アフガニスタンの女性たちの絶望と、「これから生まれる命」の全否定にもなるこの決定について考える。「いま生きる俺たち」だけのことを考えた究極で最悪の政治。
yomiuri.co.jp/world/20241205-O

権力者が「俺たちによる俺たちだけのための俺たちの」政治なり、商売なり、人間関係なりを突き詰めると持続可能性も再生産性もいずれゼロになる。
そこで女性の権利を訴えるだけでなく、その権力者による「俺たちの〜」の解体も必要で、それは言葉にすれば「家父長制解体」ということになるのだけど、家父長制を体現してその欲望に沿って生きている人たちにその言葉は(言葉では)届かないし、痛くもかゆくもない。
家父長制を体現して、その欲望に沿って行われる行為のひとつひとつを日常生活から、目の前で起きることから無力化させていくことも大事だし、自分に(も)出来ることなのではないかなと思う。
それには練習が必要で、そういうことも考えていきたいし、「俺たちの〜」を求めない、その中ではやっていけない「俺」もたくさんいるはずなので(理解ある「俺」のポーズとしてではなく)、そこも考えていきたい。
歴史とそれに付随する思想史や社会運動史みたいなのを見てると一億総中流社会の幻想を生きてきた自分には階級闘争だけが馴染みもピンと来るものもなくて(かつてはあったのだと思うけど)、やはり明治とともにそれまでの歴史と断絶されて幻想が作られていったように、あの時代もそれまでの歴史(第二次世界大戦前後)を断絶して、新たな幻想が作られていったのだと思う。

その中で、資本主義が変容していったように(日本は独自の形で発展・変容したと思うけど)、階級というものも変容している。多分それは宇野常寛氏がデイヴィッド・グッドハートの言葉を借りて言うところの「Anywhere」(どこでもやって行ける人、グローバルエリート)と、「Somewhere」(ここでしかやって行けない人、庶民)と大きくは二分されるものになるのだろう(実際には「ここでしかやっていけない権力者」「どこでもやっていける貧乏人」みたいなものも含まれるだろうからグラデーションはあるとして)。
かつての夢と希望が詰まったインターネットやITが今や国家を凌駕するものになり、指先一つで世界とつながれる希望は、指先一つで人を殺せるものとなってしまった。それもまた、権力者(この場合はイーロン・マスクやサム・アルトマン)の「俺たちの〜」の現れであると思う。そしてユーザーは使うことで無償でデータを与え続けより肥えさせることになる。
新しい階級闘争と「俺たちの〜」の解体。遠くの虐殺も目の前の不均衡や不条理も解決していくためにこれが重要になってくるのかなと思う。

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今はまだ内心の自由は奪われていない日本でできることはきっとたくさんある。

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