人間という生物の認知構造の原理として、物語によってしか世界認識ができないことを考えれば、個々の物語が必ず含む公共性を繋ぎ合わせることによってしか「公共」は作り得ないという理解をしています。
日本人の「ファクト」信仰はなんなんだろう、と思います。たったひとつのファクトによってすべてが裁断できるという権威主義的快感が「ファクト」信仰へ向かわせるのだろうと思いますが、昨今、人文系の人でもそう言う傾向が強いことには驚きを覚えています。
「社会学者で立教大特任教授の津富宏さんによると、米国では「物語」化により市民の力を結集し、社会を変えようとする「コミュニティー・オーガナイジング」(住民組織化)の手法が確立されている。ゴミ処理や上下水道の維持といった生活に密着した問題で、ひとりひとりの「物語」が実は公共的なものだという気付きを通じて人々を組織化する。互いの関係を築くために「ストーリー・テリング」が意識的に用いられ、公民教育にも取り込まれているという。」
人を動かす「ストーリー」の力 「涙」から立ち上がり、SNSで増幅 兵庫知事選
https://www.asahi.com/articles/DA3S16104115.html
座右の銘ではないですが、「物語」を考えるときに、いつも私が思い出すのは、先年ノーベル文学賞を受賞したペーター・ハントケの以下の文章です。
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現在の戦争の中でメディアが、あらゆる可能なこと及び不可能なことに対しても、「物語」(「レシ」)、「物語る」(「ラコンテ」「テル」……)という言葉を、それが争い難い真実の証明であるかのように、前面に出すようになって以来、人類史上の最も高貴な言葉の一つである「物語」というこの言葉が、何かいやなもの、長いあいだ使えないものになあってしまっていた。--けれども、いま、ここに、もう一つ、最後の、別の物語、難民や爆撃された人たちと共にある「共感」の物語を提示したい。昔、一人の子供が、ある他の人の苦しみについての物語を聴いた。そのあとでその子は、つと脇へ退き、空気を抱きしめた。
(『空爆化のユーゴスラビアで』元吉瑞枝訳)