野田佳彦ってやたらと政治部記者からの人気が高かったから、立憲の代表になったら新聞の立憲に対するいじわる皮肉記事が体感ではギリギリ感じられないレベルで少なくなりそう。それが唯一のいいところかも。いいのかどうかもわからんか。知らんけど。
#知らんけど構文
小説『ガニメデの優しい巨人』のネタバレ含む
『星を継ぐもの』の続編で、ガニメディアン(巨人)と地球人(阪神)のファーストコンタクトものなんだが、そこに出てくる巨人の性質、文化、暮らしぶりがすごくマルクス主義的。
「各人はその能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」を地で行く形で生活し、労働をするというより個人の喜びのために進んで社会に貢献しているだけ。きっつい労働により疎外されたものはいないし、社会に溶け込めずに問題を起こす人物も手厚い福祉を受けていそう。
巨人は進化の過程で他の生物や同族間での生殺与奪を経ずに(人類を科学技術で遥かに凌ぐ)知的生物まで進化しているので競争心がなく、そのため資本主義経済みたいなものも存在しないので、資本主義→革命→共産主義っていう発展段階説みたいな進歩は経ないでそういう状態になっているので、その点ではマルクス主義的ではないとも言えるのだが。
阪神はギャグです。
アメリカン・ニュー・シネマはほとんど通ってなイノで具体的なことは言えないけど、ヘイズ・コードによる規制の時代を抜けてそれまでより自由にいろんな表現が行われるようになりましたというような事は曖昧な知識として持っているので、そんな言うほど性や暴力の表現はなかったとか今と比べたら大した事ないみたいな話されても全然乗れないな。
ダーティ・ハリーが好きなら好きでそのことを熱く語った方が面白いと思うんだけど、それはどうでもいいってなってるところがますますわからない。
北村さんの批評は面白いし勉強になるので読むけど、同時に自分が映画のこういうところが好きなんだよなっていう側面に北村さんが全然興味がなさそうなのもわかっている。『ダーティ・ハリー』評のそっけなさもそういうところかなと理解している。
ニュー・シネマ時代になってむしろ白人男性中心的な傾向が強まった評価になっているというのが一番ほおっってなった部分かな。やっぱり50年代のハリウッド映画って面白いよねと我田引水的感想を持った。
上の3つの映画の暴力描写をないがしろにするのはさすがにナンセンスの極みだし、暴力やセックス以外の魅力やテーマが映画に存在したとしてもそれは「暴力や性の描写が特徴」という命題を否定することにはならない。「"ニュー"シネマ」って言うぐらいだからヘイズ・コードとかのからみで時系列的な新規性として暴力描写や性描写を特徴としているのは簡単に読み取れそうなのに、そういうのすらわからず「のちの『ダイ・ハード』の暴力描写の方が露骨」とか素っ頓狂すぎることを言っている。
エルビス・プレスリーは出てきたときに表現が性的に過激だったと言われていたんだけど、「現代のアーティストの表現の方がエルビスに比べて圧倒的に過激」って言って「エルビスの特徴は過激なセックスアピールではない(他の魅力もある、バラードも歌ってるし)」とか言い出すようなもんでしょ。
一時が万事こういう調子でにわか氏の脳内のルールや感想でしかないようなものを飛躍した論理で一般化しようとしてるんだよ。そしてその飛躍を穴埋めするかのように論敵に対する中傷や嘲りを入れるんだ。こういうタイプの人、たまにいるし、一番キライなんだ。キライ過ぎて無駄な長文を書いてしまった。
ニューシネマについてはわたし全然知らんけどさ
あんな映画やこんな映画もある、ニューシネマの定義に入るか入らないかについて議論の余地のある映画がある、だから一般論としてのちゃんとしたニューシネマって定義なんかない、みたいに言ってはるのがもう、批評以前の話という気がする
どんな用語でも、定義に当てはまるかどうか議論の余地のあるものなんて山ほど存在するよ。だから論文ならまず、冒頭で「ここでは〜をAという用語の定義とする」と明示した上で批評に入るわけでしょ。
議論の余地のあるものがいっぱいあるイコール定義がないとか間違ってるとかじゃないんよ。それはもう、学者さんなら誰でもわかってる、踏まえておくべき当たり前の前提なんよ
それがわかってない時点で議論の土俵に上がれてないんよ
「映画にわか」なる人のことは知らなかったが、なんか興味本位でnoteを読んでしまった。なんというか、知識不足なのも見て取れるけどそれ以前の問題として持論のロジックの組み立てが破綻してて、情念だけで突っ走ってなにもかも飛躍しまくりに見える。こういうの、雑誌に記事書いてるようなライターにもいるけどね。
『卒業』に露骨な性描写がないと言うが、『愛のコリーダ』レベルまで行かないとセックス表現と言っちゃいかんのか(だいたいミセス・ロビンソンとの情事やストリップバーのシーンとか十分「露骨」だと思うのだが)?
『暴力脱獄』の主人公は一切暴力的抵抗をしないと言っているが、暴力に対する非暴力的抵抗を描いたものなら、それは暴力がテーマと言って何の差しつかえもないだろう。あとふつうにニューマンはジョージ・ケネディ殴ってたし。
ずっとこんな調子。
『暴力脱獄』について。「邦題とは逆に一切暴力的な抵抗をしないキリストのような受刑者(ポール・ニューマン)の物語」と書いているが、確かに主人公ルークの人物造形にはキリストが重ねられているが、この書き方だと非暴力を貫いた聖人のようじゃないか。この主人公が捕まったきっかけ、酔ってパーキングメーター壊すこと自体が暴力だし、刑務所にぶち込まれた後何度も何度も脱獄しては連れ戻されるのは刑務所内に蔓延する暴力に対する抵抗だが脱獄という方法もまた暴力的だと思うんだけど。暴力の解釈が違うんだろうか。あとゆで卵一気食い大会優勝して倒れる(倒れた姿が十字架にかけられたキリスト像を模している)とか、誰かに対する加害ではないけれど自分を痛めつける姿を見せつけて刑務所内での地位を高めていくところがあり、また何度目かの脱獄の後看守に土下座しているところを見とがめられ、今度は刑務所内での地位が下がって迫害の対象になるところなんか、この映画が暴力を描いていないとは絶対に言えない。「ニューシネマは暴力やセックスを主眼とした映画ばかりではない」という結論ありきで映画のテーマまで捻じ曲げないでほしい。『暴力脱獄』という邦題に関してはどうなんだと私も思うけれども。
にわかの人、映画によっては解釈が面白いなと思って時々読んでたが、今回のアメリカン・ニューシネマについては「俺の思うニューシネマ」についてしか語ってないしさえぼう先生が映画史の資料を紐解きながらきちんと反論しているのに対してブルスコで「自分は映画を見て言ってるのに本読んで反論されても」的なこと言っててとにかく自分の解釈中心なので全然だめだな、フェミニズムやクイア表象については物凄く偏りがあってずーっと解像度が低いんだが全然認めない。
実際に見た映画について語ることのが実感がこもってて映画史や批評の歴史の資料を提示するより上なんだって考える人いるだろうな~と思ってたら本人がそうだったのであーあな感じ。昔からさえぼう先生に対する敵意が異常で映画の解釈が気に入らないからってここまで書くかねって思ってたけど。
で、私もそれほどニューシネマを見ているわけではないしさえぼう先生の反論を読んで「勉強になるなあ」と思っているような人間ですが、にわかの人が取り上げた作品についての解釈があまりに私と違うので、それを書いておこうと思ったんだった。
赤城の山も今夜を限り
生まれ故郷の国定の村や
可愛い子分の手めえ達とも
別れ別れになる首途だ
And we're living here in Allentown