こちら面白かったです
めちゃイケという番組の面白さと危うさ
かつて上岡龍太郎が言った「テレビで面白いのは、素人が芸をやるか、玄人が私生活を見せるか、2つに1つだ」という話を思い出しました
三ちゃんは素人なのでしょうか?玄人なのでしょうか?
https://www.youtube.com/watch?si=giVEQ4bmOju-WW56&v=8kSLo3DQloI&feature=youtu.be
コント55号やナイナイの類似点は、
それを「映像媒体(テレビ)」に深く結び付けてタレント像を形成してゆくという芸に施したとこだと思っていまして、そこにのみ強く出力していった事で築き上げたスター性ブランド性なのだと感じています
二郎さんや岡村さんの素(っぽい未完成の演技)を面白がらせる演出構造に欽ちゃんや矢部さんは専用芸人と化していった事で視聴者に親近感を抱かせ興味を持続させ注目度を上げてゆくエンタメになっているのではないでしょうか
(重ねて言いますが、バナナマンや極楽とんぼはそれをコントorフリートーク(ネタ)に落とし込んである程度どこでも応用できるようにしているため、ナイナイやコント55号のようなドキュメンタリー性とは違う面白さになってると思います)
これは
ピン芸だと山田邦子やフワちゃん、
もう少しプロデューサー的な立ち位置になると島田紳助やYouTuberのヒカルとかになってゆくタイプだと思います
本人の面白さ(キャラクター)ももちろん保持していますが、何に注目させるかが別の対象物や事件性などがあってそこにどう絡んでゆくか、切り取って料理してゆくかがメインコンテンツと化している状態
そしてその手法の1番原始的な形は「客いじり(素人いじり)」になるのだと思います
なので
欽ちゃんが二郎さんから分離し独り立ちしてゆくに当たって素人いじり番組を主戦場にしていった原理と同じように、
矢部さんが外側から岡村さんにフワッとしたツッコミを入れ続けることで追い込んでゆくフォーメーションのナイナイを中心として輪が広がっていっためちゃイケという番組の
長期的な維持と終盤の岡村さんが欠けた時の打開策要員として、三ちゃんという"素人"が選ばれたことはとてもよく似ていると思います
番組側がその素人性を無理やり維持しようとするがために力関係のバランスが偏っていったのは想像がついてしまうなとも感じました
ニューヨークチャンネルの動画のコメント欄で
「岡村さんが思っていたより早めに復帰しちゃったから、オーディションメンバー自体の存在意義が不明瞭になり、その中でも素人という特殊な立ち位置の三ちゃんが特に宙ぶらりんになってしまった」
こんな感じの事が書かれていましたが
この状態はまさしく視聴者目線でも潜在的に共有されてた感覚なのだと思います
https://ameblo.jp/ameblojpvbctv3do/entry-10523098553.html
この、おそらく当時からのコント55号ファン(?)であろう方のブログのこの文章の雰囲気が、
めちゃイケやナイナイに注ぐある種の「青春的カタルシス(素の誇張演技、未完成な状態の芸の提示による親近感の誘発)」が含まれてるんじゃないかと思って似てる舌触りがしました
あと、
今回の三中さんが映画を作ったという話を聞いて、前々からうっすら思ってたのですが、
もしかすると三中さんはナイナイで言えば岡村さんより、むしろ矢部さんのような「絵面を作るために 自分もそこに出ながらも引き立てる役割をする」というタイプの人なんじゃないかなぁ…と感じました
見た目のキャラ的にも、憧れを公言してるのも岡村さんなので、混同されがちな気がしますが、
「ヒーローに憧れて、ヒーローの映画を撮る」という行為は
そこに登場したいという主人公願望というより世界観のイメージ共有の方に意識があるように思います
「岡村さんが欠けためちゃイケオーディションに、岡村さんのジャージの格好で来る」という行為も、自己PRというより「岡村隆史像の強化(こんな熱心なファンがいるんだという補強)」になってる部分があると思います
その思考回路って、役者ではなく監督的な塩梅がある気がして、それって岡村さんというより、矢部さんや欽ちゃん側のアプローチだよなぁと思いました
今
改めて三中さんが初めて出演した当時の番組を見てみると、たしかに緊張している素人として番組側からイジられているではあるのですが、どこか「やってる感」も覚えます笑 (今の三中さんと比較しちゃうからそう見えるのは必然ではあるのですが)
で、その感じがやっぱり岡村さんのような体当たり的な素の誇張というよりは、
「緊張している感じがウケている」と皮膚感覚で分かってるところがあるし、先んじてその立ち振る舞いを設定していってるところがあると思います
(何かコメントやミニコント的なくだりを事前に準備してるとか、完全に緊張してる人を演じきってやろうという気概とかじゃなくて、「緊張している自分」「誠意のある素人」という見え方と「それにリアクションをするメンバー」という絵面を作る事に出力してるような感じ)
https://www.youtube.com/watch?si=0dGskhpJuqCXxDXP&v=P7OPoXQp83c&feature=youtu.be
これって、何かに似てるなと思ってたのですが、今書いてて気付いてのは
ドッキリをかけられた時のクロちゃんの振る舞いに近いんじゃないかなと感じました
クロちゃんも「タレントクロちゃん」から出てこない、アイドルを目指してたプロフィール設定を崩さないし、声の高さもある程度維持しています
リアクション芸として素の誇張であり、未完成の演技をし続けているのですが、それはやはり岡村さんと違って「過剰にその規範から出ない事で、むしろクロちゃんが想定している画面の中の他の登場人物の動きすらも操作出来てしまえている(ツッコまさせている)」感が発生してると思います
端的に言えばサディスティックな性質であって、受け身だけど"待ち"じゃないと言いますか
もっと単純に言うと"天然"度合いが薄いと思います
https://www.youtube.com/watch?si=kTQKSI0a9ksE7CGs&v=4BkakbDfE4Y&feature=youtu.be
三中さんはクロちゃんほどじゃないですが、
「自分を含めた全体の絵面をコントロールするために過剰に定型のリアクションをしてゆくこと」
(演じ込みとは違う表層的な振る舞い、上記の動画でもクロちゃんがゆきぽよの服を別に欲しがってない事は皆わかってる上でそのムーヴを披露してる)
によって存在感を示していたし需要の供給をしていたのではないでしょうか それってやはり全体の絵や別の対象者の方の引き立てに意識があって、自意識としての主人公性が薄いように感じます
(岡村さんはもっと自分に注目させてるような感覚がある)
究極的に言えば、テレビや芸能の中における「素人性」というものは、そういった どう見られているかの"自意識"のことなのかもしれません
個人的にナイナイのフォーメーションと作っている笑いの種類として近いニュアンスのコンビってコント55号だと思っています
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6C4D3110FBE5F0A8&si=e_MvegDiBKjsCdyH
安直な結びつけの視座だと感じながら話してみようと思うのですが、
欽ちゃんが二郎さんにやってた「ネタ以外の部分の追い込み芸(というネタ)」の原理を心理的なポジショニングとして設定したのがナイナイなんじゃないかなと思っています
(それをまんまキャラクタープロフィール的になぞってコント師としてのみ追求していったのがバナナマンや、フリートーク的な話芸に特化させていったのが極楽とんぼ)