「小説丸」にて、春日太一さんが映画『魔界転生』を持ちあげるために、小説『魔界転生』をこき下ろしてるのを読んで驚いた。
氏に指摘されている小説の弱い部分に関しては、当時の読者としても同様の思いを抱いていたので全く異論はない。が、それにしてもだ。 
山田風太郎は伝奇時代小説のパイオニアである。
風太郎さんが今までその類の批判に晒されなかったのは、読者からの絶大なリスペクトがあったからだろう。山田風太郎以前の伝奇時代小説といえば、歴史を題材として扱っていたとしても、虚実ないまぜで、読者が喜べば何でもやるといった風潮があり、楽しいとは思っても、もの足りない部分が多分にあった。
その中で、山田風太郎作品にはそれが無かった。
衝撃的だったし、刺激的で、知的で、教養で遊ぶということはこういうことかと風太郎作品で初めて体験した。
山田風太郎は『風眼抄』の中で伝奇時代小説を書く上での戒として「限度を超えた歴史の勝手な改変や捏造は許されない」と語っている。
エッセイの中の言葉を借りれば、山田風太郎は、一から十まで嘘っぱちで固めるような浅はかな芸当ではなく、命綱なしで一本のロープを渡り切る、根性の据わった「伝奇小説の曲芸」をやってのけた稀代の作家であったのである。

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その上で、『魔界転生』という小説の評価を、局所的なプロットの弱さや、キャラクターの魅力の軽減によって貶めるべきではない。
映画版が優っている理由として氏が挙げている「老中・松平伊豆守を早くも暗殺した上に、ガラシャの色香で将軍・家綱を籠絡。魔界衆は天下を取ってしまう」「炎に包まれる江戸城天守閣で幕府の侍たちを片っ端から斬りまくり」といった部分は、明らかに歴史の改変・捏造がされている箇所である。
その結果、伝奇時代小説のパイオニアである風太郎作品の戒めをあっさりと破壊しつくし、客が喜べば何でもやるといった類の時代を一つ前に巻き戻した作品になってしまった。
個人としては、そこが逆に残念だ。
だが「のらくろ」のレビューに「キャラが弱い」などと本気の感想が書かれない時代に、風太郎作品が古典としてではなく、現役の作品として取り扱われるのは、まだまだ風太郎作品が「オワコン」(終わったコンテンツ)として認識されていない証左だと思う。
だが、改めて言う。
このような作品を、映画版を持ち上げるためだけに貶めるべきではない。

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