BT)した川瀬貴也先生の投稿で、「思想が強い」というネットスラングがあることをはじめて知った。
しかし、これを読むと「思想が強い」の発話者はどうも、「統治権力に従順」で政治権力を批判する人には「肩をすくめ合って」いる「右翼」ということのようだ。
川瀬先生がここで言及している「反維新、反原発、反差別」などは「強い思想」がなくても、人としての「常識」があれば、当然のこと。
この発話者達はまだ大学の先生に対しては「思想が強い」というやや中和的な言葉を使っているけれども、同級生に対しては、もっと右派的な態度を露骨にとっているだろう。
ま、こういう「弱きを挫き、強きに媚びる」人間、若くてもいつの時代にもいるものである。
しかしそうでない学生もいる。
むしろ多数派だといってもいい。ただ、そういう学生は「思想が強くない」ので、右派学生の「声の大きさ」に圧倒され、萎縮することになりがちである。
であるから、川瀬先生が「思想の強い」態度を示すのは、「公共的」に大きな意味をもっている。とても立派なことだと思う。
それにしても、「思想が強い」と他人を貶める態度は、要するに権力者に「媚びる」、伝統的な「日本の無思想」の反復としか感じないのは私だけだろうか?
[参照]
「思想が強い」んじゃなくて「思考が弱い」ってことだよね
思考が弱くなるのは、糧となる客観的で体系的な知と哲学が足りないからだと思う
人々からそれらを奪うものは何か?
ホモ・サピエンスはそれを真剣に問わなくてはいけない瀬戸際に立っていると思うのだが…
QT: https://fedibird.com/@yoshiomiyake/112106070511670248 [参照]