ノートルダムの鐘、ディズプラで見てたから地上波より先に今しがた見終わったんだけど。
冒頭で雲突き抜けてる大聖堂がラストではちゃんとパリのど真ん中にあるの、「信仰は権力者だけのもんじゃねーっ!」ってことなのかな、と個人的に思ったりした。
というのも、フロローという“悪”って、やっぱり“権力者”であるという要素は無視できないよな~と思うので。
カジモドとは違って出歩くこともできて、職業柄色んな人と接する機会あったはずで、あの司祭さんとかピュアピュアカジモドもそばにいて尚フロローって“アレ”なんだよな。
それはフロローが根っからキショいと言いきってしまうよりは、多くの他者と接する機会を持ちながら、生きている他者よりも『フロローにとっての』信仰を選び続けて生きてきた結果なんだよなと思うし、それは“異端を弾圧する”という権力と強固に結びついてしまっている。エスメラルダ追ってるシーンの動員の仕方とか金のばらまき方とか超怖いと思うんですよ。
勿論エスメラルダが歌うように、それは違うだろうが!ってことが映画の言いたかったことなんだろうなって思うわけで……

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カジモドに比べればずっと選択肢があったはずの人に『選ばせ続けてきた』信仰の恐ろしさみたいな見方もできなくはないかもしれないけど、もしそうならエスメラルダの歌はないだろうな、と思うし。

こっからは個人的なエピソードなんだけど、高校の時プロテスタント系の学校で、部活しんどすぎて廊下で泣いてたら聖書の先生に「神様は乗り越えられる試練しかお与えにならないのよ」って慰められたことあって。当時は(私に試練を与えているのは部活の先輩だが!?)と思ったけど、でも今にして思えば、信徒同士ならそういった考え方で何かを分かち合えるんだよな、きっと。
でもフロローは誰とも何も分かち合ってこなかったんだね、と思う。

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