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昨年から、自分はなぜこんな思いをしなければならないのか?と苦悩する時間が続いている。自分のせいなのか、または社会の変化がたまたま自分に降りただけの災厄なのか。暗く重い感覚が心身に常に絡みつき、恒例になった日曜の午後に始まるさらに深い憂鬱は、今日も変わらず存在している。
心は息も絶え絶えというに近い感じで日々生きているが、とても細いけれども何とかここまで正気を保ち続けられているのは何の助けによるのか少し考えてみると、音楽の存在があると思う。昨年から再び聴き始めたピアノ曲全般(クラシック)で、ショパンの「幻想ポロネーズ」を知った。暗く重いフレーズがゆらゆらと形を変え、時々少し明るい空気も纏いながら、これでもかと言わんばかりに何度も現れ、去っていく。苦しんでいるところに、また暗く悩ましいものが来ると余計に憂鬱になるのではないか……と思われそうだが、何度か聴くうちに最後のffの明るい和音の衝撃に魅せられのめり込むようになり、自分だけの世界で心の安定を持つことができている。

芸術は、どう解釈して自分の書棚に保管できるかが受け手の自由に任され、他の誰からも損壊されないのが良い。この曲は自分にとって、最後の明るい大音量の和音が、今の苦しみまで含めた長く辛い時間が終わった先にある希望と、それが自分の想像以上に叶う喜びなのではないかと(都合よく)思っている。
芸術と似たものに、「教養」があると思う。数年前、Twitterで内藤昌典さんが
「教養って、行き詰まっているときに、どこか思わぬ方角から、光が差し込んでくる、その光の源だと思う。」
と指摘されていたのは至極で、今の自分は、まさにこの現象を体験するさなかにいるのではないかとよく思う。
それならば、その光の源であるピアノに自分が親しむきっかけになったことに、まずは感謝しなければならない。よくある例で、就学前の学習の一つとして親が習わせたことが始まりで、芸術、技としての芸事、教養に少しでも触れて人生の興味の糸口になる可能性を与えようとしたのだろう。中学3年で教室通いは止め、演奏レベルは素人の域から出られはしなかったが、今となっては親の行動は正解のなかの正解だったのだと感じる。この点、親には大感謝である。

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