読書記録:人や組織の名前に慣れなくて目が滑る〜😣 前半は本当に政治組織やそこに誰が属してて…が頭に定着するまでなかなか読み進められなかった
特にムッソリーニの子分たちの名前が覚えられなくて、というか覚える必要がある子分か流していい子分かわからなくて、もう全部流しちゃえ!と読み進めたらその人はムッソリーニのお気に入りの子分だったりして笑 そんな!そんなことなら脳内キャスティングしとくんだった!って前のページに戻ったりする
原作の1919年〜1925年はムッソリーニ36〜42歳だそうで、これは確かにルカさんの年齢的にもちょうど合う
冷酷で激しくて賢くて粗野で、迷ったり無様だったりもする これはルカマリで観たいですよね〜わかる〜!!☺️☺️
ムッソリーニはギラギラしていて崇拝されてるか憎まれてるかのどっちかで、私の脳内では常にツーブロルカさんが煙草燻らせて(こいつら全員アホだな…)って目で自分の崇拝者たちを眺めてるんだけど、本人も特に何ってこともなくて面白い ファシズムの器みたいな存在
ムッソリーニってモノクロ写真しか見たことないけど瞳の色は黒っぽかったから、夏にルカさんが眼科に行ってたのってカラコン作ってもらうためだったのかなとふと思い出してた(ヴァレリオさんも行ってた芸能人御用達ぽい眼科)
そして10月にあの眼科のお兄さんがチネチッタに行ってきた〜って嬉しがって投稿してくれるので、やっぱそうだったんだなと笑
さらにそして11月にもMのロケバス外観を投稿してくれてたんだけど、この人一体何の協力してるのw コンタクト納品して終わりじゃないの?
製作のThe Apartment picturesって、グァダニーノ監督のBones and AllやWho are who we are、ソレンティーノ監督のハンドオブゴッド、ニューポープを作ってるとこだった
インスタフォローしたらBones and Allの血塗れ画像がたくさん流れてきてちょっと辟易した
今週はナポリ近辺で撮影していますよという記事で、ムッソリーニが崇拝する愛人マルゲリータ・サルファッティ役はバルバラ・キキアレッリさんというのを見かけた(公式発表はまだなので違うかもしれませんが)
サルファッティは社交界の女王、芸術家とファシストのパトロン、ムッソリーニを見込んで教養や洗練された振る舞いを仕込み導く女性、優雅な女帝のイメージ。
ムッソリーニを介して政治と歴史に関わろうとする女性で、画像検索すると「女ムッソリーニ」のような表情だなあと思う。
キキアレッリさんはなんか見たことある顔だな…と思って検索したら、NETFLIXドラマのSUBURRAでアウレリアーノ(ボルギさん)のお姉ちゃん役の人だった!この方、女帝のイメージにぴったりです。姉弟でオスティアマフィアの跡目争いをするボルギさんとの愛憎劇はとてもよかった。
Mのプロデューサー、ロレンツォ・ミエリ氏によると“Visually, it’s a mix between the original ‘Scarface’ and [the 1929 film] ‘Man With a Movie Camera’ by Dziga Vertov and British 90s rave culture,”だそうで、1930年頃の映画と90年代のブリティッシュレイヴカルチャーのミックス?? レイヴカルチャーがいちばんよーわからん…
暗黒街の顔役 Scarface
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00U2DUJTM/ref=atv_dp_share_cu_r
ジガ・ヴェルトフ 監督 これがロシヤだ Man With a Movie Camera
https://youtu.be/cGYZ5847FiI
音楽はThe Chemical Brothers、試聴してみたら確かにケミカルだった笑
https://open.spotify.com/artist/1GhPHrq36VKCY3ucVaZCfo?si=gUipDjNuTlSgVGKGng-fGA
Mの本、上巻前半のムッソリーニは基本なにもせずに風を読み機が熟すのを待っている。
1919年に戦闘ファッショを創設したものの人は集まらず選挙に出馬しては惨敗し、愛人たちと放蕩したりしている。
上巻後半で社会主義が自爆してようやくファシズムが台頭してきた。
ムッソリーニは元々は社会主義陣営の出身で機関紙の編集長までつとめていたけれど、社会主義は高潔なだけで実行力がないとして見限っている。
社会党は選挙で大勝ちしても政治をどうすることもできず、鎌を取り革命を起こそうとしても実力行使する実力がなく、裏で暗躍するムッソリーニに足元をすくわれ結局一年で自爆。
ファシストの、まずはブルジョワ・企業家と日雇い小作農のような上と下の層を取り込んで中間層(社会主義者)を悪に見せるやり方にとても既視感がある...右でも左でも中道ですらなかった政治無関心層がファシズムに取り込まれる様子もまるで大阪…
そしてファシストの描写が凄まじくて驚いてる。
「大資本に零落させられ憎しみをたぎらせた中産階級プチブルの集団がファシストを構成している 強い男に服従し同時に無防備な隣人を屈服させたい抑えがたい欲望に身を震わせている」
都市部に住む氷河期世代の維新支持者か???
ようやく下巻まで読み進めた
記事が出ていた2022年12月5〜7日のナポリ撮影はこのローマ進軍前夜のナポリ1922年10月24〜26日だったのか…!と感慨深い(読むのが遅いので…)
イタリア史を知っていたらナポリでムッソリーニといえばそうでしょとすぐピンとくるのかもしれないけど、本当全く知識がないのでなにもかもが新鮮です(ものは言いよう)
「ローマ進軍」の前にボローニャやミラノなど各地で既に進軍(の予行演習のようなもの)があって、でもそれはすべてムッソリーニが指示したわけでも指揮したわけでもなくファシストの地方のボスたちが煽動した暴発のようなもの
ファシズムがムッソリーニの手を離れ別の生き物になり、その生き物の首根っこを再び掴み直しながら多方面に向けて用意周到に暗躍するドゥーチェ、その繰り返しの末の「ローマ進軍」
でもナポリ王宮内部は小説には出てきてない(私が読み進めたところまででは)
サン・カルロ劇場での演説のあと王宮近くの広場でも演説するからそこでエピソードが入るのかな
脚本のステファノ・ビセス氏、最近だとマルコ・ベロッキオの「エステルノ・ノッテ」やボルギさんが八山の合間に撮ってた「The Hunging sun」、ちょっと前だとニューポープも書いてたのか 確かに売れっ子脚本家
ジョー・ライト監督に知られるきっかけとなったゴモラはHBOだけど、日本では観れなさそう…
https://www.imdb.com/name/nm1836999/
ここで「ホテルの部屋(という設定)で、激しい口論の末に暴力を伴う親密な関係になるシーン」を撮影したらしい?
愛人関係の下衆野郎エピソードに遭遇するたびに(これを...?ルカさんが...?)と思ってしまう笑
こんな性欲大魔神の役を😂ルカさんが😂(まあ上手いことやるんでしょうけど)
怪物ムッソリーニを磨き仕立て上げる愛人サルファッティは重要人物だから描写に必要で、原作でも彼女と比較する形で妻や他の愛人たちがちょろっと出てくる程度
他の若い愛人たちは庶子を産んでいるけど(ローマ進軍の直前にも愛人の子が産まれていて笑ったw)一瞬しか出てこない
妻もほとんど出てこない
ムッソリーニが性欲にかられて若気の至りで結婚してしまった教養のない妻として描かれてる
ポーランドのろばの映画EOに実は出演していてオスカーナイトにも参加するというイタリア若手俳優のロレンツォ・ズルゾロくん、Mにも重要な役割で登場するらしく
23歳の売れっ子俳優さんの役だとイタロ・バルボかレアンドロ・アルピナーティか?
本当にいま売れっ子のようで、ネトフリのイタリアティーンドラマやジャスミン・トリンカさんやヴァレリオさんのドラマ、ディアボリックの3作目にも出るみたい すごいたくさん仕事してる
https://www.imdb.com/name/nm2910574/
Mのヘアメイクスタイリストさんも「エルヴィス」でオスカーにノミネートされています!とのニュース
ルカさんのことは「髪をたくさん剃って彼をちょっと🤏台無しにしたけど、彼はスーパープロフェッショナルなので信頼してくれていましたよ」とのこと😌
https://news.cinecitta.com/IT/it-it/news/53/93235/aldo-signoretti-da-elvis-a-mussolini-passando-per-gli-oscar.aspx
ムッソリーニの愛人、イーダ・ダルセル役はこの方らしい?(俳優エージェントのサイトによると)
https://www.toplayagency.it/jessica-piccolo-valerani
おお、この繊細そうな感じ、なんかわかるな…
イーダは赤貧時代のムッソリーニを経済的にも支えて私生児をもうけた愛人女性、M原作ではほんの少ししか登場しなかったけど、確か神経衰弱のストーカー女が俺につきまとい罵りにきたとムッソリーニがキレて殺傷沙汰になりかけたのを周りがなんとか宥めていた気がする
これはMが狂気を垣間見せる瞬間を捉えたルカさんの演技が観られちゃうな〜楽しみだなあ〜😊
フィリッポ・ティーミさんがM役の映画ではイーダが主人公なのでそっちも予習したいんだけど、古いDVDをなんとか発掘するしか手段がなさそう
この要約も面白かった(ローマ映画祭)
歴史をを知ることで未来に向けたワクチン接種を
このようなキャラクターを扱う責任は常に感じていなければならない。政治的判断の分離は容易ではないが、ここで追求されたのは、いかなるフィクションにも陥らない「歴史」の概念です。観客は知的であり、自分の時代とスクリーンに映し出される時代との間につながりがあるかどうかを自分で見抜くことができるのです。
「私たちが唯一可能なアプローチは、批判的、道徳的でないことです。Mは何より民主主義による民主主義の破壊の物語である。昨日も今日も世界にはそのような事例があります。学校のカリキュラムは、このような出来事に触れることが少なく、時には扱わないこともあります。ですから、このような作品を知っておくことで、近い将来病気にならないための抗体ができるのです。
https://movieplayer.it/articoli/m-il-figlio-del-secolo-la-serie-presentazione-festa-del-cinema_27978/