特攻隊×女子高生×青春映画
が見たいなら岡本喜八の『肉弾』を見ればいいのに。
主人子はラピュタのムスカ(寺田農)、内容は『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』とほぼ同じ。
特攻隊とタイムスリップする(?)女子高生の青春物語。
寺田演じる21歳の兵隊に対する壮絶な懲罰・いじめから始まるんだけど、いじめてる上官が田中邦衛のためにコントにしか見えません。
すでに沖縄は陥落、敗戦ムードが漂う中で主人公は特攻の命を受け、1日だけ休暇をもらいます。
そこで女学生(大谷直子)と出会い、急展開で結ばれます。女学生はうさぎ年生まれなので「うさぎ」と呼ばれます。
最終的に主人公は田中邦衛に人間魚雷としての出撃を命じられます。魚雷にくくりつけられたドラム缶に入って海に繰り出します。
ところが海を漂っている内に戦争は終わり、主人公は通りかかった屎尿投棄船に一旦は救出されます。しかし曳航中ロープが外れてドラム缶ごと沖に取り残されます。
場面は23年後(映画公開年)に移ります。ビーチは海水浴客で埋め尽くされ、若者の乗ったボートがドラム缶の周りを回り、離れていきます。
ドラム缶の中では白骨化した死体が「うさぎーーー!」「バカヤローーー!」と叫んでいます。
よーく見るとビーチではしゃぐ若者の中には大谷直子がいます。
その番組のキャプを発見したので貼っておく。以下文字起こし。
この作品は日本の50年代に流行した神風映画の慣習に反しているんです。これら50年代の日本映画はある意味ジレンマに陥っていました。
イギリスやアメリカにとってはどうでもいいことだったのです。私たちは戦争に勝ったからです。
英雄を目にすることもできました。残虐な行為もすべて絨毯の下に押し込められました。軍事裁判を受けることもありませんでした。犯罪者扱いもされませんでした。
しかし、日本人は、日本の映画人はこの問題にどう対処したのでしょうか?
若者たちが神風特攻隊として出撃するために恐ろしい犠牲を強いられたのですから、彼らを犯罪者とは言えません。誹謗中傷することはできないのです。
そこで日本映画界は発想を逆転させました。
彼らを「悲劇のヒーロー」という考え方に結びつけていったのです。
しかし、この考え方は政治的にも利用されました。
神風特攻隊を作ることを思いついた大西瀧治郎は、遺書にこう書きました。「日本は戦争に負けるが
この特攻精神で将来日本を再建する」のだと。
つまり「失するとも気高く」という考えです。
『肉弾』はそのような通念を取り上げて愚かだと言ったのです。岡本はこれをブラックコメディに絶対的な茶番劇に仕立てるのです。
『肉弾』は話的には気の抜けたブラックコメディで、かなりサイケデリック。軍隊はアホらしくしか描写されない。映画の後半部分は広い砂浜にひとりで敵兵の襲撃に備えているうちに変な人たちと交流するシーンがずっと続く。昔の映画らしく差別用語も出てくるし、セックスワーカー蔑視、女性蔑視的な描写も多い。基本的に日本の侵略という側面はとりあげられていない。
この話ですらある意味での特攻の美化だとは思うけど、少なくともイケメン俳優の英雄的な悲劇としては描かれていない。たぶん大谷直子と結ばれるのも主人公の妄想でしかない。
『あの花が咲く丘で』は、制作側から「戦争について考えるきっかけにしてほしい」みたいなコメントが出ているが、特攻をヒロイックな悲劇として描いてもなにもいいことはないと思う。戦意高揚映画じゃないんだから。
『肉弾』が作られた背景には、1950年代に特攻を美化する作品が出てきたことに対するアンチテーゼの面があるということを今年放送されたNHKのドキュメンタリで言ってた。