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ところでついに、私が求めていた本に出会えたんです
沖縄と朝鮮のはざまで - 株式会社 明石書店 akashi.co.jp/smp/book/b433134.
米国-日本の二重の植民地支配に置かれる中で沖縄がどうアジア─とりわけ朝鮮半島出身者に対し加害の立場に立っていった/立たされていったのか、復帰運動と記録運動という2つの動きから紐解いていく。私は自分のことを「日本人」とは思ってない、沖縄人である、であるなら戦争責任とアジアへの加害の事実を日本ではなく沖縄から、沖縄人として捉え直す必要があるとずっと悶々と考えていた私を手助けしてくれるような一冊だった。

これが読みたかったんだ!!ってドンピシャの本に出会うと本当に頭の中がピカピカに新しくなる感覚になるわ 目取真俊『水滴』の一説をこの上ない形で引用するのも泣けてしまって

崎山多美『月や、あらん』 

軍人ではなく民衆の体験を聞き取る記録運動により固定された加害者-被害者(=本土-沖縄)の枠組みの中でいなかったことにされた人々の存在を浮かび上がらせる、それは文学の場においても可能である…ということに関連して崎山多美『月や、あらん』を読み、圧倒された
沖縄に強制連行され「慰安婦」にされた朝鮮半島出身者の傷を聞き取るということ、記録するということ、それに伴う暴力性、そもそも彼女達に刻み込まれた苦痛は聞き取る側が耐えられるようなものであるのか。
日本語と沖縄方言(方言ではなく沖縄語や琉球語と呼べという指摘は最もだけど今は方言って呼びます)をいっそ読者を置き去りにする勢いでごちゃ混ぜにする崎山さん特有の文体─それは崎山さん自身がこぼしていた「沖縄に生まれながら日本語で小説を書く居心地の悪さ」由来のものだが─が容赦なくそれらを紡ぎ、私の心を抉った。

崎山多美『月や、あらん』あとがきから 

「沖縄で生活してきた者にとって、戦争の集団的記憶を後世に伝えることの意味は、今の時間を此処で生き続けることと同義であって、今を、未来を生きていくためにはどうしても振り返らなければならない出来事が、あの戦争だった、ということである。

文学においても、事は同じである。「戦争」を素通りして書き手として存在することの困難が書き始めたものたちの心を縛っている、といってもいい。良い意味でも悪い意味においても。」

私はただのいち読み手だけど、これは本当にそう思う
ので「戦争」を素通りした沖縄はすべて紛い物のオキナワだと思っている

これは個人の願望に過ぎないんだけど「沖縄文学」はアジアとの連帯の手段であってほしい。
(例えば先日のryukyushimpo.jp/news/entry-176 )
そうあるために、戦争の記憶を、生きている限りまとわりつく影を、痛みと無念への想像力を一切排除した表面上だけ美しく都合がいい沖縄表象など決してありえない。

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