もう一つの文章は、2019年にフジテレビに入社した政治記者のインタビュー記事。ツイッターで少し話題になったので、覚えている人もいるかもしれない。
「Q. 報道の部署にいる中で心がけていることや、大変なことはありますか?
A.大変なことは、取材先との距離の取り方でしょうか…。記者である以上、視聴者に届けるための情報を取ってこなければいけない、引き出さなければいけない。でもいきなり教えてくれるわけもなく、一方的な取材は失礼だし…試行錯誤の毎日です。こちらの都合で取材対象者の方にお話を伺うこともありますが、向こうも忙しいよな、向こうの都合もあるのに申し訳ない…と思ってしまいます。なので、私が取材先の立場だったら「嫌」と感じることはしないようにしています。相手が心地いいと思える距離で、相手の心に寄り添い、信頼されるような記者とは、と客観的に考えながら行動しています。」(出典)https://jj-jj.net/lifestyle/151688/
同じ職業に関する記述とは思えないほどの違い。前者のマッチョさは現代ではやはり受けないだろうし、いまの若い人からは後者のスタイルが好まれるのはわかる。
大学の授業で紹介している二つの文章。一つは1970年代に共同通信に入社し、その後にフリーライターになった魚住昭のもの。
「そもそも無断録音がすべていけないなんて誰が決めたのか。取材倫理?馬鹿を言ってはいけない。我々が守るべき原則は二つしかない。読者にとって必要不可欠な情報を提供すること、つまり真実を明らかにすることとニュースソースの秘匿である。
この二つに照らして記者の行為は正当かどうか判断される。真実を伝えるためなら時には社内規則どころか法律だって破る。ニュースソース秘匿のためなら刑務所入りも辞さない。その気概がなければ記者とはいえない。
つまりジャーナリズムは本質的にアウトローな商売なのだ。それを忘れて「無断録音はやめましょう」とか「お行儀よくしましょう」といった小学校レベルの規則を新聞が作ったりするか政治家になめられるのである。
…朝日よ、NHKよ、いやすべての記者たちよ、思い出せ。俺たちゃもともとヤクザなんだということを。」(魚住昭(2006)『国家とメディア 事件の真相に迫る』ちくま文庫、pp.28-29)。
先日、この件で取材を受けたので、24時間有効の無料で読めるURLを発行しました。ぼくが話した内容よりも、コメント欄の米重克洋さんの発言のほうが読み応えがありますね...
ちなみに、上の記事には出てこないんですが、記事を直接書かせないにしても、AIを活用する必要はあるだろうし、世界的にもそういう方向に向かっているんじゃないか、という話はしました。
https://digital.asahi.com/articles/ASR9Z5RDSR9SUTIL00D.html?ptoken=01HBMA5AYJHMHG0X8HH16BAF8P
研究者が別の研究者を批判するというときに、「○○を糾弾する!」みたいなアビジラ的方法をとることはまずなくて、「○○の仮説は検証されなかった」「○○とは別の解釈がありうる」等々の言い方になるし、そもそもタイトルにもなってもないので、論文の内容をちゃんと読まないと批判していることが分からない。
でも、もっと根本的な「批判」もあって、それが最初から言及しないというやり方。あまりにも与太話である場合、先行研究としてすら言及しない。論壇誌などで暴れている人をみると、近寄りたくないというのが正直なところになる。
先行研究のレビューもまともにしないような人の文章なんて、批判的な言及ですらしたくないというのが正直なところで(批判というのは批判に値する人物に対して行うものだ)、触らぬ神に祟りなしということになる。論壇プロレスなんかに関わるのは時間の無駄だと思う人が多いだろうし。
ツイッターなんかだと、そういうのが「自浄作用のなさ」と言われるのだろうけれども。