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蔡さんが『墨攻』読んでましたが、最近の『HUNTER×HUNTER』で念能力「墨攻」が登場したからなんじゃないかと個人的に推理してる。
『墨攻』は原作から逸脱していくオリジナルの部分が物凄く面白かった印象。大概忘れているので再読必須だな。

表現はかなり配慮されていると思うが、他の出版社から刊行されるとは思えないな。面白いんだが。
幻の一冊となるか

作者に関しては(個人的な感想として)関わり合いになりたくない人物の一人である。今回の書籍回収騒動も「またやってるな」という茶番劇程度の認識だったが、ここにきてこれは「あまりにも酷い」との感想をもった。
まだ、さわりしか読んでないのではっきりとは言えないが、現時点では、本作が出版されて一番嫌がるのは「ネトウヨ」でしかないんじゃないか。
フィクションとノンフィクションの境界もわからないような者が編集者として存在することの方が驚きだ。

いちいち“最上級の酒”って『最上級』を「ここメモれ‼︎」みたいに言ってくるのも好き。

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90歳近くまで生きた葛飾北斎は、長寿の秘訣について、何かっていうと「『“最上級“の酒』を取り寄せて、それで高麗人参とか?煮詰めて、飲んでるヨ! もちろん自家製だよ!」と“最上級“の酒でナンカを煮詰めるのを至上としていた。
江戸時代の話だけど、現代の「“〇〇エキス”ってカラダに良さそうだべ」という根拠不明の謎の説得力があって面白い。

流行病が怖すぎて、いまや「高麗人参エキス」まで飲むようになった。
「民間療法の鬼」と呼ばれている。

手塚治が「異形のもの」たちが活躍する『どろろ』を描いたのは水木しげるの存在が多分に影響していたと思うが、手塚治の描く「異形のもの」についてはどこか理屈で創り出しているような印象を受ける(もちろん天才が描けば面白いものができるのだが)。
それに比して、水木しげるの描く「異形のもの」たちは問答無用のいつも傍にいるもの、身近な存在として描かれているような感じがする。
典山と圓朝、黙阿弥の描く「武士」という存在の感覚としての違いは、水木しげると手塚治の描く「異形のものたち」の違いに似ている。

『チェンソーマン』のアクションシーン、アップに逃げないで欲しい。それだけが、個人的に不完全燃焼。

黙阿弥も圓朝も、武士という存在(キャラクター)をどこか別の人種のような描き方をしているように感じる。生まれてから死ぬまで町人として生きる彼らは、理屈で「武士とはこういうものだ」と定義して武士というキャラクターの行動原理を作っていたのではないか。
それに比して、武士としての背骨が生まれながらにして通されてる典山には定義不要の理屈が存在しているように思う。
迫力とは何かとカタチづけるなら、典山の描く武士の行動原理ではないか。それは、とても魅力的にうった。

『作品集-講釈場のある風景』面白い!
演芸に馴染みのない層から演芸ファンまで幅広く楽しめる良書。さらに、国会図書館デジタルアーカイブにて錦城斎典山の講談書き起こし本を読んでいた層にはかなり痺れる内容だ。個人的に、講談本を通じて読む典山の講談は、武士の台詞まわしがリアルで、三遊亭圓朝や河竹黙阿弥の台詞まわしには欠けている迫力を感じた。

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