今月号の文學界でこの対談を読んで、「きょうだいだったんだ!」という驚きと、お二人の言葉がパンチライン炸裂で、対談本「文学キョーダイ」も読まねば!と思った次第。無料公開されていたのでぜひぜひ!
対談 奈倉有里 × 逢坂冬馬「二人の合言葉は本」
https://books.bunshun.jp/articles/-/8308
※ぐっと来たとこ引用続き↓
奈倉 それからこの本の「おわりに」にも少し書いたんですが、私は家族というものを特権化したくないんです。ある一定期間同じ家に住んでいたからといって、相手のことを理解しているとは限らない。むしろ、わかったつもりになりがちだからこそ、見えていないこともあって。
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奈倉 そもそも性別とは、基本的には必要なときにだけその特性を発揮するものであり、必要なときというのは非常に限られているんです。それはいわば公私の両極で、ひとつはごく親密な、当人が「この人となら性にまつわる話ができる、そういう関係になれる」と感じ、相手に対して心を許した場合。もうひとつは逆に極端に公の場で必要性のある場合、医療の場などで識別が必要な場合です。そうでない場合――たとえば学校とか会社とか、日常的な交流の場で性差を重視するのは、社会に刷り込まれた一種の強迫観念のようなものですし、それは容易に、強い立場の側から弱い立場の側への圧力を温存する構造につながります。小説のなかの登場人物の性別は、場合に応じて異なる相応の必要性を担っているからその性別になるのであって、著者の生物学的な性とはなんの関係もありません。
※ぐっと来たとこ引用続きの続き↓
逢坂 「異性をうまく書ける」という評価は、その評価を下す側の無意識の前提を示していますよね。そういう人たちは性別を内面に転化していて、その内面化された性別が明確な特性を持っていると考えている。人種や国籍など、他のカテゴリーで考えてみればわかりやすいんですが、それは非常に危険な考え方なんです。
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逢坂 「異性」をことさらに難しいものだと捉えようとするから、逆に変な描写をするひとがたくさんいるわけですよね。異性を特徴としてとらえようとすると、変な決めつけが生じてしまうんです。小説でも、それ以外のジャンルでも、「女性らしく」「男性らしく」書こうとした結果、きわめて珍妙な人物ができあがってしまったりする。それ、ちょっとやめない? と思うんです。
性別によって、社会に差が生じていることは事実です。賃金の格差や社会進出における格差などがまさに問題になっているわけですが、それは内面に差があるのではなくて、置かれている社会構造の問題なんです。