ウチナーンチュが日本人の望む「優しい」ウチナーンチュを演じる様は、「男性」たちの望む「女性」像を無意識に振る舞ってしまう「女性」たちと少しにている。
その縛りから解放されたフェミニストたちが煙たがられる様子を見ていると、琉球・沖縄の決定権回復運動をしている者が疎まれる状況と重なる。
「女性」の権利回復を訴える者たちを「フェミニスト」と揶揄する行為は、琉球・沖縄の自己決定権を訴える者たちを「ナショナリスト」と揶揄することと同じである。
フェミニズムにどれだけ理解があろうと、日本と琉球・沖縄の支配関係をないこととしてしまう者も多い。鞭で打たれるような支配ではなくなり洗練された差別と支配の中では、当事者でさえ自覚できないのも無理はない。
しかし差別や支配・被支配関係は、ただ時間が経てば消えてなくなるものではなく、解決しないまま時間が経つことによって問題はより深刻になってゆく。
だからこそ、煙たがられようと忌み嫌われようと何度も同じ話を繰り返す。「優しい」などと褒められるためにわきまえたマイノリティとなり、マジョリティに媚びるようなエゴイストにはなりたくない。