自分の個人的な記憶でしかないのですが、
10年前くらいは、もっと「お笑い評論ブログ」的なものが沢山あった気がしてて、
今ももちろんあるし、noteとかで現在進行形の記事を数多と確認できるとは思うのですが、それはどちらかと言うと、推し文化的なものの延長線上にあるような文章が感触としては多くて、SNSでの芸人infoや、コアなラジオリスナー、そういう濃度が高いのかなと思います。
もしくは、文藝批評とサブカルチャーを混ぜたようなテイストの中で代表的な社会通念として題材にされる芸能コラム(ナンシー関とかが源流)とかもよく見る気がします。
なんというか、説明が難しいのですが、
「これぞ『お笑い評論』だ」
というものは減ってる気がします。
需要の問題なのでしょうか?
同じ文字表現なのに。
なぜ、こうも需要と供給が逆転してるように感じるのか?
ひとつに、ベタな解釈ですが、やはりツールの浸透の違いがある気はします。
「ブログ」と「Twitter」の性質の違い。
長文か短文か
という単純なカラクリがまずあるのかな、と感じます。
というのも、これは「お笑い」だけではなくて、言語的なコミュニケーション全般に当てはめれる事な気がするのですが
長文も短文も、元は一緒というか、その羅列か分割かなので、「批評」も「大喜利」も、個人的には行為として、ざっくり言えば同じものだと捉えています。
「お笑い評論」は「批評大喜利」だし
「大喜利文化」は「おもしろ批評」だし
ある題材に対して、
平べったくして長めにするか、
細かく切って 短めにするか、
という調理方法の違いなのではないでしょうか?
文字表現として元が一緒だから
どっちかしか流行らない
んじゃないかなぁ…とぼんやり思っています。
あとちょっと、
なんとなく思い出してきたのですが、
「ライブレポ」という文化も
かなり発酵してた気がします。
ラーメンズのライブの台詞とか、一言一句レベルで書き起こされていて、それを読むだけで観賞擬似体験がけっこうな精度で味わえる程、密度が濃かった記憶が。バナナマンやおぎやはぎ、バカリズム、アルファルファ辺りのライブレポが盛り上がってた感触があります。(たしか、小林賢太郎さんが舞台業に専念して行く舵取りをしてゆく過程の中で、実際に観客に向けて書き起こし行為を注意した事で、ライブレポblog的なものが減っていた印象です。のにち小林さんはコントの台本を戯曲集という形で出版しています。)
「お笑い評論blog」もそれと同時進行で発展していってたと思います。
そして、ここからさらに曖昧な憶測も含まれるのですが、
そういった「ライブレポ」文化は
「深夜ラジオの書き起こし」に変質していったような気がします。
あれって、書き手の層は若干変わってるんだろうけど、手法が一緒だと思う。その移り変わりの段階で「深夜バラエティ書き起こしblog」も若干賑わっていたんじゃないかな。それは今のTLでのスクショ芸文化に繋がってると思います。
で、
その「深夜ラジオ書き起こし」的なものが、
「切り取りニュース」や
「炎上ビジネス」と結び付きながら、
昔の週刊誌文化みたいなものをトレースしていって、現在の「切り抜き動画」「ガーシー的なカルト領域の構築」的なものに辿り着いてるんじゃないかな、という雑な見立てを、なんとなくしています。
これって、ある種の
特権化みたいなものが引き起こってる感じもしてて、
要は「ライブレポ」という、受け手がその作品なり人物なり観賞物から得た衝動の発露を、別の形態に部分的に情報伝達する事でフラストレーションを発散し、なおかつ文化として詰み上がっていたという、狭い文化圏での知的財産めいた構造が
テレビやラジオなどのメディアが間に介在し、それを発し手も意識するようになり、それによって発し手側に近い立ち位置の第3者までもが「ライブレポ」行為によって益を成す現象が起きてきたため、発し手側がキャンセルカルチャーのような文脈を汲んでメッセージ性を打ち出している、という循環が起きているとも捉えられます。
つまり、
芸人さん側の表現が何かの情報をなぞって独自視点を述べる「ライブレポ」的な発露になってる。
そして、そこに「お笑い評論」的なトークスタイルも吸収されてるんじゃないかなぁ…と感じています。
「M-1グランプリ」の感想を述べる事自体がコンテンツ化している状況などを考えると、それが顕著に現れていると言いますか。
しかも、それが芸人さん側から発っせられています。
もっと言えば、そもそもM-1グランプリの審査員席には芸人さんしか居ません。
たしか昔のM-1グランプリって、作家さんとか芸人さんじゃない人も居たと思います。
批評家や言論人という職業がかつてはもっと存在感を示していたと思うし、現在もそれは脈々と受け継がれているのだと思うのですが、それらがある文化に対して外側からの言及がしにくくなってて、その文化内部で「評論」的なことが完結してしまい内回転だけが速度を上げて循環していっているような皮膚感覚があります。
あらゆる批評や評論は、その感想としてライブレポ化され、発し手の方の言語粒子に構成されてゆく。(その発し手も何かの集権的なものに組み込まれてゆく)
そこで、ふと気付くのが
そうなってきた時の言語って
「大喜利」性を帯びてくるのでは? と。
何かを見て、何かをピックアップし、何かをどう語るか、という営みが飽和した中で生まれる遊びは、「主題と別のものへの連結」に突き進んでゆくんじゃないでしょうか。
そして、それと相反して
「大喜利文化」は発展していってると思います。
単純にある世代から競技人口が増えている体感があるし、もっと言えばそれを「競技」だと捉えられる位、概念的に普及してることにそもそも驚きがあります。
もっと、特殊性のあるものだった気がします。
芸人さんしかやってなかったと思うし、それもテレビの中で一番メジャーな所が「笑点」だったので、落語家さんが行うもの、というイメージがあって、普通のバラエティ番組ではあんまり企画としてもそこまで多くなかったと思う。あとは深夜ラジオのハガキ職人。そういう限られた人たちの中での思考ゲームだったと。
今は芸人さんじゃなくても、大喜利ライブに出たりして有名になっていたりします。
供給過多な瞬間があると感じるくらい、盛り上がってると思います。