後段では以下のように述べられる。
「人間の身体をある状況に投げ込まれたアクターとして捉え、そこでの試行錯誤を通してメディアとの関わりを捉え返す」
「身体をメディア環境のなかで「する」と「させられる」が溶け合った実践をなすアクターの一つとして捉え」
実は、彼の考察はやや半端なかたちで終わっている。「ほつれゆく」ことと「つむがれる」ことは、どのような関係にあるのか。
ただ、その後の彼がメディア状況に投げ込まれ/自らをメディアに投げ込み、そこで試行錯誤していたということ、これははっきりしている。彼はメディア状況を論じ、かつメディアの中で書いた。
「ほつれゆく」ことと「つむがれる」ことの関係を考えるならば、いわゆる「消えゆく媒介者」という概念が想起されるかもしれない。だが、それをここで持ち出すことは、ややためらわれる。たんに精確ではないからという以上に、出来事に妙に当てはまりすぎるからだ。
いずれにせよ、紡ぎかけた糸の続きがもう少し残っている。ずいぶん時間が経ってしまったが、もうひとがんばり。
あ、でもじっさいのところ、彼の代わりに考えることは難しかった。ずいぶん自分のこだわりにとらわれてしまったし。ここまで来れたのは、一緒に仕事をしたみなさんのお力です。多謝。
OUT 15 06 2023
https://fedibird.com/@sl_e__pt___/110299647457417255 [参照]
たぶん今週の終わりころにブツが届く。