たしかに、映画の最後の方のネタバラシでは着火装置は猫の死体を焼くためと
説明的シーンがあるが、それをだしたところで、放火はやってないということは明確に
わからない。やはり星川くんと放火というリンクは切れないように思った。
マジョリティの大人たちもみんないい人なのだ。堀先生だって、子どものことを思って
やったのだろう。『いい人』が正しいとは限らない、偏見や正しい知識の欠如がクイアに
対して無神経だったりする。
これで、監督の意図は明らかに『怪物』は大人たちであり、マジョリティだけだと思い込む
社会的常識であろう。
しかし、ここまでクイア的人間が差別され迫害されるのを見せつけられ、さらに本人たちの
口から『怪物』という言葉が語られるとき、どうしても社会にとって『怪物』はクイアの
2人というイメージがしてしまう。これはやはりいじめられる立場のクイアからの印象
なのかもしれませんが。
校長先生の誰にでもなれるものが『幸福』だという言葉も曖昧性を含む。『誰にでも』
というのにクイアが含まれているのか、どうか。映画の意図としては、
クイアインクルーシブを指すと思うが、やはり名言を避けられるというのは、
『クイアを除く』という意地悪な解釈も可能だと思った。
とはいえ、この映画はもっと何度も観ての解釈が必要なのかもとも
思う。
さらに言えば、猫の死体のシーンはひょっとして猫を殺害したのではと思わせる。
猫は普通簡単に見つかるところで死なない。なにか(誰か)に襲われたのか、
自然死なのであれば星川くんが死体を運んだのかとも取れる。クイアの異常性を示唆して
いるように受け取られても仕方ないように思えた。
これらの演出は映画に深みをもたすものであるとともに、忌み嫌われるクイアは異常だ
というメッセージともとられかねない。
これはやはり被害者意識が強すぎる視聴者の見方なのかもしれませんが。
逆にあまりにクイアに寄り添った映画だと、マジョリティの期待には応えられないの
だろうとも思う。