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『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンと聞くと頭に浮かぶのは、淀川長治さんが『太陽がいっぱい』はゲイ映画だと指摘したという話で、思い出したついでに検索したら吉行淳之介との対談を引用している記事が出てきた。

rectischiac56.rssing.com/chan-

引用すると、

淀川  なぜ、そんなことわかるかというと、映画の文法いうのがあるんです。一番最初、ふたりが遊びに行って、三日くらい遅れて帰ってくるでしょう、マリー・ラフォレの家へ。マリー・ラフォレのこと絵本でも買ってごまかそういって。ふたりが船から降りる時ね。あのふたりは、主従の関係になっている。映画の原則では、そういう時、銃のほう、つまりアラン・ドロンが先に降りてボートをロープで引っ張るのが常識なのね。ところが、ふたりがキチッと並んで降りてくる。こんなことあり得ないのよ。そうすると、そばで見ていたおじいちゃんが、あのふたり可愛いね、いうのね。そして、絵本渡したら、マリー・ラフォレ怒ってしまうでしょう。あの映画、マリー・ラフォレとモーリス・ロネ、マリー・ラフォレとアラン・ドロンのラヴシーンほとんどないのね。

(引用終わり)
こういうのを解像度が高いっていうのか知らないが、細かいところよく観てるなあって。

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