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さっき、近所のスーパーのクレープ屋の前で高齢両親と中年子どもと見られる家族連れが手に手にクレープを持って楽しそうに「そっちも一口」「こっちもおいしい」してて良い景色だなあと思った。

いわゆる「8050問題」も、貧困や介護、孤立、先の見えなさ(もしくはその重複)の果てとして犯罪行為や悲惨な末路が問題になってしまうけど、従来の家族規範からイメージされる「8050像」から外れてしまう抑圧や罪悪感なども問題なのではないのかと思う。
さっき見たクレープ屋前のご家族も見る人によっては「〇〇さんちの△△ちゃん、まだ家にいるのね」「〇〇さんちはこの先どうするのかしら」「誰も働いていないのかしら」など、私が抱いた印象とは真逆になる人もいるだろう。
従来の家族規範からイメージされる「8050像」(マイホームで高齢両親に孫の顔を見せる定職に就いた子夫婦、それが成り立つ中間層以上の暮らし)を素で行けて、それが幸せならそれはそれで問題はないけど、それが「そうあらねばならない」もので、そうしていることを周りにも知らしめなきゃいけいもの(SNS、写真、世間話などで)になると相当な重荷になると思う。
右派が守ろうとする「家族規範」も、素で行けることより「あらねばならない」抑圧のほうが強いんじゃないかという気がする。そんなものを守りあって監視し合うのと、「そっちも一口」と言いながらクレープをぱくつくような、その家族それぞれの楽しいを大切にすることのどちらがより良い社会になるだろうと思えば答えは明白な気がします。

もちろん、先ほどのご家族にだってそのご家族なりの悩みはあるだろうし、私が見立てた関係性ではない可能性も高いからあのご家族が正解、というわけではなく、様々な家族とそれを構成する個人がそれぞれの楽しさを大切にするというイメージの例として受け取っていただければ。
あるようでないような相互監視のような「規範」に縛られても、そこに安住しようとしても、「規範」からの逃避や解放を実践しようとしても、いずれにせよ悩みや不安はつきないし、今の地獄がドラスティックに変わることはない。ただ、どんな地獄の渦中にあっても何かに自分を仮託してしまうことが一番怖いことだと思うのですよね。先の大戦や大日本帝国時代を持ち出すまでもなく、自分を仮託してしまう恐ろしさは散々過去の歴史に見ることができると思うのだけど、その感覚もだいぶ共有が難しくなってきたなと思う。

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