新しいものを表示

野田佳彦ってやたらと政治部記者からの人気が高かったから、立憲の代表になったら新聞の立憲に対するいじわる皮肉記事が体感ではギリギリ感じられないレベルで少なくなりそう。それが唯一のいいところかも。いいのかどうかもわからんか。知らんけど。

いわゆるアメリカンニューシネマと呼ばれる映画の中で自分が見たものいちばんヘンテコだなと思ったのが『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』っていう映画なんだけど、見たのが随分前であらすじでも確認してみようかと思って検索かけたら黒柳徹子主演のハロルドとモード舞台版が出てきてびっくりした。来月から公演開始らしい。

浪曲うさぎ さんがブースト

 今週のTRAIN TV、チョコプレネットのジェスチャークイズの3問目、答えが「コンプライアンス」なんだけど、これはあれ?TRAIN TVがつまらないのはコンプラのせいだというエクスキューズ?甘ったれるな!!!

浪曲うさぎ さんがブースト

 そろそろTRAIN TVに言及できることがなくなってきた。このアカウントの存在意義が失われつつある。

近所のスーパーのお米コーナー、お米はまったくない状態でお米の棚の上で「ごはんですよ」の陳列だけが目立っていたので思わず「『ごはんですよ』はごはんじゃないですよ」という箴言が頭をよぎった。

小説『ガニメデの優しい巨人』のネタバレ含む 

『星を継ぐもの』の続編で、ガニメディアン(巨人)と地球人(阪神)のファーストコンタクトものなんだが、そこに出てくる巨人の性質、文化、暮らしぶりがすごくマルクス主義的。

「各人はその能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」を地で行く形で生活し、労働をするというより個人の喜びのために進んで社会に貢献しているだけ。きっつい労働により疎外されたものはいないし、社会に溶け込めずに問題を起こす人物も手厚い福祉を受けていそう。

巨人は進化の過程で他の生物や同族間での生殺与奪を経ずに(人類を科学技術で遥かに凌ぐ)知的生物まで進化しているので競争心がなく、そのため資本主義経済みたいなものも存在しないので、資本主義→革命→共産主義っていう発展段階説みたいな進歩は経ないでそういう状態になっているので、その点ではマルクス主義的ではないとも言えるのだが。

阪神はギャグです。

私は人の性格が相貌に出るみたいな説に世間一般より多分に懐疑的、というか否定論者で(ルッキズムにもつながるしね)、麻生太郎や橋下徹みたいなのが悪人の顔に見えるのはただ単にやつらが悪いというそれだけの話だとしか思ってない。ただのバイアスで悪人の顔の類型みたいなのが存在していると思い込んでるだけだと。私は石丸某を見た時、山添拓と同じ傾向の顔だなと思いましたが、当然のこととして山添と石丸が骨相学まがいの観点から同一の性質をもっている政治家とは夢にも思いません。

自転車のタイヤ&チューブ交換して空気入れようとしたらまったく入らなかった。たぶんタイヤはめてるときにチューブを傷つけちゃったんだろうな。ひさしぶりに交換したからすっごい時間かかったのに・・・

『ダーティ・ハリー』はあきらかに権力側(警察)の暴走としか見れないので、反体制思想をもつ人は違和感を感じずにはいられないだろう。その点へのカウンターなのか続編の『ダーティ・ハリー2』だと暴走する警官を逆に(バッジを捨てて警官をやめたはずの)イーストウッドがこらしめる話になってる。
たしか2ってチミノとかジョン・ミリアスが絡んでたよね。

浪曲うさぎ さんがブースト

アメリカン・ニュー・シネマはほとんど通ってなイノで具体的なことは言えないけど、ヘイズ・コードによる規制の時代を抜けてそれまでより自由にいろんな表現が行われるようになりましたというような事は曖昧な知識として持っているので、そんな言うほど性や暴力の表現はなかったとか今と比べたら大した事ないみたいな話されても全然乗れないな。
ダーティ・ハリーが好きなら好きでそのことを熱く語った方が面白いと思うんだけど、それはどうでもいいってなってるところがますますわからない。
北村さんの批評は面白いし勉強になるので読むけど、同時に自分が映画のこういうところが好きなんだよなっていう側面に北村さんが全然興味がなさそうなのもわかっている。『ダーティ・ハリー』評のそっけなさもそういうところかなと理解している。

ニュー・シネマ時代になってむしろ白人男性中心的な傾向が強まった評価になっているというのが一番ほおっってなった部分かな。やっぱり50年代のハリウッド映画って面白いよねと我田引水的感想を持った。

上の3つの映画の暴力描写をないがしろにするのはさすがにナンセンスの極みだし、暴力やセックス以外の魅力やテーマが映画に存在したとしてもそれは「暴力や性の描写が特徴」という命題を否定することにはならない。「"ニュー"シネマ」って言うぐらいだからヘイズ・コードとかのからみで時系列的な新規性として暴力描写や性描写を特徴としているのは簡単に読み取れそうなのに、そういうのすらわからず「のちの『ダイ・ハード』の暴力描写の方が露骨」とか素っ頓狂すぎることを言っている。

エルビス・プレスリーは出てきたときに表現が性的に過激だったと言われていたんだけど、「現代のアーティストの表現の方がエルビスに比べて圧倒的に過激」って言って「エルビスの特徴は過激なセックスアピールではない(他の魅力もある、バラードも歌ってるし)」とか言い出すようなもんでしょ。

一時が万事こういう調子でにわか氏の脳内のルールや感想でしかないようなものを飛躍した論理で一般化しようとしてるんだよ。そしてその飛躍を穴埋めするかのように論敵に対する中傷や嘲りを入れるんだ。こういうタイプの人、たまにいるし、一番キライなんだ。キライ過ぎて無駄な長文を書いてしまった。

スレッドを表示

にわか氏に対する反論はさえぼう氏が簡潔に行っていて、それは別にさえぼう氏じゃなくても多少の入門的知識さえあれば誰でもできるレベルもの。

だって「ニューシネマは暴力や性の描写が特徴」っていう一般論を否定しようとして持ち出してくるロジックが、『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』『暴力脱獄』みたいなのを持ち出して暴力が描かれているという特徴を否定する、ないしは暴力以外の魅力があるって主張する、みたいなことなんだよ。

スレッドを表示
浪曲うさぎ さんがブースト

ニューシネマについてはわたし全然知らんけどさ
あんな映画やこんな映画もある、ニューシネマの定義に入るか入らないかについて議論の余地のある映画がある、だから一般論としてのちゃんとしたニューシネマって定義なんかない、みたいに言ってはるのがもう、批評以前の話という気がする

どんな用語でも、定義に当てはまるかどうか議論の余地のあるものなんて山ほど存在するよ。だから論文ならまず、冒頭で「ここでは〜をAという用語の定義とする」と明示した上で批評に入るわけでしょ。
議論の余地のあるものがいっぱいあるイコール定義がないとか間違ってるとかじゃないんよ。それはもう、学者さんなら誰でもわかってる、踏まえておくべき当たり前の前提なんよ
それがわかってない時点で議論の土俵に上がれてないんよ

単なる『暴力脱獄』の話になるけど、ゆで卵食べた後にルーク(ポール・ニューマン)がキリストになってるのとか、ラストシーンで十字路を十字架に見立ててるのは最初に見た時からさすが気付いてたが、ルークが脱獄に成功した後、なぜか雑誌に美女をはべらせたルークの写真が載っててそれをジョージ・ケネディが嬉しそうに見ているシーンで、横のページの銃の広告のライフルの銃口がちょうどルークの方を向いていることは3回目の視聴くらいで初めて気付いた。

スレッドを表示

「映画にわか」なる人のことは知らなかったが、なんか興味本位でnoteを読んでしまった。なんというか、知識不足なのも見て取れるけどそれ以前の問題として持論のロジックの組み立てが破綻してて、情念だけで突っ走ってなにもかも飛躍しまくりに見える。こういうの、雑誌に記事書いてるようなライターにもいるけどね。

『卒業』に露骨な性描写がないと言うが、『愛のコリーダ』レベルまで行かないとセックス表現と言っちゃいかんのか(だいたいミセス・ロビンソンとの情事やストリップバーのシーンとか十分「露骨」だと思うのだが)?
『暴力脱獄』の主人公は一切暴力的抵抗をしないと言っているが、暴力に対する非暴力的抵抗を描いたものなら、それは暴力がテーマと言って何の差しつかえもないだろう。あとふつうにニューマンはジョージ・ケネディ殴ってたし。
ずっとこんな調子。

浪曲うさぎ さんがブースト

『暴力脱獄』について。「邦題とは逆に一切暴力的な抵抗をしないキリストのような受刑者(ポール・ニューマン)の物語」と書いているが、確かに主人公ルークの人物造形にはキリストが重ねられているが、この書き方だと非暴力を貫いた聖人のようじゃないか。この主人公が捕まったきっかけ、酔ってパーキングメーター壊すこと自体が暴力だし、刑務所にぶち込まれた後何度も何度も脱獄しては連れ戻されるのは刑務所内に蔓延する暴力に対する抵抗だが脱獄という方法もまた暴力的だと思うんだけど。暴力の解釈が違うんだろうか。あとゆで卵一気食い大会優勝して倒れる(倒れた姿が十字架にかけられたキリスト像を模している)とか、誰かに対する加害ではないけれど自分を痛めつける姿を見せつけて刑務所内での地位を高めていくところがあり、また何度目かの脱獄の後看守に土下座しているところを見とがめられ、今度は刑務所内での地位が下がって迫害の対象になるところなんか、この映画が暴力を描いていないとは絶対に言えない。「ニューシネマは暴力やセックスを主眼とした映画ばかりではない」という結論ありきで映画のテーマまで捻じ曲げないでほしい。『暴力脱獄』という邦題に関してはどうなんだと私も思うけれども。

スレッドを表示
浪曲うさぎ さんがブースト

にわかの人、映画によっては解釈が面白いなと思って時々読んでたが、今回のアメリカン・ニューシネマについては「俺の思うニューシネマ」についてしか語ってないしさえぼう先生が映画史の資料を紐解きながらきちんと反論しているのに対してブルスコで「自分は映画を見て言ってるのに本読んで反論されても」的なこと言っててとにかく自分の解釈中心なので全然だめだな、フェミニズムやクイア表象については物凄く偏りがあってずーっと解像度が低いんだが全然認めない。
実際に見た映画について語ることのが実感がこもってて映画史や批評の歴史の資料を提示するより上なんだって考える人いるだろうな~と思ってたら本人がそうだったのであーあな感じ。昔からさえぼう先生に対する敵意が異常で映画の解釈が気に入らないからってここまで書くかねって思ってたけど。

で、私もそれほどニューシネマを見ているわけではないしさえぼう先生の反論を読んで「勉強になるなあ」と思っているような人間ですが、にわかの人が取り上げた作品についての解釈があまりに私と違うので、それを書いておこうと思ったんだった。

今日はじめてリアルで「バイデンはゴム人間」的な陰謀論を話す人を目撃しました。現場からは以上です。

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。