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『怪物』が再び話題になっているのでU-NEXT のレンタル配信で観た。
最初に映画館で観たときには、鑑賞後感は良くなかった。クイアでもいろいろな人が
いるから、クイア一般に印象を悪くするということではないと思うけれど、わたしに
とってはたぶん2人の関係性がどうとかいうことでなく、クラスのみんなから囃し立て
られるシーンがもっともトラウマを刺激されるというか、正視に耐えない羞恥心を
掻き立てられるシーンだった。一般的に言えば、いろいろな説明が省かれており、
シーンに語らせる。ちょっと目を離したら、このシーンになんの意味がと思ってしまう。
この映画は何度も観ないと読解できないものがあり、深みを持たせたいい作品だったと思う。
最後の2人が光の中を駆けていくシーンは楽しそうで希望に満ちたものと見ることができる。
けれども、宇宙のビッグランチ(ビッグクランチであろう)で時間が逆回転して、
生まれ変わって幸せになるというイメージが持たれ、かつクイア映画にありがちな悲劇的
終末から、2人は死んだから自由になったのかとも解釈可能な、オープンエンドとも取れる。
仲岡さんが記事のコメントで絶賛していたが、う〜んどうなのか? と思う。
もう一つ映画館で最初に観たときから気になっていたのですが、最初のシーンが放火だった
のは?

たしかに、映画の最後の方のネタバラシでは着火装置は猫の死体を焼くためと
説明的シーンがあるが、それをだしたところで、放火はやってないということは明確に
わからない。やはり星川くんと放火というリンクは切れないように思った。
マジョリティの大人たちもみんないい人なのだ。堀先生だって、子どものことを思って
やったのだろう。『いい人』が正しいとは限らない、偏見や正しい知識の欠如がクイアに
対して無神経だったりする。
これで、監督の意図は明らかに『怪物』は大人たちであり、マジョリティだけだと思い込む
社会的常識であろう。
しかし、ここまでクイア的人間が差別され迫害されるのを見せつけられ、さらに本人たちの
口から『怪物』という言葉が語られるとき、どうしても社会にとって『怪物』はクイアの
2人というイメージがしてしまう。これはやはりいじめられる立場のクイアからの印象
なのかもしれませんが。
校長先生の誰にでもなれるものが『幸福』だという言葉も曖昧性を含む。『誰にでも』
というのにクイアが含まれているのか、どうか。映画の意図としては、
クイアインクルーシブを指すと思うが、やはり名言を避けられるというのは、
『クイアを除く』という意地悪な解釈も可能だと思った。
とはいえ、この映画はもっと何度も観ての解釈が必要なのかもとも

思う。
 さらに言えば、猫の死体のシーンはひょっとして猫を殺害したのではと思わせる。
猫は普通簡単に見つかるところで死なない。なにか(誰か)に襲われたのか、
自然死なのであれば星川くんが死体を運んだのかとも取れる。クイアの異常性を示唆して
いるように受け取られても仕方ないように思えた。
 これらの演出は映画に深みをもたすものであるとともに、忌み嫌われるクイアは異常だ
というメッセージともとられかねない。
 これはやはり被害者意識が強すぎる視聴者の見方なのかもしれませんが。
逆にあまりにクイアに寄り添った映画だと、マジョリティの期待には応えられないの
だろうとも思う。

『怪物』という映画は視聴者にとっての多義性、曖昧性を含むが故に良い映画だとも言えるし、
視聴者の寄って立つ視点によって見方が変わる危険性を含むものなのだろう。
わたしとしてはラストはオープンでいいですが、放火犯を別の誰かとの示唆と、
猫の死因を匂わせるものが欲しいと思った。贅沢な要求かも知れないが。
これも、なにかを見落としているかも知れないことは確かですが。

名言を避けられる(誤)→明言を避けられる(正)
この文章は思いつくままに書いたので、まだ推敲が必要だと思います。失礼しました。

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