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全体が見えない。それにどう対応するかという話だ。全体の見えが不可能であるという話はたんに批評史の偶発的な切断による問題ではなくて、「言説」そのものの構造として(それこそポストモダン以後)自覚されるべき問題なのに、あの時代はまだ鈍感だ。それを自覚したことのひとつの表現がコンテンツ批評家たちの広義の批評からの「撤退」だったんだろう

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