「音無さん!」
今度こそ、俺は腹に力を込めて名前を呼んだ。
あんな事があった直後に、迂闊にも彼女を一人にして目を離した自分の迂闊さを呪った。
引き止めたい。
行かないで欲しい。
戻って来て。
置いていかないで。
俺じゃダメですか…?
貴女の拠り所にはなれませんか?
想いは言葉にしなければ伝わらない。
最初の一歩を踏み出さなければなにものにも届かない。
それでも彼女との距離は遠くて、精神的にも現実的にも縮まらない距離に、俺は情けなくも泣きそうになる。
いつも俺の前にあって、俺の前を歩き続ける細い後ろ姿。
どんなに呼んでも、どんなに追いかけても、貴女の背中に、俺は追いつけない。
それでも現実の物理的な距離はあと数歩。
それでようやく、貴女に手が届く。
「玄関先でいってらっしゃいって見送った人が、次に会ったら死体だった。
また明日って別れた人が、夜のうちに冷たくなっていた。
そんな当たり前のことも忘れて、繰り返しの明日を疑いもせずに言ったたわいない言葉が最期の言葉になったなんて。
何度繰り返しても慣れないな…。」
それは、今まで彼女が経験した出来事だろうか。
彼女は俺よりずっと歳上だけど。
それでも死別なんて、どんな人生でも、どれだけ生きてたって、慣れるものじゃないだろう。
それがどれだけ薄っぺらい理想でも、彼女が求める言葉じゃなくても。
「……それでも俺は、貴方に生きていて欲しい。」
後ろから抱きしめるようにしてようやく捕まえた細い背中。
ほとんど目線の変わらない黒い瞳が、丸い眼鏡のレンズ越しにようやく俺を見た。
「透君」
低いフェンスに腰掛けたまま、振り向きもせず俺の名を呼ぶ。
その声は何かに怒るわけでも、悲しむわけでもなく。普段と変わらない脱力感と、少しの退屈と、何かに疲れたような声色をしていた。
命令や恫喝じゃない。ただいつものように名前を呼ばれただけだ。
たったそれだけで金縛りにあったように動けなくなった俺に、彼女は現実を確かめるように言う。
「本当に人は、呆気なく死ぬものだね。」
「そう、ですよ…。」
だから、はやくそのフェンスの向こう側からこっちへ戻って来て下さい。
「わざわざ銃や刃物を用意しなくても、病気や事故で簡単に死ぬ。
悪意や敵意も関係ない。
私も死ぬ。君も死ぬ。
今この瞬間だって、君が軽く私の背を押すだけで私は死ぬし。
自分の意思で一歩踏み出しても私は死ぬ。
風に煽られてバランスを崩したって死ぬだろう。」
そう言った彼女の目線が15メートル下の校庭を見下ろしているのを、俺は微妙二変わった頭部の角度で察する。
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