世の中全体の価値判断の軸が狂っていき、「正気」がなんなのかがわからなくなる状況は、非常に恐ろしい状態だですが、どうにもならない時というのはあるものなので、そういう時には息を繋ぐことだけを優先して、とにかく潰されないように身を低くし身を潜めて黙って匍匐前進し続けるというのが、最良の生存術ではないかと思います。
福島界隈では、2017年から2020年くらいにかけては、軸が完全に狂ってしまい、その時に気づいたのは、価値判断の軸が狂ってしまうと、本人たちは自分が正気でない、ということにも気づかない、ということでした。
今は相対化されて、少し戻りましたが、その後遺症で部分的に歪な状態のところは残っていますし、振り切れたところは軌道修正が効かないまま、異次元世界が展開されているところもあります。
でも、自分が正気を失っていた人は、いまでも自分はずっと正気だ、と思っている人が大半だと思います。
地軸そのものがずれると、人間は気づけないのだと思います。
その頃に、これはなにをいっても通じないし、どうやっても勝ち目がないなと思って、とにかく潰されないこと、だけを目標に続ける術を学びました。
あきらかにやっていることがおかしく、正気の沙汰ではないのですが、本人たちはまったく邪気がなく、それをおかしいと異論を挟む人もおらず、誰もがすばらしいと褒め称える(馴染めない人は黙って去っていく)、その状態に異論を唱えると、何をいっているのこの人?扱いをされる、という経験をすると、なるほど、アーレントの描いていた全体主義が生まれた時期の価値観の転倒とは、こういうことか、そして、これはごく普通に起こるのだな、と思いました。
価値観の転倒は、まず、論理を無力化することから起きて、たぶん、アメリカをはじめ、今の日本で起きはじめているのも同じことなので、アーレントの『全体主義の起源』の当該箇所は再読した方がいいのではないかと思います。
戦後機能してきた「健全な民主主義」の思考の枠組みで捉えようとしても、いま起きている現象を捉えきれないように思います。