ユースカルチャーは性的魅力とオブセッションに満ちていて概して痛々しいものだけれど、若い人にしかない魅力があるのもたしかなことなんで、ポップカルチャーに携わる若い人たちにはぜひともその若さのエッセンスを絞り尽くしてほしいと思う。
今朝『アンチマン』読んで、Twitter上の批評を見て、ずっと考えてたんですけど、映像メディアっていうか視覚表現においてスマホの扱いって難しくないですか。マイク・ミルズの『カモンカモン』を見たときにも思ったんだけど、映像に関しては、カメラの中にカメラがあると、どうしても入れ子の構造になっちゃうじゃん。視聴者は画面の中に別の画面を見ることになるわけでしょ。仮にこれを「外部」としよう。『アンチマン』の主人公は常にスマホの中のSNSの無数の声、その多声性に常に苛まれている。ここで作者は虚構に侵食された現実が入れ子であることを認めた上で、それを冷笑し「外部」にお前の想像を上回るようなものなんてないんだよ、というメタメッセージをクリシェの使い回しによって表現しようとする。いわくすべてが予定調和的で、既視感のある世界にあって、たとえカメラ=スマホがそこにあっても出口なんかないし、どこにも行けないのだと。漫画は静止画だし比較的操作が楽かもしれないけど、これが映画だったらどうだって話だよ。スマホはもはや小道具ですらなくほぼ誰でも持ってるものだし、かつスマホの台数の分、SNSのアカウントがあるものと考えていいでしょう。とすると、どうだろう。期せずして、ここで「人生は劇場、人はみな役者」が実現しているんじゃないでしょうか。
(I can't stop loving you)
I've made up my mind
To live in memory of the lonesome times
(I can't stop wanting you)
It's useless to say
So I'll just live my life in dreams of yesterday
(Dreams of yesterday)