…あらためて氏の文章をふりかえると、その最後の病床での言葉のはしばしにいたるまで、氏はつねにただ行動と同義語の「書き方」でのみ語った人であったと端的に納得されるのである。それゆえに僕は氏の死の報せを悲しみつつ、その悲しみが時の流れによって穏やかにとけさってゆくものでないと予感する。それは重く硬いものとなって僕の意識にとどまり、いつまでも根本的な反省をうながしつづけるであろう。根本的な反省とはなにか?それはあの行動の「書き方」の人間にとって僕の「書き方」はいったい何であったろうか、あの死者の魂から発する光が、僕の「書き方」の全体をふたたび徹底的に照し出しているのではないか、という恐しい反省にほかならない。その反省に立ちながら、しかもなお僕は自分の「書き方」で書き、そのむこうに新しい自分の「書き方」をつくりだそうとするほかない。
大江健三郎『状況へ』プロローグ「書き方」の問題より