…修辞学的思考は、普遍的であると同時に惰性化、 固定化されやすい〈共同幻想的〉な論理学的思考を刺激し、動かしていく役割を担っているのである。このことは、〈異化〉という述語によく現れている。 大江健三郎は、この〈異化〉をヴィクトル・シクロフスキーを参考にして説明している。彼は「日常・実用の言葉は、われわれの現実のなかで自動化、反射化している」という。このことはとりわけ説明する必要はあるまい。ものの認知がされていないのならば、我々の生活はスムースには動かないだろう。しかし、このスムースさに「もの」そのものの実感を涸れさせていき、我々の意識を冷たく硬化させ、平板化させる。そこで、そのような平板な意識を目覚めさせるものとして〈異化〉が行なわれる。
ありふれた日常的な言葉・クタビレをいかに洗い流し、仕立てなおして、その言葉を、人間がいま発見したばかりでもあるかのように新しくすること。 いかに見なれない、不思議なものとするか、ということ
これが大江が〈異化〉 の定義とするものである。
『喩法論序説』(https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2013/01/veritas03-10.pdf)