的に思い出してくれているならありがたいが、新太本人に思い当たる人物がいない。
現世に行ってみて、見つかればいいのだが。
「さぁて、乗るぞ乗るぞぉ!今年はちゃんと、安全運転してくれっかな?」
後部座席に座った今更になって、新太は恐怖が湧いてきた。なにせ今から乗るのは、鬼を泣かせたクソガキが育った家の車だ。滲み出るヤバさが隠せない感じがある。
「アッあの、ボク休暇申請まだなんで……」
なんとか離れる口実を見つけようとしてみる。
「さっきオレのと一緒にやっといたよ」
すでに退路を断たれていた。新太は諦めのあまり笑顔になっている。
こうなったら腹を括るしかない。新太は頬を叩いて気合を入れた。久しぶりに現世に行くのを、多少無理やりでも楽しむしかない。
凝られた内装から、シートベルトを引き出して着ける。
「シートベルトよし、休暇申請よし、あとは行くだけだな!」
誠は助手席に座って、後ろを確認した。
「おっけー?」
「大丈夫、オーケーです!」
新太の返事を聞いてから、誠は運転席を見た。おぼろげだが、ちゃんと運転手はそこに居る。
「じゃ、じぃじ。カッ飛ばしてくれ!」
そう言い切る前に、運転手は思い切りアクセルを踏んだ。
「ぶぇ!?」
当然といえば当然だが、乗った3名はみなシートに押し付けられる。
そのまま進むにつれ、坂道のカーブをキレの強いハンドル捌きで突き進む。車内が左右に大きく揺れるのはもちろん、信号機手前で急減速し、一気に加速するので前後にも揺れる。
「キミのおじいちゃん、運転荒くない!?」
「そらそうよ。峠攻めきれなくて死んだからなぁじぃじは」
「“そうよ”じゃないだろ!」
本人を目の前にしてするべき会話ではないが、至極ごもっとも。肝心のじぃじ本人は何も言わないのも問題だが、単に声を覚えている者がもういないので話すことができないだけである。
しかしこれはまだ、ドタバタの里帰りの序章にすぎない。まだ始まったばかりなのだ。さて、どうなることやら。
「不穏なアオリ文つけないでくださいよぉ〜!――ぶぇ!?」 [参照]
#ノート小説部3日執筆 お題:きゅうり『きゅうりは偉大なり』※実話をもとした作品です
セルフチェーンのうどん屋に入ると、てんぷらにまぎれてきゅうりの一本漬けが並んでいた。
物珍しさからそれをチョイスし、冷たいうどんとともに席につく。
「こういうのできゅうりの一本漬けがあるの嬉しいよな」
「なんか夏って気がする」
さっそくきゅうりにかぶりつく。しゃくりとした食感と程よく漬けられており、口の中がさっぱりする。
「俺さ、きゅうりに絶大な信頼を寄せてんだよね」
ざるうどんを啜りながら、おもむろに久秀さんがそう切り出す。
「お前って俺の十代の頃の写真って見たことあったっけ?」
「ないけど」
あまり整合性のない話題に眉を顰める。久秀さんが脈絡のない話をすることは今に始まったことはないが、今回ばかりはよくわからない。
久秀さんはきゅうりをかじって、満足そうに頷いた。
「俺さ、今でこそ一八五センチあるけど、中学生……いや、高校二年生ぐらいまでは一六〇センチ代だったんだよ」
「は?」
危うくうどんを噴き出すところだった。なんとかそれを堪えて水で押し戻す。
「ホンマ?」
「ほんとほんと」
「それときゅうりって関係あるんか?」
「大有りだ」
よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりに久秀さんはきゅうりをさらに齧って笑ってみせた。
「高二の夏休みにじいちゃんのウチに遊びにいったんだけど、そこで毎日三食きゅうり食ってたら、あっという間に身長が伸びてさ。夏休み明けに、クラスの連中にビックリされたんだ」
「そんなことある? 一ヶ月で二〇センチ伸びたってこと?」
「そうなるなぁ」
と、当たり前のように言っているが、それが事実なのだとしたらすごいことなのではないだろうか。
あっという間にうどんときゅうりの一本漬けを平らげた久秀さんは、食後のお茶を汲んできてのんびりと啜っている。
「成長痛とかヤバくなかったん?」
「痛かったよ。制服のサイズも合わなくなったし」
高校二年生の夏という絶妙な時期に制服を買い替える。きっとご両親も困ったことだろう。しかも一八〇センチ代ともなれば制服だけでなく靴のサイズもそう簡単に見つからないはずだ。
「背が低いのがずっとコンプレックスだったからさ。身長伸びたのは嬉しかったな」
「そういう問題なんやろか」
絶対、きゅうりだけの力ではないだろう。アクティブな久秀さんのことだから、たくさんご飯を食べて寝て遊びまくったから、きっと身長も伸びたのだ。だとしても、たかが一ヶ月で二〇センチも伸びるのは、人間のとりわけ成長期の男子の神秘というやつだろう。
「だからさ、俺、風邪ひいたときとか、二日酔いのときとかはきゅうり食いまくってるんだ」
「初耳やけど」
そういえば、久秀さんの冷蔵庫の野菜室には必ずきゅうりが一本は入っていたような気がする。
「だから、ラスティもきゅうり食えよ。モロきゅうも美味いもんだぞ」
「いや、さすがに味付けしてないきゅうりは食えんわ」
オレがそう言うと、久秀さんは目を丸くする。そして、こちらをからかうように目を細めてみせた。
「モロきゅうって、モロきゅうりそのままじゃなくて、もろみ味噌をつけたきゅうり、っていうのは知ってる?」
「し……知っとるし!」
慌てて否定する。それぐらい知っている。決して、今初めて知ったというわけではない。断じて。
しかし、久秀さんは変わらずニヤニヤと笑っている。余計なことをいうと、またからかってくるのは目に見えているので、ごまかすように残っていたうどんときゅうりを食べきった。
店から出て久秀さんは背伸びをする。
こうしてみると、本当に久秀さんは背が高い。話をするときなどは、少し見上げないといけない、オレと七センチ違うのだから当たり前だ。
そんな久秀さんが学生の頃は背が低かった、なんて意外である。
ぐっと背伸びをしてもあと少しだけ届かない。
「なに?」
不思議そうに見つめてくる久秀さんに何でもないと首を振った。
「ところでさ、山手線の沿線にきゅうりバーみたいなのがあるんだけど、晩飯に行ってみない? 値段もお手頃だし、きゅうりの酒もあるんだよ」
「……どんだけ好きやねん」
どれだけ体にいいきゅうりも食べ過ぎはよくない。
それを言ったところで、このきゅうりに全幅の信頼を寄せている久秀さんが聞く耳は持たないのは分かり切っているので、大人しく彼に付き従うことにしたのだった。
お題〚 きゅうり 〛
えー、朝比奈胡月です
遂先刻、弟の輝から暑中見舞いが届きました
開けるじゃないですか
するとなんということでしょう
「 この量のきゅうりどうしろってんだよ ... !!!!!!! 」
数は多分200を超えているであろう、大量のキューカンバーが
入っているでは有りませんか()
« 兄貴仕事柄日中外にいる事が多いでしょ ? きゅうりって栄養も
あるし塩分も取れるんだって !!!! かっぱの如く食べてみて ~ !!! »
とご丁寧に手紙まで添えて 。
「 かっぱの如くって ... 此奴偶に頭おかしくなるんだよな ... 」
手紙を片手に段ボールの中に入っている大量のきゅうりを見つめる
「 近所の人に配る ... ? 否俺怖がられてるから渡そうとした瞬間
逃げられるわ ... 」
え ? なんで嫌われてんのかって ?
オーラが犯罪者だからだってよ(
俺これでも警察なんだけどな(
まあ口が悪いのは認めるよ(
「 ... 取り敢えず瑞希召喚するか ... 」
部が一緒の同僚である、夏目瑞希にLINEを送る
・
うっづきだよぉぉぉお !!!!! « なあ »
みずきにゃん ★ « 何 ~ ? »
うっづきだよぉぉぉお !!!!! « 今から俺の家来れるか ? »
みずきにゃん ★ « 今HAWAIだから無理 ★ »
うっづきだよぉぉぉお !!!!! « ✘ね »
・
「 ... どうしよ( 」
悲報
俺、瑞希以外に友達居ない(( #ノート小説部3日執筆
『兄という生き物』#ノート小説部3日執筆 お題:きゅうり #七神剣の森 現パロ時空
「アザレイ、バーニャカウダ作っといたけど食べる?」
時刻は夜七時半。高校から帰るなり中学生の妹サンリアに声を掛けられ、俺は面食らった。ばーにゃ、なんて?
「……何だ、それは?」
「ウソでしょ、今どきバーニャカウダ知らない十五歳がいるなんて……」
サンリアの大きな黒い目が見開かれる。全男子高校生が時流を掴んでいると思ったら大間違いなのだが。特に俺はクラスでも真面目な側で、家と高校と塾とジムを行き来するだけの、華やかな青春とは程遠い生活を送っているのだ。
「察するに、食べ物だな?」
「さすがに食べ物以外のもの食べる?って聞かないわよ。呆れた」
「……授業がハードだった上に部活で疲れてるんだ。頭まで血が回っていない」
「へえ、アザレイがそんな弱音を吐くなんてね! 今日は父さんも母さんもじーちゃんも帰るの遅いから、私と二人で晩御飯よ」
「なるほど……、それで作ってくれたのか」
「簡単なものしか作れないけどね」
「いや、十分だ。ありがとう」
軽くオレンジ色の頭を撫でて労うと、二つ年下の妹は少し照れたように目を逸らした。
「ど、どってことないわよ……それよりアザレイが食べられるかが心配だわ」
「……野菜か」
「兄貴の栄養バランスを憂慮した優しい妹の愛情ってヤツ」
「……努力はする……」
そこまで言われては、要らないと突っぱねられない。食べられる野菜もありますように、と俺は密かに祈った。
「ちょっと。きゅうりしか食べてないじゃない。人参は下茹でしてあるから柔らかいし臭くもないはずよ、食べなさいよ」
「オレンジ色は、お前の方が似合う」
「そういう話はしてないのよ!」
黒髪の俺とは全く異なる明るい髪色。元気で明るい妹にはよく似合っている。オレンジ色のものは何でも好きだ。ただひとつ、人参を除いて。
俺は頑なにきゅうりを手に取り、マヨネーズに漬けて食べていた。ディップソースとやらの土色をしたソースの方には手をつけていない。未知の味がしそうだからだ。
「あーあ。レオンはソースも野菜も全部美味しいって食べてくれたのになぁ……」
「……? 誰だそれは」
「カレンちゃんのお兄さんよ。アザレイと同い年、同じ学年。三月生まれだから向こうの方がちょっと年下?」
「そういうのは年下とは言わない」
カレン、というのは近所の女の子だ。サンリアのことを年の離れた姉のように慕い、小さい頃からよく家に遊びに来ていた。確か今は小学三年生だったか。
兄がいるというのは聞いたことがある。俺は小学校の頃から私立に通っていたから、近所の子供達とはほとんど付き合いが無い。同い年の男がいたと今更知っても、別に惜しいとも遊びたいとも思わなかった。
サンリアも俺と同じ私立だったが、こいつは公園や近所の遊び場のヌシだったから、驚くほど顔が広い。日本では目立つハンガリー由来の容姿も相まって、子供から大人まで、この辺りでサンリアを知らない人間は居ないんじゃないかと思うほどだ。
「レオンの家、最近カフェを始めたのよ。メニュー拡充頑張ってるから、私も料理を教わるついでにアイデアを出してるってワケ」
俺が食べない野菜を少しずつつまみながらサンリアが得意そうにわけを説明する。カフェは子どもの遊び場ではないのだが。
「人の邪魔をするな」
「何よ意地悪ー! あ、分かった嫉妬してるんでしょう!」
「……誰が、誰に?」
「アザレイが、私と仲良くしてるレオンに」
「なぜそうなる。妹が迷惑を掛けて申し訳ないと思っているだけだ」
「レオンはアザレイと違って好き嫌いしないし、料理が上手いし、カメラが得意なの。家の手伝いでカフェにいるけど、将来は写真家になるんですって」
「どうでもいい」
どうでもいいとは言ったものの、サンリアが特定の男についてそこまで詳しく描写することは今まで無かったように思う。俺はちょっと引っ掛かって、ゆっくりときゅうりを飲み込んでから尋ねた。
「……好きなのか」
「まさか、そんなわけないじゃない! アザレイと違って賢い高校にも行ってないし、顔も格好良くないし、運動ができるわけでもなさそうだし。優しいだけじゃダメよ、今どき」
「っふふ……」
途端に俺と比較されて扱き下ろされるレオン少年に少し同情しつつ、悪い気はしなかった。
ここらでひとつ、俺の方の弱点を更に削る努力をしておくか。
俺は人参スティックを一本手に取り、ホカホカのソースに漬けて齧ってみた。
やはりどうしようもなく人参の風味がする。
でもソースの香ばしく好ましいガーリックのような香りが、こちらに集中すれば美味しいぞと主張してきた。
何度かスプーンでソースを掛け直し、ようやく人参を一本やっつけることに成功した。
「……ソースは、美味いと思う」
「やればできるんじゃない。次、セロリね」
「……」
割に合わない。このペースでソースを消費していては、絶対に野菜が余る。俺は黙って再びきゅうりを手に取った。
「きゅうりばっかり食べてるとカッパになるわよ!」
サンリアが不満そうに顔をしかめる。俺は全く同じ顔を返した。
「ならん」
「なるもん。あ、ほら肌が緑色になってきた。頭にお皿乗せてあげるわね」
ひょい、と円い取り皿が頭の上に載せられた。危ない。大人がいたら絶対に叱られていたと思う。でも今日は二人だけだから、妹の悪ふざけも多少は大目に見ることにした。
「賢くて顔が格好良くて運動のできるカッパになったか?」
頭の上の皿を落とさないよう気をつけつつ、取り澄ました顔でさっきのサンリアの言葉をそのまま返してやる。
「うーん、意外と沙悟浄感出てびっくりしてる、今。髪型のせいかな……」
サンリアは自分の言葉を揶揄われたことは気にせず大真面目に考察していた。本心からの言葉だから別にいいということなのだろうか。こいつにブラコンの気は無いと思うが、たまによく分からなくなる。
沙悟浄。本来は西遊記に出てくる川の妖怪だったのが、日本ではカッパとして扱われているのだったか。
俺の中で沙悟浄のイメージはおかっぱ、長身、無口、冷静、残忍……。
「……それは褒められているのか?」
「カッパの中では最大級の褒め言葉だと思うわ」
「道理で全く嬉しくないわけだ」
茶番は終わり、の合図に頭の上の皿を取って、強敵セロリに取り掛かる。俺がセロリにディップソースをたっぷり載せたのを確認して、妹が満足そうに笑う。
「んふふ。唐揚げも買ってあるけど食べる?」
「肉があるなら最初から言え」
「そういうとこなのよ! もー! 馬鹿兄貴!」
テーブルの下で思いきり向こう脛を蹴っ飛ばされて俺は悶絶した。
#ノート小説部3日執筆 お題【きゅうり】
「好奇心を食ってるようなもの」
「……いや、大量すぎでしょ」
実家から届いた荷物を開け、段ボール箱を覗き込んで室賀が呟く。しゃがんでいる彼の上から、立ったまま同じようにして覗き込んでいる眞壁は無言だ。
中身は全て、キュウリだったのだから。
実家は土地があり、夏の時期は何かしら野菜が大量にとれるため、こうなることは予想していたが中身が全部キュウリの箱が来るとは思っていなかった。因みに差出人は兄の穂高で、キュウリに挟まれた白い紙には達筆な字で『眞壁一郎太に一食につき一本は与えてあげなさい』と書かれている。
書いたのは恐らくもう一人の兄、筑波だろう。
「……毎日3本食ったとて、そうそう減るものでもないだろ」
「……一本『は』って書いてるところからして、『それ以上食え』という意思表示は感じるなぁ」
「……限度ってもんを知らんのか、お前の兄たちは」
「……あー、なんていうか量が多ければ多いほど正義、みたいなところはあるし……高登谷家の人間は本当に加減というものを知らないんだよな……」
この大小さまざまなキュウリをどうやって消費しようかな、と考えながら、室賀はとりあえずお礼の電話を穂高にかけた。
「……兄上、夏の贈り物が無事に届いたよ、ありがとう。……ものすごく……たくさん…」
『……うむ、それについてはこちらも誤算が生じてその量になってしまってな……。眞壁一郎太にとりあえず食わせておけ、あいつどうせインスタントや外食と酒で生きてるようなものだろ』
「……うーん、否定できないね。だいぶ改善されたけど、仕事柄お付き合いは多いし」
『……ほう、室賀が改善してやったのか。つまりは奴のためにお前の貴重な時間を割き、忙しいのに手間をかけてやってるということだな、前言撤回、しばらくキュウリのみ食わせてろ』
ほんとに眞壁が関わると過激派になるな、この兄は、と思いながらも、なんで今回は異様にキュウリが多いのかを聞く。
『……誤算が生じたんだ……。筑波とゴールデンウィークに開催される苗まつりに行って、いつも通りに夏野菜の苗を買ったんだが……興味本位でキュウリの品種を変えたんだ。噂の……【どちゃくそ収穫できるキュウリ】を』
「……な、あの品種名がダイレクトすぎる【どちゃくそ収穫できるキュウリ】の苗を!?」
『品種名がストレートすぎるし、筑波ともどれくらいの量になるか見てみたいよなってことで』
「……で、こうなった、と」
『……うむ』
あの品種名に偽りはなかったですね兄上、と電話の向こうで筑波の声もする。どうやらキュウリを齧っているらしい。
好奇心で手を出したのが災いしたようだ。しかも試しに一つをその品種にしたわけではなく、半数以上を【どちゃくそ収穫できるキュウリ】に変えたという。本当に加減を知らない人たちだな、と室賀はため息をついた。
「……かなりモンスター級のサイズがいるけど」
『……それも仕方のないことだ、キュウリにはよくある、気が付いたらモンスターが生まれているアレだ』
しかも育たせすぎてキュウリのエリアがジャングルと化し、通常サイズでは見つけるのも困難らしい。
『因みに来週はシシトウとパプリカを送る予定だ。お前も好きだろう』
「そうそう、肉詰めとかするにもおれはピーマンより肉厚のパプリカの方が好きなんだよな。嬉しいよ、買うと意外に高いしね」
『楽しみにしていてくれ、なかなか出来がいいと筑波と自負しているところだ』
「ありがとう、兄上」
通話を終え、とりあえず箱からキュウリ一本取ると眞壁に差し出す。なんとなく電話の内容が聞こえていた眞壁は、無言でそのモンスターを受け取った。
次週、今度は段ボール箱いっぱいにパプリカが並べられ、隙間にはシシトウをこれでもかと詰められたものが届き、その加減のなさはわかってはいたがやはり目の前にすれば言葉を失うしかなかった。
#ノート小説部3日執筆 「きゅうり」友達 ⚠️野菜を蔑称として使ってます。暴力・いじめ描写あり
「セロリってさ、食べるエネルギーより、消化するエネルギーの方が大きいんだって」「それどこ情報」「Xでバズってた」「へ〜興味ね〜」
「じゃあ、セロリ食べ続ければ痩せるってこと?」「痩せるより餓死するんじゃね」「餓死したくね〜」「C組のあいつに食べさせてえ」「ユキ、とかいうやつ?」「そうそう、ぼけ〜とした女」「女ってアンタも女でしょ」「あいつ気に食わないんだよね、ちょっと可愛いからって男子み〜んなあいつのこと好きだしさあ」「そこまで言うなら、喋ったことあんの?」「ない。見ただけであわねえことわかってっから」「私、話したことあんよ」「どうだった」「予想通り、話してるこっちが疲れるような話し方してきてウザかった」「セロリみたいじゃん」「あいつのこと、これからセロリって呼ぶ?」「そうしよ〜」
その会話を聞きながら、弁当の彩りのために入れられたプチトマトを箸で潰した。
教室ででかい声で喋んじゃねえよ、と思ったが、上位カーストの人間に話しかけるだけで無駄だ。
ユキと呼ばれた彼女のことは知ってる。彼女とは1年の時クラスが一緒で、隣の席だったが、優しかった。確かにおっとりする喋り方だが、「ゆっくり話したほうが聞き取りやすいでしょ」とこっちのことを気遣ってくれた。私が休んだときも綺麗な字書かれたノートをコピーしてくれた。感謝してしてもしきれないと何か奢るよと言っても笑って断って「気持ちだけで十分だよ」と言ってくれた。彼女は頭もいいし、上位カーストにいるはずなのにそれに属することもなく、一生懸命勉強して、部活にも手を抜いてない。男子が好きなのは、その性格を知っているからだと思うが、外見でしか判断しないクソみたいな女子にはわからないのだろう。私的には、彼女の人生に一生関わってほしくないと思ってるから、このまま陰口であってくれと思う。優しい彼女は毒を浴びても無理に笑ってしまいそうな、儚さがあるから。
セロリなんか、お前らが食べればいいんだ。
私入っている美術部は幽霊部員が多い。私もその1人だ。コンクールとか出す勇気はない。デッサンだって狂っているし。それを良しとして、私は誰も使ってない教室で息を潜めてプールを見るのが趣味になっていた。
変態だと自分でも思っている。たまたまプールの近くを通ったとき、彼女の水面へ入る入射角が美しくてぼーっと見てた。
この使われてない教室で、プールを上から見たとき、彼女の泳ぎが美しくて、その泳ぎを書きたいと思って、ここで、スケッチブック片手に見てる。
「でも違うんだよなぁ」
近くで描けばいいけどなぁ無理。
「水って鉛筆でどう描けばいいんだ?」
スマホでどう検索しても出てくるのはプロの絵ばっかり息が漏れそうだ。
その瞬間、音が近づいてきた。口に手を当てて黙る。先生?と生徒の声だ。通り過ぎていって、ようやく息を吸えた。
あの上位カーストに見つかれば、嗤らわれることはわかる。夕日が差し込む中、私は、スケッチブックをカバンに突っ込んで、足音を消して、扉を開けるときは周りに人がいないように視線を動かして、誰もいないことを確認してから出る。もちろん扉を閉める音も最小限で。
誰にも見られてないと思った。
そう、誰にも見られていないと思っていたのだ。翌日まで。
「なあ、私たちに見せるもの、あんでしょ」
「は」
上位カーストの女子に声をかけられた。しかも朝一番。友達なんていないから、私に視線が集まるのが苦しい。
「ほら、見せろよ。お前のスケッチブック」
「え」
「え、じゃねえよ。見せろって言ってんだから見せるのが常識だろうが」
「そんなの知らないし」
「は?あんた、口答えする気? あの教室使ってることせんせーに言ってもいいけど」
「え、なんで」
「あんた、カーテンちゃんと閉めてなかったでしょ。そこから見えた」
「何、書いてんの?」
学校指定の鞄をギュッて握った。見られるわけにはいかない。下手な絵を笑われるだけだけだから。その鞄を無理矢理にでも剥がそうと力が込められ引っ張れる。それに抵抗しようとしっかり持っていると、パアンと音がなった。一瞬のことで何が起きたのか分からなかった。右頬がジンジンと熱を持って気がついた。叩かれたと。
「見せるまで殴るけど、それでもいいよね。あんたゴミだし」
恐怖のあまり力が抜けてたのだろう。鞄は引っ張られて、女子グループの手に渡ってた。
「やめて、やめて」
「誰がやめるかってーの」
「あった、これこれスケブ」
目の前でペラペラと捲られるスケッチブックを見て顔がカッと赤くなった。恥ずかしい。
「下手くそじゃん」
「何書いてんのかわかんな〜い」
「〇〇が書いた方が上手いんじゃない?」
「そうかも」
「下手くそのくせに絵なんて描いてんじゃねえよ」
にっこり笑って毒を吐く。朝食に食べた菓子パンが逆流して口から出そうになる。
バンッ、これもまた何が起こったのか分からなかった。スケッチブックで殴られた。
頭の痛みと共に私の大事なものが汚されたような気がして、あの子が侮辱されたような気がして、リーダー格の子の胸ぐらを掴む。
「何?」
冷えた目を向けられた。怖くて仕方なかった。仕返しをしようとしたところで、チャイムが鳴った。
腕を下げた。私を見て、リーダ格の女子は、私に耳打ちして言った。
「きゅうりってさ、栄養ないんだって。あんたみたい」
「そうか、私はきゅうりは好きだがな」
第三者の声が聞こえて、そちらを見る。担任の先生だ。睨みつけるような目で、こちらを見ている。
「〇〇、△△、⬜︎⬜︎ 、後で指導室に来なさい」
「は?」
「私たち何も悪いことしてないですけど!」
「他のクラスの生徒から無理矢理鞄を奪うために頬を打っていたのを見たという証言がある。他にもいる」
上位カーストの女子グループは絶望したような顔をした。
「鈴木は、保健室に行ってきなさい。頬が腫れている」
「……はい」
スケッチブックを鞄に入れてそのまま逃げるように保健室に行った。保健室では養護の先生がいたが、何も話すことなく。氷嚢を渡してくれた。
この様子だと、先生中に知られてるんだろうな、と思っても心は傷ついたままで嬉しくもない。
「横になっておきなさい。ひどい顔よ」
そう言って先生は室外に出て行った。
鞄の中に少しだけ折れたスケッチブックがある。
もう、あそこに行くのをやめよう。うん。
ベッドに行く気にもなれず、長い椅子に横たわって氷嚢を頬に当てる。心は晴れない。
ガラガラと誰かが入ってくる。起き上がる気もなくて、ぼーっと下を見ていたら、近づいてくるのがわかった。スカートを履いてるから女子かなと思っていたが、その子が私の目の前で止まったことで、私が邪魔なのかなと思った。
やっぱり先生の言うとおりにベッドに行けばよかった、そう思っているとその子がしゃがんで、私と目が合った。
ユキちゃんだ。そう思うと、横たわっていた体を起こして髪の毛を正した。
「大丈夫?」
「うん」
「鈴ちゃんは私の友達だから、助けたかったんだけど、先生に言うことしかできなかったや」
友達、友達!?
「私、きゅうりって言われたのに友達でいいの?」
「私、きゅうり大好きだよ」
#ノート小説部3日執筆 お題【きゅうり】 苦手意識と聖女の優しさ(ほんのりBL風味)
「え、ごめん。それ嫌いなの?」
きょとんとした顔でラウルに言われた俺は、気まずくなって目を逸らした。
テーブルにはサラダを初めとして昼食が並んでいる。そのサラダに問題があった。サラダには酢漬けが添えられている。苦手な食べ物を目にした俺は、思わず顔をしかめてしまった。
ラウルは小さな変化を見逃さない。俺の表情で色々と察しだのだろう。二十も過ぎた大人が好き嫌いをすることをからかってきたり、責めるようなことを言ってきたりもせず、彼はただ驚いてみせる。
「食べると体調悪くなったりとか?」
「いや、普通に酢の物が苦手なだけだ」
俺は酸っぱいもの――特に酢――が苦手だ。果実の酸っぱさはまだ良い。だが、あのツンとした香りのする酢は勘弁してほしい。どうにもあれだけは苦手だ。
近くに顔を寄せていないのに、ここまでそのツンとした香りが届くような気がする。口呼吸にしたから感じ取れるわけがないのだが、それでも。
「そっかあ。じゃあ、俺がもらうね。保存食とか平気そうだったし、こういうのも大丈夫だと思ってた。ごめんね」
「いや……酢のツンとした香りがなければ、多分食べられはする……と、思う」
「へぇ?」
ひょいひょい、と俺のサラダから酢漬けを取り除きながら、なるほどなあとラウルが呟く。
「俺、きゅうり好きなんだよ。で、こういうところだときゅうりみたいなものは用意できないし、こうして酢漬けにして遠征に持ってきてたんだけど」
「ラウルはこれが好きなのか?」
「ん? そ。俺はこれが好きなんだ」
「……」
ラウルがきゅうりの酢漬けを口に放り込んで微笑む。そのまま彼はきゅうりを咀嚼した。ぱり、ぽり、と軽やかな音が聞こえる。小さめのきゅうりだからだろうか。やけに可愛い音が俺の耳に届く。
目を細めておいしそうに食べる彼を見ていると、苦手だから食べたくないと言外に主張してしまったことを後悔する。気になる。匂いが嫌で、食べたことがないそれ(・・)を食べてみたくなった。
いや、しかし酢が使われている。その上、食べたくないと言ってしまったから、それを撤回するのは何となく嫌だ。優柔不断な態度はとりたくない、という気持ちが俺の中でぐるぐると回っている。
「……もしかして、食べたことがないのか?」
「よく分かったな」
俺の思考は全部彼に筒抜けなのだろうか。ぴたりと読み取られてしまう。否定するだけ無駄だし、否定する意味もないから肯定した。
ラウルは、少しだけ考えるそぶりを見せ、フォークに刺したきゅうりの酢漬けを俺に向けた。目と鼻の先に突き出してこないあたりに彼の気遣いを感じる。さすが、聖女は違う。
女神の代行者は、きっと心根まで綺麗なのだろう。
「これさ、俺のオリジナルレシピなんだよ。白ワインを酢にしたものを使ってるから、もしかしたらきみの嫌いな香りとは違うかも。ちょっと匂いだけでも嗅いでみる?」
小さく首を傾げながら聞かれ、俺は反射的に頷いた。俺の反応を見て、くすりと笑った彼はそっとそのフォークを俺に向けてきた。が、それはテーブルの中心くらいで動きを止める。
俺の自主性――というよりも、俺のタイミングで嗅ぐことを想定しているのだろう。無理強いしない、と言いたげな言動が俺の心をくすぐってくる。
相棒がこうして心を砕いてくれるのが嬉しい。俺はその気持ちに背中を押されるようにして、きゅうりの酢漬けに顔を近づけた。口呼吸をやめ、鼻で空気を吸う。
酸味を感じる香りはするが、俺が苦手とする強いツンとした刺激はなかった。酢漬けというだけで苦手意識はあるものの、拒絶反応を起こすほどではない。
そういえば、ザワークラウトは食べられるのだから、酸っぱい香りが単純に苦手というわけではないのかもしれない。
「……これは、大丈夫かもしれない」
「そっか。匂いが駄目って言うなら、俺が食べてるのも嫌かもなと思ったんだけど大丈夫そうでよかった。あ、食べたことがないなら食べてみる?」
俺の目の前できゅうりが揺れる。そのきゅうりの先には裏のない穏やかな笑み。優し気なラウルの目に引き寄せられるようにして、俺は目の前のきゅうりを噛んだ。ぱり、と軽い音を立てて俺の口の中にきゅうりの欠片が転がり落ちてくる。
覚悟を決めてそれを咀嚼した。
爽やかな香りが口内に広がった。酸味はあるが、まろやかさのあるそれは嫌ではなかった。白ワインのような芳香のなごりを感じる。
「白ワインを使って作る酢が好きなんだ。好きなものと好きなものをかけ合わせた食べ物だから、これは大好物」
「……悪くは、ない」
この酢漬けならば、食べられそうだ。俺は口に含んだ分をしっかりと飲み込んでから答えた。好きか嫌いか、で言えばきっと好きだ。
「そっか。じゃあ、食べたい気分になったら俺のところから取っていっていいよ。元々はきみの為に用意した分だし」
俺の中途半端な回答から、積極的に食べたいものかどうか測りかねていることを察したのだろう。彼はそう言うとフォークに残ったきゅうりを自分の口に放り込んだ。
軽やかな音が、テーブルの向こうから聞こえてくる。思わず「食べられてしまった」と、考えてしまった。俺のものだとはっきりと思っていたわけではないが、食べかけだったものを奪われた気分になる。
「ん? あ、ごめん。勝手に食べちゃった」
「いや、別にかまわない。せっかくだから、一本返してもらおう」
「ん」
悪びれもなく笑う彼に何となく居心地の悪さを覚えた俺は、その気持ちを誤魔化すように彼の皿から酢漬けを取り返す。
フォークで刺したそれを口に運びながら、そういえばさっきのは間接キスだったなと子供っぽい感想を抱く。いや、あれは間接キスと言うには程遠い。食べ物を好き嫌いする子供に「一口だけでも食べてみなさい」と諭す親がする行動そのものだ。
年齢差を突きつけられた気持ちになって、それはそれで微妙な気分になる。
変なことを考えてしまった自分に馬鹿馬鹿しさすら覚えた。
「ラウル」
「ん?」
「……今度は、普通に食べる」
「そっか」
ラウルは「偉い」とも何も言わず、ただ俺の発言を受け入れた。それに心地よさを感じつつ、もう一本彼の皿から酢漬けを奪い返した。その様子を見た彼が、驚いたように目を見開く。
そのまま目をぱちくりとさせ、破顔する。ああ、好きだな。と、この平穏な時間に対する感情を抱いた。
この平穏は束の間だ。もうすぐにでも、また戦いの時間が始まるだろう。だが、こういった時間があるからこそ、戦い続けることができるし、この平穏が永遠と続くような時代を取り戻す為に頑張ろうという気持ちにもなる。
ラウルにつられるようにして俺も小さく笑み、メインディッシュに手を伸ばす。それは、次の戦いに向けての準備の始まりだった。
#おっさん聖女 #おっさん聖女の婚約
『自由は青臭く、それでいてみずみずしい』 #ノート小説部3日執筆 お題「きゅうり」
『今年最高となる四十一度を記録し――』
何のために置いたかも覚えていないテレビからげんなりするようなニュースばかりが流れてくる。酷い暑さ、酷暑。言い得て妙だ。
これだけ暑いと、夏野菜と呼ばれる連中も苦労するだろうな。なぜか野菜に同情を抱いてしまう。お前たちも大変だな、頑張って乗り切ろうぜ、なんて。連中がこの暑さを乗り切ったとして、行く末は人間の食卓だろうに。
コンビニで買った千切りキャベツを咀嚼し、私の思考は虚空を泳ぐ。辛い現実を忘れるように、懐かしい過去に逃れるように。
あれは十数年前、まだ秋と呼ばれる季節が立派に存在していた頃のこと。当時小学生だった私は、校外学習の一環として障害者支援施設へ向かっていた。いわゆる職場体験である。
清々しい青空に穏やかな気候、それでも私の気分は晴れなかった。クラスメイトの言葉が胸の内で渦巻いていたからだ。
「そこ選んだんだ、偉いねー」
彼女からすれば何気ない台詞、むしろ褒め言葉だったのかもしれない。だが、言われた当人たる私からすれば侮辱以外の何物でもなかった。私に対しても、この施設に対しても。無知ゆえの偏見が人を傷つけるなんて、彼女は考えもしないだろうが。
何が「偉いね」だ、外れクジのように扱いやがって。内心口汚く罵りながらアスファルトを踏みつけていると、気づけば施設の正門前に到着していた。見知らぬ職員が歓迎するように笑いかけてくれる。
施設を案内されていると、すれ違った職員の一人が会釈してきた。あの人には覚えがある。姉が通っている特別支援学校の先生だったはずだ。
「○○さん、知り合いですか?」
「あ、はい。多分姉のことを知ってるんだと思います」
施設利用者との顔合わせを終え、案内してくれた職員が先ほどのやり取りについて尋ねてきた。わかっていた、仕方ないこととはいえ、また姉の話か。ひっそりとため息を一つ。ここで姉の障害をとやかく言われることはないだろうが。
姉の事情をざっと話していると、利用者たちのミーティングが終わった。ここからが職場体験本番だ、失礼がないようにしなければ。
私が体験するのは、朝の運動と農作業のようだ。……え、農作業? 自分の目が点になったような気がした。
そうこうしていると軍手を渡され、施設の外へ出るよう指示される。まさか屋外作業があるとは思わなかった。室内作業ばかりで、運動もストレッチ程度だと思って、油断、そう油断していたのだ。運動嫌いには過酷すぎる。
あれよあれよとクワを持たされ、私は言われるがままに土を耕す。うわ、腰に来るなこれ。明日は体育があるのに。心の中だけでぶつぶつ文句を垂れる。
ただひたすら土と格闘していると、遠くで歓声が聞こえた。思わず手を止めて顔を上げる。視線の先で、男の人がきゅうりを手にしていた。
「……きゅうりって、夏野菜じゃないの」
「最近はこの時期まで収穫できるんですよ。そろそろ終わりですけどねぇ」
独り言に返事が来て驚く。姉のことを知っているであろう職員が、私に微笑んだ。
「大変でしょう、畑仕事」
「あ、いや……」
肯定も否定もできず、曖昧に誤魔化す。しかし目の前の大人にはわかってしまったようで、小さく吹き出された。
「意地の悪い聞き方をしてしまいましたね。涼しくなったとはいえ、これだけ動くと暑いはずです。水分補給はしてますか?」
「はい。ちょくちょく水を飲むように言ってくれるので」
近くに置いた水筒を示す。職員は「そうですか、よかった」と頷き、続けて私に手を出すよう言った。
「お裾分けです。美味しいですよ」
「……これ、さっき収穫してたきゅうりじゃ……」
「いいからいいから」
流されるままにきゅうりを受け取ったものの、どうしていいかわからない。視線をうろうろさせていると、職員は「美味しいですよ」と念を押すように言った。……食べろ、ということだろうか。
口元に運び、相手を窺う。彼は微笑みながら頷き、豪快にかぶりつくような仕草をした。それを真似して一口かじる。確かに「美味しい」と自信を持つだけはあるのだろう。そんな味がした。
「たまには誰の目も気にしない時間が必要ですよ。なんて、元教師が言う台詞じゃないですが」
しゃく、口の中で音を立てたのは空想のきゅうりではなく現実のキャベツだった。ここは爽やかな秋の農園ではなく、酷暑に抗うべくエアコンを効かせたアパートの一室。この家には両親も姉もいない。私は一人で、自由だ。
あの人が何を思って私にきゅうりを勧めたのか、今となっては知る由もない。だが、当時の私は確かに救われた。姉の付属品ではなく「私」を見てくれたのだと、そう思えたのだ。それでいい、それ以外に理由なんて必要ない。
今日はきゅうりを買ってこよう。あと酒も。この自由を祝して。
『ピクルスをつまんで』 #ノート小説部3日執筆 お題「きゅうり」 #みづいの スピンオフ
「ハンバーガーにピクルスっている?」
葵の一言によって、私たちの間にピシリと亀裂が入った。……正確には、葵と麻里奈(まりな)の間に。
「えーっ、ピクルスは絶対必要だよ! ピクルスの入ってないハンバーガーなんてありえない!」
「なくても美味しい、というかない方が美味しいですって。きっと那津(なつ)も要もそう言うはず――」
「帰っていいか」
「要、ちゃんと話聞いてよ!」
麻里奈と葵が言い合う中、要は我関せずと水を流し込んでいた。心底興味がなさそうだ。私は小さく苦笑する。今までの経験で、この後の展開が予想できたから。
「那津はどう思う? やっぱりピクルス必要だよねっ?」
「いーや、那津は絶対オレと同じ意見ですよ。ね?」
「あ、あはは……」
ほら、やっぱりこうなった。どちらに味方するとも言えず、私は曖昧に笑う。意見がないわけでも、二人に遠慮しているわけでもない。ただ、上手く説明できる気がしないだけだ。
だって、今までピクルスの存在を意識したことなんてない。あってもなくても気にしないなんて、今この二人に明かしたらどうなることやら。
「心底どうでもいい論争に俺たちを巻き込むな。那津もそう言えばいい」
「えっと……はい。要の言う通りです……」
要に促され、私はこくりと頷く。正直どちらでもいい、と暗に告げると、葵と麻里奈はがくりと肩を落としていた。
懐かしいな。どこか感傷的な気分になりながら、私は保存瓶に野菜を詰め込む。上からピクルス液を流し入れている間も、脳裏には駅前のファストフード店があった。
同級生の私と葵と要、それに一年先輩の麻里奈。高校時代を共に過ごした私たちの思い出は無数にある。文化祭でのバンドパフォーマンスなんかがその最たる例だろう。それでも、私が「四人で過ごした思い出」として浮かぶのは――あの日のファストフード店、そこで交わした他愛ないやり取りなのだ。
「よしっ」
ガラス瓶の蓋を閉め、冷蔵庫を開く。庫内へしまうついでに同じ形の瓶を取り出し、液に浸かる色鮮やかな野菜たちを眺める。
高校卒業後、私は何気なく常備菜作りに手を出し――そして見事にハマった。家族や親戚から特に好評だったのがピクルスで、私が「得意だ」と胸を張って言える唯一の料理……ということにしてほしい。ピクルスを料理と断言できるかはさておき。
今日は麻里奈の家で小さなパーティーという名の飲み会がある。各自手料理を持ち込むことになっていたが、料理に自信のない私が持って行けるのはピクルスしかない。カラフルな見た目で映えるし、許してもらおう。
そんなわけで、ピクルスとおつまみチーズ――詫びの品だ――を持った私は麻里奈の自宅を訪れた。テーブルにはフライドポテトや魚のフライなど、揚げ物ばかりが並んでいる。見事に茶色一色。
「ふふんっ、どーだ! あたしの料理スキルも大したものでしょ?」
「確かにすごいけど……揚げ物ばっかりだね。野菜は?」
「那津と要が持ってくると思ったからナシ!」
私と要に期待しすぎではないだろうか。私だってピクルスしか持ってきてないのに。入っている野菜もパプリカにきゅうり、にんじん……くらいだ。
しかし麻里奈は気にしていないようで、瓶を渡した途端「やっぱりね」と笑った。あたしの予想は正しかったでしょ、と。
「しかもピクルスだし。あたしピクルス好きなんだよねぇ」
「ふふ、知ってる。ハンバーガーにはピクルスが入ってないと許せないんでしょ」
「あっ覚えられてる。葵くんは反対派だったよね、懐かしいなぁ」
思い出話に花を咲かせながら盛り付け飾り付け、葵と要を待つ。二人が生活する寮はここから少し離れているから、到着までにはもう少しかかるだろう。
味見と称してピクルスをかじる。きゅうりの青臭さは酢の酸味でほどよく中和され、後からわずかに唐辛子の刺激を感じた。……うん、美味しい。
「とうちゃーくっ! お酒とジュース、どっちも買ってきましたよー!」
「買ったのは俺だ。自分の手柄にするな」
両手にレジ袋を提げた二人がやって来た。私たちは笑顔で出迎える。
気づけば私たちは大人になっていて、それぞれを取り巻く環境が変わっていた。それでも、私たちはいつまでもピクルスの話で笑い合えるだろう。先のことはわからずとも、そう信じたい。
#ノート小説部3日執筆 お題「きゅうり」
じわじわと蝉時雨が降り注ぐ田舎道を歩く。
山間部だからと涼しさを期待した自分の予想は見事に裏切られ、油蝉の声すら温度を持って肌に突き刺さるような暑さだ。
お盆だから帰ってこいと連絡が来た時は、都会でコンクリの照り返しに焼かれるより良いと喜んだものの。
山の中の実家は標高が高いせいか、より太陽に近くて暑い気すらする。
散歩に出たはいいが、完全に失敗だった。だらだらと歩く若者を見かねたのか畑仕事をしている近所のおじさんからビニール袋を渡された。
開けてみると10本ほどのきゅうり。
「水分代わりに食べな!」
田舎特有の唐突な貰い物に苦笑をしつつもお礼をいって受け取る。
折角ならばと子供の頃遊んだ近くの川を目指す。冷たい水で冷やせば、なお旨いはずだ。
そうして辿り着いた川の水に手を伸ばすと、流れる水が汗ばんだ指先を冷やしてくれる。
よっこいしょと石に座り、足を川に浸ける。袋に入ったきゅうりも手近な場所で水に浸け、その辺の石を重しに固定する。
子どもの頃、川で遊ぶとき河童に川へ引っ張られないよう気をつけろ、と言われたのを思い出す。この川の上流にも神社があり、何を祀っているのかよく知らないが、恐らく水に関わる神様なんだろう。
そうして、しばらく川を眺めながらきゅうりを一本取りだして齧る。まだぬるい。
そういえば、きゅうりは元々水の神様に供えるもので、それが転じて河童の好物になったと、そんなことを聞いた覚えもある。
——さらさらと川は流れている。
すこし離れたところで小学生くらいだろうか。少年たちが川遊びをする声が響いている。
ちょうどあの子たちの年齢くらいの時に、自分がこの川で溺れかけたことを思い出した。
泳いでいたら急に沈んだのをちょうど近くにいた大人が助けてくれたようで、大事には至らなかった。
自分ではよく覚えはてはいないのだが、水底へ引っ張られる感覚とざらざらとした手に抱えられる感覚だけが残っている。
不思議なことに、近所の誰も助けたとは名乗り出なかったという。一緒にいた子も知らない大人が助けた、と言っていた。
父は冗談まじりに川の神様のおかげかもな、と笑っていた。
川沿いの涼しい風が程よく体を冷やしていく。さぁさぁと響く水の音も、先程までの茹だるような暑さを少しずつ遠ざけてくれる気がした。
「こんにちは」
ふと、声をかけられて横を見る。
いつの間にか人が立っていた。キャップを目深に被り、日焼け対策だろうか、長袖のTシャツ。
どうも、と顔を見上げてぎょっとした。顔の半分ほどの黒い嘴がある。
一瞬身構えたが、よくよく見れば中心が山型になっている不織布の黒いマスクだ。”立体型”というのだろうか。
河童のことなど考えていたからか、と苦笑する。
そんな驚きを知ってか知らずか、相手は川を見ながら続ける。
「きゅうりですか、いいですね、涼しげだ」
マスク越しのこもったような声が響く。
良ければどうぞ、と一本差し出す。少し驚いたような間のあと、ありがとうございます、とその人は手袋をした手でおずおず受け取る。
少年たちは相変わらず甲高い声をあげながら楽しそうに遊んでいる。
「子供たちは元気ですね、私も混ざりたいくらいだ」
ふと、川の真ん中に木の枝のようなものが浮いているのを見つける。
しかし何かおかしい。
何か引っかかっているのかその場所にずっと浮いている。
大きくないとはいえ流れのある川だ。不自然に思い目を凝らすと、先が不自然に分かれている。まるで、人間の手のように。
——いや、間違いなくそれは人の腕だった。
肘から先だけが流れの真ん中に静かに浮いている。流れに揺れることもなく、ただ浮いているのだ。
幽霊?妖怪?分からないが、少なくとも気持ちの悪い悪寒を感じる。
そのうち、少年たちの遊んでいたボールが向こう岸の方へと飛んだ。
一人が取りに行こうと泳ぎだして腕の近くを通る。
「あっ」
私が身構えて声を出したのと同時に。
——とぷん、と水音がして少年が沈んだ。
咄嗟に川へ入る。ほぼ同時に隣にいた人もざぶんと水に浸かって泳ぎだす。しかし速い。水かきでもあるのかと思うほどの速さに置いて行かれてしまう。
このまま行って自分まで溺れたらまずいのでは、と一旦止まる。しかしさっきの腕のせいだとしたら、助けに行った人も危ないのではないか。
そう逡巡する間に見知らぬ人は少年が沈んだ辺りまでたどり着く。
そうして、どぷん。と水中に消える。
——まずい。
一緒に溺れたか、と自分も泳ぎだすが、辿り着く前に子どもを抱えたその人が水中から顔を出し、こちらへゆっくり泳いできた。
「たのみます」
くぐもった声に小さく頷く。急いでいたからかもしれないが、マスクをしたままよく泳げるものだ。
げほげほと咳込む少年を受け取る。呼吸もありそうだ。少し安心すると出来る限り急いで川岸まで泳いでいく。
岸までたどり着いたところで、あれ、と思い川を振り返ると、さっきの人は反対側へボールを拾いに泳いで行くところだった。
ボールをこちらへ力いっぱい投げる。
ぽーん、と軽々こちら岸まで届いたボールを見届けると、そのまま向こう岸へ上がり藪の中を上っていった。確かにもう一度泳ぐより遠回りして地上を来る方が安全だ。そう合点して視線を切る。
119番へ連絡し、救急車が来るまでの間に少年を介抱する。
意識もあるし大丈夫そうだとほっと一息ついた時、川べりに胡瓜が一本落ちている事に気づいた。そしてそのそばには黒いマスク。
ああ、さっきの人が咄嗟に落としたのか。と納得したものの、そういえばその本人が帰ってこない。
どこに行ったのか、と対岸を見てはっとする。
向こう側の藪の奥は流れによって削られた崖で、登れるような場所ではない。では、何で向こう岸に上がったのか。
そして、ここにマスクがあるという事は、川の中でみたマスクをつけていると思った顔は。
*
次の日も同じように暑い日だった。途中でわざわざ貰いに行ったきゅうりを抱えて川へ歩く。
川につくと、昨日座った石の辺りから川を見渡す。人の腕は浮かんでいない。結局あれが何だったのかは分からないが、きっといいものではなかったのだろう。
「お盆も近いしな」
助けてくれた人も一体なんだったのか、そもそも人かも分からない。
河童か、水神か、それともただの通りがかりの人か。
でも、なんにしても神様の巡り合わせ、という事にしておこう。
昨日と同じ場所にきゅうりを袋ごと水に浸けて、重し代わりの石で抑える。一息ついてからゆっくりとその場から歩き始めた。
ざあ、と風が川辺の涼しさを運んで抜けていく。心地よさを感じながら帰り道を目指した。
そうして道路に出るころ。川の方でぱきり、と瓜の割れる音が響いた気がした。
了
#ノート小説部3日執筆 お題:【きゅうり】
※全国のキュウリ農家のみなさま、ありがとうございます。
------
『無益と無味』
「――無益だ」
夕暮れ時の喫茶店で、向かいの席に座る吸血鬼がそう呟いた。何の前触れもなく放たれた言葉に少々面食らいはしたが、このひとが突拍子もない話を始めるのはそう珍しいことではない。落ち着いて、温かい紅茶を一口飲んでから訊ねる。
「何がだ? まさか友人と過ごす時間が無益だなんて、そんな寂しいことを言ってくれるわけじゃないだろうな」
「無論、そうじゃない。僕と、この食べ物のことだ」
そう言って彼は手に持ったサンドウィッチを示した。ふんわりとしたパンの間に、瑞々しいキュウリがたっぷり挟まっている喫茶店の定番メニューである。吸血鬼には人間同様の食事は必要無いが、人間社会に溶け込むため、あるいは自身の娯楽の一環として、血液以外を摂ることもある。
「胡瓜(フーグァ)はほとんどが水分で、重要な栄養素は少ない」
「胡瓜――キュウリのことか?」
時々、彼は聞いたことの無い言葉を口にする。彼の生まれ――と表現するのが正しいのかは分からないが――である、東の方の国の言葉らしい。
「そうだ。とにかく胡……キュウリは生き物の生存には必要の無い食べ物といえるだろう」
しげしげとサンドイッチを見つめて、彼は更に自問自答のように語る。
「それを、吸血鬼(ぼく)が食べている。これほど無益に無益を重ねることがあるだろうか」
おそらく、サンドウィッチを食べながらそのようなことを考えるのはこのひとくらい――あるいは吸血鬼は皆そのように考えるのかもしれないが――だろう。家で退屈そうにしていたので気晴らしに外出に誘ったのだが、気が晴れているか分からない小難しい話が始まってしまった。どうしたものかと思いながら、そのサンドイッチを一切れ皿から取り頬張った。口の中に独特の香りが広がり、ぱり、と小気味良い音を立てる。その食感からキュウリの鮮度が高いこと、そして提供する店が食材の選定に心を砕いているだろうことが窺えた。
「ん、うまい」
自然と零れた感想に、吸血鬼が反応する。
「ほう、美味い? 君が考えるキュウリの良さとは、一体どんなところだ?」
キュウリの、良さ――? これまでの人生においてそんなことは考えたことが無い。好きか嫌いかは、個人の好みだから答えることができる。しかし、客観的にその良さが何かと尋ねられるのは、少々困った。キュウリはキュウリである。急に振られた難題に顔が強ばるが、答えないわけにもいくまい。孤立無援の、キュウリの名誉はここで守らねばならないだろう。そんな謎の使命感に駆られながら、懸命に頭を働かせる。
「そうだな……まず食感が良いかな。それから、生のままでも食べられること。水分が多いってことは腹の足しにもなるし、別に栄養も全くないってわけじゃないだろ」
なんということだ。こんなにも陳腐な言葉しか出てこないとは。思いつく限りの言葉でキュウリを褒め称えるが、力不足を感じざるを得なかった。とにかく、人間も単に栄養を補給するためだけに食事をしているわけではない――そう説明すると、吸血鬼はなるほどと頷いて、神妙な顔でもう一口それを口に運んだ。ピークの時間を過ぎた喫茶店は人もまばらで、隅で静かに語らう二人組を注視する人はいない。遠慮なく牙の生えた口を開いてサンドウィッチを頬張り、ぽりぽりと小気味良い音を立てて咀嚼し、味わい、飲み込んで――彼は目を伏せた。
「……味が、しない……」
「キュウリ農家に怒られるぞ……」
今日の知見――どうやら吸血鬼ロクスブルギーは、キュウリがあまり好きではないらしい。
#ノート小説部3日執筆 きゅうりを食べながら話すにゃんぷっぷーとオタくん(ラノベ編集者)の話です
※https://misskey.io/clips/9u02fdzcl34s05j4 に置いてある、ノート小説部3日執筆で書いた話と、一次創作『子々孫々まで祟りたい』の現在の展開を踏まえた話ですが、知らなくてもまあ読めると思います
オタくんと二人できゅうりスティックを食べてるにゃ。ポリポリの食感に、味噌マヨのコクがとっても合うにゃ。
オタくんは、せっかくの日曜チートデイなのにあんまり元気ないにゃ。ていうか、最近ずっと元気ないにゃ。にゃぷをなでるときだけは笑ってくれるけど……。
そんなオタくんが言ったにゃ。
「きゅうりってさ、夏に食べるのにすごくいい食材なんだってさ」
「そうにゃ?」
「……五性寒、五味甘、清熱、生津、止渇、利水、解毒」
「ぷにゃにゃにゃ?」
オタくんがよくわからないことを言い出したから、にゃぷはびっくりしたにゃ。
「何言ってるのか、全然わからないにゃ!」
「うん、薬膳の専門用語だからね……簡単に言うと、体を冷やして、喉の渇きを止めて、口とかを潤して、でも余計な水や老廃物は出すってこと」
オタくんは苦笑した。
「なんだかすごくいい野菜にゃ!」
「そう、暑い夏にいいの。それでね……」
オタくんの顔が暗くなったにゃ。
「幼馴染にね……そういう、漢方とか薬膳とかに詳しい人がいて。今、担当してる作家さんの制作協力で、今みたいな知識を融通してくれてるんだけど」
「ぷにゃ」
「その幼馴染がね……8月末に、死ぬかもしれなくてね……」
「ぷにゃ!?」
オタくんはうつむいたにゃ。
「ずっと長い間、その幼馴染と連絡とってなくて。大人になって偶然会えて仲直りできて、すごく嬉しくて。その人がいなきゃ、俺Misskey始めなかったし、にゃんぷっぷーもうちに来なかったのに。俺、その幼馴染に何もしてあげられないんだ……」
「ぷにゃあ……」
「その幼馴染を助けるためにいろんな人が頑張ってるんだけど、その人達に任せるしかできないし、当の幼馴染は完全に死ぬ準備始めてるし……つらくて……」
オタくんは両手で顔を覆ったにゃ。にゃぷは、オタくんの二の腕をなでなでしたにゃ。
「……それで、最近元気なかったのにゃ?」
「……バレてたか」
オタくんは顔を上げたにゃ。
「まあ、そんなこんなでつらいんだけど、俺にできることは何もないっていう……」
「でも、お祈りは出来るにゃ」
にゃぷはオタくんをぽんぽんしたにゃ。
「お祈り?」
「その幼馴染さんが助かりますようにって。幼馴染さんを助けてくれる人がうまくやってくれますようにって。お祈りにゃ」
「…………」
オタくんは、けっこうびっくりした顔でにゃぷを見たにゃ。
「にゃぷもお祈りしてあげるにゃ」
「……わかった。俺もお祈りする」
それから、にゃぷとオタくんは手を合わせて、長い長いお祈りをしたにゃ。たくさんお祈りすればいいのかはよくわからないけど、オタくんもにゃぷも、長い間お祈りしたいと思ったのにゃ。
#ノート小説部3日執筆 冷やし中華がたべたいのじゃね/お題「きゅうり
「たまにはさぁ……」
「たまには、なんじゃ?」
「たまには、もろきゅう以外の胡瓜が食べたいぜ」
いってやったぜ。
俺は河童として、狐娘相手に言ってやったぜ。
ほんとはこんなこと言っちゃいけないんだぜ。
俺は遊びに来ている身なんだぜ。。
「もしや、もろきゅうが嫌いであったのか?」
「そんなことはないぜ、稲荷の姐さん。俺はあんたに恩義を感じているんだぜ。遊びに来る度に昼飯を馳走になって、恩を感じなきゃ河童が廃るぜ。なにより俺が胡瓜が嫌いになるわけがねえ。断じて違うぜ。ただ、一ヶ月三十一日同じメニューは飽きるってだけだぜ、勘違いしないでくれ」
伝えてやったぜ。
俺は河童として、感謝を伝えたぜ。
ほうほうと聞き入る狐娘が首を縦に振っているぜ。
「なるほどなるほど、じゃあたまには別のメニューを試してみようかね。もろきゅうじゃなきゃいいんだね」
「あたぼうよ。俺はもろきゅうじゃなければ、ナンだって食って見せるぜ。幸い俺にはアレルギーはねぇからな……小麦でも、蕎麦でも何でもこいってことで……稲荷の姐さん、きょうもご馳走になります」
嬉しいぜ。
どうやら、理解をしてもらえたようで、嬉しいぜ。
頭を下げて、漫画でも読んでしばし待つぜ。
それにしても、最近はとんと娯楽が増えたってもんだ……
お陰で、毎日楽しいもんだぜ。
◆◇◆
「ほーれ河童の、昼餉ができたよ」
「待っていたぜ!! 今日はどんな胡瓜が食えるんだい? ステーキかい? チャーハンかい? もちろん、パンでも蕎麦でも嬉しいもんだぜ」
「うーん、これはなんというべきかね」
俺の前に出てきたのは、硝子の器。
黄色い麺が茶色い出汁に浸かり、黄色い卵、緑の胡瓜、桃色のハムと色とりどりの具が飾られている。
「稲荷の姐さん、これはなんて料理なんだい?」
「これは冷やし中華というんだよ。気に入るといいけどね」
「べらんめぇ、俺は河童だ。いただきます」
俺は箸をスパッと手に取ったぜ。
それにしても、まるで絵画みたいで、美味そうだ。
目の前の皿と向き合うこの瞬間がたまらないぜ。
酢の物のような香りは瑞々しく、なんとも俺の食欲を誘った。
――ズルズルズルズル、ズズズーー!!
「おうおう、いい食べっぷりだね。時に味の方はどうだい?」
「おう、こいつぁ天上の美味ってもんだ。日本全国津々浦々歩き回っても、似たような味の料理は、三親等以内の親戚以外ねぇだろうと確信するぜ!!」
――ズルズルズルズル、ズズズーー!!
――がつがつ、もぐもぐもぐもぐ、ごくり。
まったくなんてヤミーな飯なんだ。
箸がすすむったら、ありゃしねえ。
あじわってやったぜ。
冷やし中華って料理の真髄を味わってやったぜ。
甘酸っぱいタレに絡んだ中華麺の奴は、なんとも素晴らしい心地の喉越しだ。タレの酸味の奥にあるコシの効いた中華麺の野郎の小麦の味わいは、冷えた麺じゃねぇと味わえない滋味が有りやがる。
具材もそれぞれ、欠けちゃならねえ。
多種多様な味わいが、舌を楽しませやがるぜ。
錦糸卵は甘さがいいぜ。
砂糖がたっぷり入った甘さが嬉しいたぁ、珍しい。
タレの酸っぱさを落ち着けて、マイルドって感じに変えやがる。
麺と一緒に頬張って、ゆっくり咀嚼するのがなんとも乙だぜ。
ハムの旨みが嬉しいぜ。
肉を食ってるって感覚が、夏の疲れに染みやがる。
ハムだからって馬鹿にしちゃいけねぇ。
麺と一緒に啜りこむと、口の中はもう桃源郷だ。
何より胡瓜が嬉しいぜ。
千切りのきゅうりが山ほど入って、俺のリクエストに答えてやがる。
胡瓜ってのは、使い勝手がいいとは言えねえ食材よ。
サンドイッチも悪くはねえが、ちょっとハイソが過ぎるわな。
しかし冷やし中華の胡瓜って奴は、丁度いい脇役。
それも、さっぱりした食感で、気分を変える二枚目な色男と来た。
おいおい、勘違いしちゃいけねえ。
ハムの野郎は三枚目よ。枚数は大いに越したことはねぇ。
だが、一番気に入ったのは、
一気にいろんな具と一緒に麺を啜ったときだぜ。
――ズルズルズルズル、ズズズーー!!
色とりどりの具材の味わいを、タレの酸味がぐっと包み込み――
中華麺が、どっしりと下から食感で味を支えやがる。
「ほっほっほ、随分と気に入ってくれたようで嬉しいよ」
「稲荷の姐さん。こいつぁいいぜ。こいつぁいいぜ。夏の熱気に疲れた体に、味わい深さが効くってもんだ。俺はすっかり上機嫌になっちまった……」
「そうかい、それじゃあそろそろ味変なんてどうだい?」
あじへんったぁなんだい?
冷やし中華にこれ以上があるってのかい?
俺がそれを聞く前に、姐さんは台所に何かを取りに行きやがった。
俺は待つぜ、ただ待ったぜ。そしたら、出てきたのは――
「なんてこったぁ、マヨネーズかい!!」
「ほっほっほ、これが結構合うんだよ。騙されたと思って食べてみなさい」
言わなくても分かる
こいつぁ美味いに違いない。
俺は残り三割ってところの冷やし中華に、
マヨをどばっとかけてやったぜ。
残った具と麺をマヨにつけて一口。
コイツぁ、ヤバイぜ癖になっちまう。
マヨネーズの味わいが、タレの酸っぱさで引き立って――
いや、麺のつるつるとした喉越しが――
卵の自然な味わいと、砂糖の甘みが――
ハムの肉味と旨みが――
胡瓜のしゃっきりとした食感が引き立てやがる。
こいつぁなんとも痛快だ。
「美味しかろ?」
「こいつぁいけない、いけないぜ……マヨネーズの酸味と旨みがコレ以上なく、全体の旨みを引き出してやがる。麺も卵もハムも胡瓜も全部、マヨネーズとシナジーが有りやがる。それぞれの食品のバリューを最大限引き出すたぁ、姐さんこいつぁ御見それしたぜ」
「しなじー? ばりゅー? 良く分からないけど、気に入ったことは分かったよ。そんなに美味そうに食べてくれるなら、作った側としても冥利に尽きるってものさ」
「あたぼうよ!! 俺は何時だって、飯の美味さには正直で居てぇ!! 冷やし中華か、覚えたぜ、こいつぁ本当に美味かったぜ!!」
――ごちそうさまでした!!
俺はもろ手を合わせて、稲荷の姐さんに感謝を伝えたぜ。
そしたら、姐さんなんだかもじもじしだしたんだ。
「姐さん、どうした。言いたいことがあるなら、ハッキリ頼むぜ」
「いや、なに……デザートでもどうかなと、思ってね……」
そういって、姐さんが三度台所に消えて行った。
一体何を言おうってんだ。
帰ってきたとき、手に持っていたのは――
棒に刺さった“もろきゅう”だったぜ。
「姐さん、こいつは……」
「何、別に飽きたなら、食べなくてもいいんだけどね……」
てやんでぇ。
俺は姐さんから“もろきゅう”を貰ってよ。
縁側に座って、食い始めたぜ。
―ーぼりぼり、ぼりぼり
「こいつぁ、うめぇや……やっぱり胡瓜は”もろきゅう”に限るぜ」
「おうおう、そいつは良かったよ。またいつでも食べに来ていいからね……」
#ノート小説部3日執筆 お題「きゅうり」 『きゅうり、キュウリ、きゅーかんばー』
午後三時。世の人々が菓子やスイーツを楽しむこの時間に、俺は居酒屋にいた。
週末は昼から営業しているこの店は、昼間から酒を飲む駄目な大人で溢れていた。いやまあ、そこにいる時点で、俺もその駄目な大人には違いないのだが。
あえて言い訳するなら、この店を選んだのは俺じゃない。今目の前にいる連れの男だ。
「まあまあ、とりあえず乾杯しとこうか」
キンキンに冷えたビールをなみなみに注がれた大ジョッキを持ち上げ、ソイツは笑った。俺は不承不承、チューハイ入りのグラスをジョッキにぶつけた。それが開始の銅鑼とばかりに、ソイツは喉を鳴らして物凄い勢いでビールを胃に流し込んだ。毎度のことながら、よくそんなことが出来るものだ。自分とまるで違うアルコール耐性の友人に感嘆と呆れを抱きながら、俺は突き出しをつまんだ。
やみつきキュウリ。旨味たっぷりの塩だれで味付けされたキュウリは、塩と唐辛子の二種類の『辛さ』がキュウリにマッチした、この時期にピッタリのつまみだ。それを一口味わってから、チューハイをチビチビと呑む。日本酒を一合も飲めばフラフラになる俺には、これぐらいがちょうどいい。
さて、そんな俺をこの店に連れ込んだ友人は――後ろを向いて、備え付けのテレビに目を向けていた。
昔ながらの居酒屋らしい小型のテレビ。放映しているのは、競馬中継だ。
『四コーナーから直線コース、先頭七番グスタフカール。一馬身から二馬身リードを保ちます』
男性アナウンサーの実況と共に、長い直線を駆け抜ける十数頭の競走馬。俺は多少齧った程度だが、友人はそれなりに観ていた。彼はレースの決着前に、俺の方を向いた。そして、さも常識であるかのように言う。
「アーモンドアイってキュウリって呼ばれるけどさ」
「競馬とやみつきキュウリで思い出したんだな」
相変わらず脊髄で会話をしている。俺じゃなければ脈絡ゼロだと思われてたぞ。
アーモンドアイというのは、十年代後半に活躍した競走馬の名前だ。牝馬(メス)でありながら牡馬(オス)との混合レースでも圧倒的な強さを見せ、G1レースを日本馬としては最多の九回勝利した、歴史的名馬。彼女がキュウリと呼ばれるのは、彼女の称号『九冠馬(きゅうかんば)』から。早い話が駄洒落である。
『盆になれば、キュウリ自体が馬になるよな』
『そういえばそうだな。キュウリ馬だっけ』
友人はやみつきキュウリを咀嚼すると、グイッとビールを流し込んだ。大ジョッキのビールが、もう半分もない。
「ご先祖様がキュウリに乗ってこっちに来て、ナスに乗って帰る。キュウリが行きなのは、足が速いからだっけか」
「なすはお供え物背負ってゆっくり帰れるように。確かにナスはずんぐりしてて遅そうだ」
「……なすがママの対義語がキュウリがパパなのってそういう事か?」
「……違う気がする」
最初にそれを誰が言い出したかはともかく、言った人は間違いなく何も考えていない。目の前のコイツぐらいには。
「でもそれで考えると、ほしいものリストの対義語が焼き芋のショパンなのは変だよな。干し芋と焼き芋はいいとして、リストの対はどっちかと言うとパガニーニじゃ――」
「いよいよキュウリ関係なくなってきたぞ」
連想ゲームじみた会話にため息を吐く。しかも微妙に教養が要求される話題ときた。
「まあそれはそれとして。ビール追加のついでに浅漬け頼もうと思うけど、二人前でいいか?」
「キュウリの浅漬け? まあいいけど……ってもう飲んだのかよ」
友人の大ジョッキは既に空になっていた。嘘だろ、突き出しでビール一リットル行くのかよ。
「ビール一杯ぐらい準備運動と変わらないって」
「そのうち肝臓、壊(いわ)すぞ」
「明日は休肝日~(きゅ~かんび~)にするから大丈夫だって」
「キュウカンバーみたいに言うな」
しょうもない駄洒落を飲み下そうとグラスに口をつけると、いつの間にか空になっていたことに気が付いた。
「……俺もチューハイ追加するわ。あと、揚げナスあったよな、ここ。それも食べたい」
「良いね、行くか。何だかんだで割と呑むよなお前」
「お前のペースに合わせたら、そうなるんだよ」
俺たちは一度顔を見合わせて笑いあうと、店員さんを呼んで追加の注文をした。
テレビの競馬中継を見ると、繫殖牝馬となったアーモンドアイ。その最初の仔が話題となっていた。今週予定だったデビューが延期になったとか。
夏はまだまだ続く。配膳されたキュウリの浅漬けを齧りながら、俺はまだ遠い涼しい季節を恋しく思った。
#ノート小説部3日執筆 「枯山水の海岸」 お題:海岸 ※毎度のことながら大遅刻申し訳ありません
火星には海がない。
開拓が進み、魚介養殖用の人工池の造成に成功したのがつい最近のことなので、それとは規模が桁違いな海洋の造成となるとそれは未だ夢物語である。
だが、海がないとわかっていて移住した者たちも時には海が恋しくなることがあるようで、フラクトゥス(溶融物質が流れている地域)と呼ばれる流紋が見られる地域にはその流紋を波に見立てた疑似ビーチがいくつか作られていたのだった。
そこが本当にかつては海だったのかどうかは関係ない。ただ海っぽく見えるだけのその土地が、今のところ火星人にとっての「海」なのである。
海辺育ちの音希も、時折そこを訪れるひとりであった。
郷里に対する郷愁はこれっぽっちもない音希だが、物心ついた時からあるのが当たり前だった浜辺は時々恋しくなるのである。
日本人移民が建てたと思われる古びた海の家、アメリカ人移民が設置したと思われるパラソルとベンチ、それからサーフボード立て。
それらと流紋を描く砂を見ていると、砂塵舞う音が潮騒に聞こえてくるから不思議だ。
最近は都市部に屋内リゾート施設ができてそちらで水のある海(のようなもの)を楽しむことができるようになったので、フラクトゥスに海を感じに来る者はめっきり少なくなった。
けれど音希にとってはその閑散とした光景こそが思い出の浜と重なるのであった。
潮の引いた浜で砂を掘り、巣穴を見つけては塩をひとつまみ振り入れて出てきたマテ貝を捕まえる。
マテ貝自体は幼い音希の口には合わなかったのだが、塩を入れるとにょっきり出てくる面白さと、見事捕まえた時の達成感が好きだったのを覚えている。
ふと思い立って音希は足元の砂を少し掘ってみることにした。
ここは火星で、本当の海辺でもないので、掘ったところでマテ貝の巣穴など出てくるはずもないのだが──
掘っていると小さな穴が出現し、何かがひょいと顔を出したのである。
それはブロブサンドフィッシュと呼ばれる四つ足の、トカゲに似た火星原生種の砂魚であった。
驚いた音希と砂魚の目が合ったのはほんの一瞬のことで、マテ貝と違って地を這う脚を持つ砂魚は触れる暇もなく脱兎のごとく逃げ出して再び砂中へと潜っていく。
「……逃げられちゃった」
音希はひとりごちたが、そもそも捕まえる気は毛頭なかったから問題ない。
というか捕まえたところで原生生物管理局に怒られるだけなので、マテ貝を取り逃がした時のような悔しさもない。
強いていえばもう少しその砂に擬態した色の鱗を観察したかったくらいである。
「火星の『海』にもいるんじゃん、生物」
そう呟くと一層この「海」に愛おしさを感じた。
海ではない、海であったかどうかも定かではない、海に見立てられただけの土地。
けれど、音希にとってはここは新たな郷里の浜と言えた。
ビーッ、と着ている郊外活動用の防護服がアラームを鳴らして、活動限界時間が近いことを知らせる。
「……長居しすぎちゃったか」
音希は立ち上がると連綿と続く流紋を名残惜しそうにぐるりと見回して、乗ってきた個人用UFOへと戻っていった。
その耳にはかつて飽きるほど聞いた潮騒がずっと響いていた。
おわり
※「溶融物質が流れている地域」については私個人の想像によるもので、火星現地の当該地域に流紋地形があるかどうかは不明です。まぁそもそも舞台は実際の火星じゃなくてバーチャル火星ですのでね!
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