ベルトレによるヴァレリー伝を借りてきて目を通していたら、1937年1月、ヴァレリーがコレージュ・ド・フランス教授ポストに立候補した際に、リュシアン・フェーヴルは反対の動きをとったとある。「ヴァレリーがこれまで歴史にたいしておこなってきた発言も、彼が配布したテクストも評価していない」、と記されているが、そりゃそうだろう。「ヴァレリーはニニ対一七で選出される」。
手許にある論集を引っぱり出し、B・ペータースによる小文を参覧する。「反ドレフュス派だったヴァレリーは、1941年1月9日にアカデミー・フランセーズでベルクソンを讃える見事な追悼文を読み上げる」。…「ボゴタでは…聴衆はそれを精神の自由への賛歌として聴き入った」(『ヴァレリーにおける詩と芸術』所収)。こういうのを見ると、彼のような文士は両義性を帯びる存在と認められていたことがわかるが、しかし評価の基軸はどちらに置くべきであるのか。「第三共和政のボシュエ」を自任する冠絶詩人にしてナショナリストで、かつ対独協力には消極的であった、とでも?
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