まあ、映画評論は、むかしより今のほうが良いんじゃないのかなあ。
というのは、ほんの四半世紀ぐらい前までなら、中野翠が書いた映画評の本に対して、なんだか難しいことを書いている映画をろくに見れていない人間の本よりもとてもいい、という種類の書評がヌケヌケと書かれていた。それも出版社のPR誌に書かれたぐらい。
もっとも、それであるならば「大衆」のための「大衆芸能」で「映画」はなくなったのか、と思うひともいると思う。
けれども、いまの社会の難しさはTwitterみたいなところで、いかにも昔であれば「一般大衆」ごのみの陰謀説が展開されて、イーロン・マスクがそういう陰謀説を展開するアカウントに施しを与えているという構造がむき出しになっていることのような気もする(想像されているような大衆なんて、本当にいるのだろうか)。
ようは蓮實重彦を下げに下げ、中野翠を持ち上げている書評になってしまっていたのだけれど、そのひとたちはもう中野翠の映画評に関心を持っていない状況なので、あの読者はどこに行ったのだ?という気もするのだ。
QT: https://fedibird.com/@ohmitakaharu/113020660687947991 [参照]
そういう作品そっちのけみたいな評論と、その評論をめぐる評論みたいな自意識の回廊みたいな文章は商品にならなくて、そういうのはよくもわるくもタダで書かれタダで読まれるネットでしか【読まずに済む】時代になってくれたのですよ。
(ちなみに、その書評を書いた人物が誰かを調べると、この10年ぐらいの映画評の状況を考えると、ちょっと驚くと思う)