方言を方言に翻訳するには、ステレオタイプを2回通過しなければならない。
たとえばスコットランド風の英語を「田舎者」というステレオタイプで解釈し、「田舎者」というステレオタイプに基づいて日本語の東北方言のどれかに翻訳する、など。
問うべきことはたとえば、著者が戯画的にステレオタイプを投影しようとしているのか、それともそこに自然とあるものとして登場させているだけなのか。前者の場合、翻訳にステレオタイプを分かりやすく表すことがむしろ求められるが、後者の場合は日本語の役割語的表現だと「翻訳者が勝手に」「翻訳者独自の主張を追加して」やっていることになってしまいがちである。
翻訳でだじゃれや韻をうまいこと作り直すのとは、ちょっと違った繊細さが求められると思う。