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黙阿弥も圓朝も、武士という存在(キャラクター)をどこか別の人種のような描き方をしているように感じる。生まれてから死ぬまで町人として生きる彼らは、理屈で「武士とはこういうものだ」と定義して武士というキャラクターの行動原理を作っていたのではないか。
それに比して、武士としての背骨が生まれながらにして通されてる典山には定義不要の理屈が存在しているように思う。
迫力とは何かとカタチづけるなら、典山の描く武士の行動原理ではないか。それは、とても魅力的にうった。

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