人気のないリノリウムの床を蹴り、焦りでもつれそうな足を叱咤しながら1階から5階分の階段を二段飛ばしで駆け上がる。
飛びついた屋上への鉄扉は鍵がかかっていて、苛立ちに舌打ちをする。俺はポケットに手を突っ込んで念の為に作っておいたスペアキーを取り出すと乱暴に鍵穴へ突っ込んだ。
こんな時なのに、「女の子とする時は突っ込むなんて乱暴なことしちゃ駄目だよ」と優しく笑った顔が脳裏を過ぎる。
転がり込むように飛び込んだ小学校の屋上。
普段は立ち入り禁止のこの場所に、取ってつけたようなメッシュフェンスの向こう側。
夜が開ける空を眺めながら、その人は長い灰色の髪を風切羽のように靡かせていた。
その光景に息を飲むと同時に、今にも屋上の縁から飛び立ってしまいそうな後ろ姿に心臓を掴まれる。
「おと、なし、さん…」
俺の存在に気づいて欲しくて、振り向いて欲しくて。
名前を呼んだ声は情けないほどに震えていた。
それでも彼女は振り返らない。
焦れて、一歩を踏み出す。
「音無さん!」
今度こそ、俺は腹に力を込めて名前を呼んだ。
あんな事があった直後に、迂闊にも彼女を一人にして目を離した自分の迂闊さを呪った。
引き止めたい。
行かないで欲しい。
戻って来て。
置いていかないで。
俺じゃダメですか…?
貴女の拠り所にはなれませんか?
想いは言葉にしなければ伝わらない。
最初の一歩を踏み出さなければなにものにも届かない。
それでも彼女との距離は遠くて、精神的にも現実的にも縮まらない距離に、俺は情けなくも泣きそうになる。
いつも俺の前にあって、俺の前を歩き続ける細い後ろ姿。
どんなに呼んでも、どんなに追いかけても、貴女の背中に、俺は追いつけない。
それでも現実の物理的な距離はあと数歩。
それでようやく、貴女に手が届く。
「玄関先でいってらっしゃいって見送った人が、次に会ったら死体だった。
また明日って別れた人が、夜のうちに冷たくなっていた。
そんな当たり前のことも忘れて、繰り返しの明日を疑いもせずに言ったたわいない言葉が最期の言葉になったなんて。
何度繰り返しても慣れないな…。」
それは、今まで彼女が経験した出来事だろうか。
彼女は俺よりずっと歳上だけど。
それでも死別なんて、どんな人生でも、どれだけ生きてたって、慣れるものじゃないだろう。
それがどれだけ薄っぺらい理想でも、彼女が求める言葉じゃなくても。
「……それでも俺は、貴方に生きていて欲しい。」
後ろから抱きしめるようにしてようやく捕まえた細い背中。
ほとんど目線の変わらない黒い瞳が、丸い眼鏡のレンズ越しにようやく俺を見た。