NHK BSプレミアム「ナンシー関のいた17年」
放送当時、話題になっててちょっとだけ見た気がするのですが、改めてフルで見ました

www2.nhk.or.jp/archives/movies

松岡正剛の編集工学は
鶴瓶噺と やってる事が近いと思う。

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鶴瓶さんがほぼ日のYouTubeに出ててお笑い論を語っていました

ほぼ日のコンテンツってけっこうこの世代の芸人さんも出てて、
タモリさんが糸井重里さんにジャズを語るイベントや、
高田純次さんが社内で好き放題暴れる動画や、
年代は下がりますが有吉さんへのインタビューやオリラジ中田さんとのビジネス対談、
芸人さんじゃないですが、そもそも師弟関係にあるみうらじゅんさんのコンテンツなど、
人選やジャンルは多岐に渡りますが、割とお笑い的な土壌から人を呼んで少しためになるような話に結びつける感じの企画をけっこうやってる印象があります
(もしかしたら、ほぼ日ってかつての出版業界とテレビを中心としたサブカルマインドをゼロ年代インターネットに橋渡しした最初のビッグメディアなのかも…

オモコロ的な地盤のパイオニア的立ち位置)

で、その流れの中での鶴瓶さんなのですが、
こうして改めて鶴瓶噺を聞いてみると、なんか思ってたより
「鶴瓶さんの話芸ってそもそもかなり自己啓発っぽいぞ…?」
と思えてきました

youtube.com/watch?si=X6ZPLUBga

なんというか、先程上記した面々とかは、割と普段話してる事をほぼ日風味に寄せて「丁寧な暮らし」っぽさや「ビジネス的に役立つ雰囲気」みたいなものをちょっと乗せてたり、その時の客層に合わせてビジネスマン性に擬態したり、糸井さんの緩やかな誘導に乗らずとも抵抗しなかったり、逆に普段通りの芸風を貫いたり、というパターンが多いかなと感じてて鶴瓶さんもそうなのかなと勝手に思ってたのですが

実際聞いてみると、むしろいつもと変わらずハードルを下げて笑いを取りつつ、うっすら批評的な事や人生哲学を紛させて、段々と空気を「いい感じの事を言ってる」雰囲気にしていってて、これぞ笑福亭鶴瓶ここにありという感じなのですが、それをほぼ日という明確にその方向やニュアンスで商売をしている場所で行う事で、両者の歩幅が完全に一致してシンクロしてる…!と感じて妙な怖さがあって面白かったです
(客席の最前列で糸井さんが相槌や笑い声を上げて観てるのですが、それがまんまセミナー商法のサクラに重なって見えたりします)

これが例えば紳助さんとかだったらもっと露骨に場面をハックした上での「ステキやんトーク」を発動させると思うのですが、鶴瓶さんはそれを実質的にはしてるんだけど全くそう感じさせてないところが“職業詐欺師”性が感じられて面白いです

で、それとはまた別で
ここ数日、松岡正剛さんの訃報を受けてネット上でそれ関連のポストや著名人の反応、直近の動画などいくつか目にしました

それで興味深いなと思ったのは、
年代やジャンルによって割と見られ方、認識、評価に断層(?)というか、ぼんやりとしたグラデーションがあるという事と、ただその上である種ひとまとまりに「知の巨人」と称されていた人だったのかなと感じました

というのも、僕の個人的な興味対象としてお笑い芸人的なジャンルの派生を見てゆくと「本業が分からないけどなんだか教養的な存在」にぶつかる事があります。そういったサブカル有名人的な存在の元祖(?)として捉えようとしてみると、やはりどこか重ねられる部分があると言いますか、各自ポストの中に紛れ込む「香具師」「山師」「文化アイドル」「代わりに読んでくれる人」「広く浅く」「若い頃はアングラ文系の筆頭」という感じの形容がチラホラあって、ご本人がどれぐらい意識的だったか別としても、有名になってゆくにつれて膨らんだ懐疑的な雰囲気だったにしろ、

個人的にはmastodonでも以前話した
“ナンシー関のカリスマ構築”と似たような感触を覚えます

fedibird.com/@shiryoku/1125481 [参照]

松岡正剛さんだけを見るよりも70年代以前の文化史全体を追わないとその実態は空気としても分かりかねますが、本人の出自が当時のアングラ劇団文化の批評的なところから出没してきたという流れを見るに、今の文化人論客の中だと、東浩紀さんや宮台真司さん、成田悠輔さん、とかと近いポジションだったのかなぁと想像してしまいます


彼らも学術的裏付け、アカデミックな権威性などに身を置きながら通俗的なカルチャーに近接する事でメディアスター性を獲得していった原理だと思うし、そしてこのチャンネル的には、
そういう90年代〜2020年代辺りの言論人は、タモリ、いとうせいこう、上岡龍太郎などの70年代〜90年代の芸能側から文化人に擬態するテレビタレントの流動の、ちょうど逆を模倣しているのではないかなと朧げながら仮説を立てているわけで、


そのさらに向こう側の松岡正剛さんや荒俣宏さんとかって、教養主義側からのアングラカルチャーの経由をしたことで大衆領域での局所的市民権の獲得を成した形の文化著名人なのではないかなぁ となんとなく思っています

newspicks.com/movie-series/87?

そして、
それが前述した「鶴瓶噺は自己啓発系ビジネストークと実は性質的に似てる」というようなことに重なるような気がしています

松岡正剛さんの賛否をいろいろ見てると、彼もまたそういう言語能力を持った話術師だったんじゃないかなと感じてきました

世代ではない(というか、マキタスポーツさんとの対談動画やかつてタモリさんと対談本を出していると知ったりしたから存在を認識してるだけで、千夜千冊や遊は通っていません)のでその善し悪しも含めて実際どのような影響力を持っていたかは個人的には分かりかねるのですが

ただ、喋ってる声や姿や話の持っていき方とかを芸人的な話術に当てはめようとしてみると、たしかに連想ゲーム的に別ジャンルの知識や固有名詞を多用して、ゆったりしたテンポで自分のフィールドに持ってゆくような引き込み系の話芸っぽいところはあるなぁ…と
それが、プロの落語家でありながら辿々しくとっ散らかし気味に座敷話芸を披露する事でハードルを下げて大衆性を獲得する鶴瓶さんのトークテクニック的なものに近接しているとは思います

と同時にそのタイプの喋り手って声質やテンポ的に応用が効かない人も少なくないと感じてて、中心性が薄い喋りなので批評家に留まる傾向があるのではと思います
それはそのまま「編集」的な気質とも繋がるのかなと

断片的で離れた情報を独自視点で繋げて体系立てて全体像を作る
その上でそこに当事者性の投影は積極的にはせず、あくまで俯瞰的である事そのものに価値を生じさせる

そういう運動ってコミュニケーションや情報のそれ自体だったり、
なんなら僕が今話してる"これ"すらも該当するものだと思います

それを意識的に知覚して取り組む精神は、言語、情報、批評、話術、編集行為に他ならないなぁと思いました

松岡正剛さんがアングラ劇団の批評から当時のカウンターカルチャーを寄せ集めた雑誌の編集長になり、そのままその知名度で「編集工学」なる学問っぽい領域を構築してそのまま本当に知識人文化人言論人然として存在してゆくあり方は、
鶴瓶さんが新人の頃に落語で音響を用いたり時代錯誤な演出をして脱構築的な落語家として目立って関西圏でタレントとして人気を博したのちに、テレビ芸能界内での噺家然とした振る舞いによって批評的に芸談を語りながらも国民的噺家のアイコンと化す
その歩みと重ね合わせれるのかも

そしてその俯瞰的、編集的気質は、
その立ち位置の視点からじゃないと見られない価値観の提示を生じさせると同時に、
だからこそ、批評自体の評価、言語の定義、情報の正確性、などのそのツールそのものへの言及を求められた時に摩擦が起きやすいのかなと思います

松岡正剛さんの今回の賛否反応って、

「鶴瓶の家族に乾杯ってアレ嘘くさいよ」
「A-Studioは感動させようとしてる」

とタモリに言われてる状態と同じようなものにも感じます

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