『肉弾』は話的には気の抜けたブラックコメディで、かなりサイケデリック。軍隊はアホらしくしか描写されない。映画の後半部分は広い砂浜にひとりで敵兵の襲撃に備えているうちに変な人たちと交流するシーンがずっと続く。昔の映画らしく差別用語も出てくるし、セックスワーカー蔑視、女性蔑視的な描写も多い。基本的に日本の侵略という側面はとりあげられていない。
この話ですらある意味での特攻の美化だとは思うけど、少なくともイケメン俳優の英雄的な悲劇としては描かれていない。たぶん大谷直子と結ばれるのも主人公の妄想でしかない。
『あの花が咲く丘で』は、制作側から「戦争について考えるきっかけにしてほしい」みたいなコメントが出ているが、特攻をヒロイックな悲劇として描いてもなにもいいことはないと思う。戦意高揚映画じゃないんだから。
『肉弾』が作られた背景には、1950年代に特攻を美化する作品が出てきたことに対するアンチテーゼの面があるということを今年放送されたNHKのドキュメンタリで言ってた。
その番組のキャプを発見したので貼っておく。以下文字起こし。
この作品は日本の50年代に流行した神風映画の慣習に反しているんです。これら50年代の日本映画はある意味ジレンマに陥っていました。
イギリスやアメリカにとってはどうでもいいことだったのです。私たちは戦争に勝ったからです。
英雄を目にすることもできました。残虐な行為もすべて絨毯の下に押し込められました。軍事裁判を受けることもありませんでした。犯罪者扱いもされませんでした。
しかし、日本人は、日本の映画人はこの問題にどう対処したのでしょうか?
若者たちが神風特攻隊として出撃するために恐ろしい犠牲を強いられたのですから、彼らを犯罪者とは言えません。誹謗中傷することはできないのです。
そこで日本映画界は発想を逆転させました。
彼らを「悲劇のヒーロー」という考え方に結びつけていったのです。
しかし、この考え方は政治的にも利用されました。
神風特攻隊を作ることを思いついた大西瀧治郎は、遺書にこう書きました。「日本は戦争に負けるが
この特攻精神で将来日本を再建する」のだと。
つまり「失するとも気高く」という考えです。
『肉弾』はそのような通念を取り上げて愚かだと言ったのです。岡本はこれをブラックコメディに絶対的な茶番劇に仕立てるのです。